2012年08月11日

歩歩是道場

『歩歩是道場』
   「維摩経」より

閑静な修行場で、落ち着いて修行を
おこないたいと、良い修行場がないか
探していた修行僧がいました。
その修行僧が、
街にむかって歩いている維摩居士と
道で出会いました。
どこから来たのか訊ねてみると
道場からきたとの返事がありました。
その道場は、どこにあるのですかと
訊ねると、「直心是道場」との
答えがかえってきたそうです。
真っ直ぐで、素直な心があれば、
どんなところも道場でり、
修行の場であるということです。

何かを学んだり、
夢に近づくために何かをするとき、
それを行うために必要なのは、
心のありかたであり、
場所や環境などは、
どうでもよいものであるということを
教えてくれている言葉です。

修行の場は、心の中にあり、
研鑚の場も、心の中にある。
だから、電車の中でも、家の中でも、
道すがらであっても、
修行は出きるし、学びも出来る。
何ごとをなすにも、
環境や条件は、二の次であり、
まずは心の持ち方、ありようが
大切であるということですね。
posted by 清水の伏竜. at 04:22| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月10日

掬水月在手

『掬水月在手』
    于良史

みずをきくすればつきてにあり

自分だけが運がない、
恋人にも、お金にも、仕事にも
恵まれない、
世の中は、不公平だ、
そんな事を考えていては、
だんだん他人をひがみ、ねたみ、
ひっぽけな人間になっていってしまうもの。
道は、誰にでも、開かれていて、
希望の光は、みんなに、そそがれている。
池の水に、月の光が映っていたら、
それを手に掬ってみる
すると手の中にも、月の光は映っている。
そう、誰にでも、チャンス、
希望、可能性を、手にすることは
可能なのだ。
その可能性、チャンスを、
自分の手にとるのか、黙って見過すのか
その差だけに過ぎないもの。
そんなことを語りかける詩の一節です。
仏法の恵みは、誰にでも
平等に与えられるものであり、
神の恵みも、愛も、誰にでも
そそがれているものなのです。
それに気がつくか否かで、
人生は、大きく変化していくことに
なるのかもしれませんね。
posted by 清水の伏竜. at 01:00| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月09日

立秋がすぎて・・・

立秋がすぎて、
「残暑お見舞い申し上げます」
という挨拶の季節になりました。
早速に、台風が、
日本にやってきました。
残暑の暑さによる夏ばてなどに
気をつけつつ、
台風による災害が、
少ないことを願ってやみません。
残暑見舞いの挨拶、
日本の季節感のあるよき慣習ですね。
大切にしていきたい挨拶の
ひとつではないでしょうか。
posted by 清水の伏竜. at 07:30| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月08日

明歴歴露堂堂

『明歴歴露堂堂』
   「五燈会元」より

心の目をひらき、五感をつかい、
ありのままの姿を、
しっかりとみつめよう。
自然は、天地は、常に、
明かであり、堂々と存在している。
心の曇りや、かげりが、
その姿を見えなくしていること
感じなくしていることに
気づいて、世界をみつめよう。
そうすることで、
何かが変わってくる。
何かを感じることができる。
「明歴歴」の世界や
「露堂堂」の世界は、
いつも、あなたの側にあり、
近くにあるのだから、
それがみえないのは、
あなたが、みようとしないから。
ほんの少し、勇気をもって、
目を見開き、五感と心を全開にして、
世界をみつめてみよう。
きっと、何かを得られるはずだから。
posted by 清水の伏竜. at 03:09| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月07日

主人公

『主人公』
   「無門関」より

「瑞巌の師彦和尚、
 毎日自ら主人公と喚び、
 復た自ら応諾す」

主人公、禅語で、
「本来の面目」
仏性を具えた本来の自己、
真実の自己のことを
意味しているそうです。
だれもが、
自分の人生においては、
主人公であるということを
忘れないで、いたいものですね。
何か、迷ったり、
悩んだり、誤った道へと進みそうになったら
自分の本来の姿を、
人生の主人公として、
あるべき姿を、振り返って
求めてみることが、
大切なのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 03:19| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月06日

自灯明 法灯明

『自灯明 法灯明』

釈尊が亡くなる間際に、
弟子が「師が亡くなられたあとは
何を頼りに生きたらいいのでしょか?」
と尋ねたそうです。
すると、釈尊は、
「自らを灯りとせよ、法を灯りとせよ」
と答えたそうです。

自分の力で、自分の存在を信じて、
他に依存することなく、生きていけばよい。
それでも困ったら、仏法を頼りに
すればよい。
自ら、出家して、修行の道を歩み
悟りをえた釈尊の言葉らしい言葉だと
思います。

自分の灯りを、少しでも大きくしていく
その努力が、自分の歩んでいく道の先を
照らしてくれるということ
ですね。
自分を信じられずに、
他人を信じることなどできないしょうし、
自分を愛せずに、
他人を愛する事などできないでしょう。
そして、
人生をともに歩んでくれる人と出会い、
2人の灯りで進めるようになれば、
より他しかな歩みを、
人生の中で、進んでいけるのでは
ないでしょうか。
posted by 清水の伏竜. at 22:59| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月05日

照顧脚下

『照顧脚下』

何か、大きなものを求めて、
遠くをみつめていて、
なかなか物事がうまくいかないこと
そんなことはありませんか。
自分の足元を、
照らして顧みることが、
そんな時には必要なのかもしれません。
身近なことに、気をつけて
顧みることができないようでは、
何ごともうまくいかないもの。
この言葉は、そんなことを
戒めてくれています。
posted by 清水の伏竜. at 23:04| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月04日

一期一会

『一期一会』
   「山上宗二記」より

一期=人の一生。
一会=唯一ただ一度の出会い。

人生のなかでの出会い。
それが、どんな出会いであっても
貴重な一時。
一生のなかで、人が出あう回数は
限られたものです。
それが、よく知る友人や、
家族との出会いであっても。
だから、出会いの時、ともに過ごすときを
大切にしていきたいものですね。
直ぐに会える、
いつでも会える、
そう思っている相手であったとしても
もしかしたら、その出会いが
最後になってしまうかもしれません。
だからこそ、どんな出会いえあっても
大切にしていきたい、
大切にしなければならない。
そうなのだということです。
posted by 清水の伏竜. at 05:14| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月03日

木鶏鳴子夜

『木鶏鳴子夜』
    「荘子」より

闘鶏の訓練をする名人がいて、
王のための闘鶏を育てていたとき、
王が、戦いの場へとデビューさせてよいのではとの
問いかけに、なかなか、よい返事をしませんでした。
何十日かたったころ、
ようやく名人は、王に「他の鶏が鳴くのを聞いても
まるで木の鶏のように、平然としてるように
なりました」といって、闘鶏のデビューにOKの
返事をしたという話からきている
言葉だそうです。
虚勢をはったり、
威嚇したり、
相手に対する対応が、
大げさで、強くみえるようでも
そんな状況では、まだまだダメ。
本当に強いものは、
どんなときでも、泰然自若として、
無為自然で、どっしりと構えていられるもの。
人として、人格者足り得るには、
無我無心で、人に尽くすことのできる
ようでなければならないということです。
木鶏のように、動じない人間に
あなたは、なれますか。

なかなか、なれそうでいて、
なれなかったりするものです。
心を常に平安に保つことは、
以外と難しいことですからね。
posted by 清水の伏竜. at 07:15| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする