2011年10月31日

人生の道、職業の道、理想への道、あらゆる道は、

『人生の道、職業の道、理想への道、あらゆる道は、
 苦徹を踏んで初めて大道へ達することができるのである。』
   中山 博道

 日本の文化には、道という考え方があります。
どのようなものであっても、それを究めるためには
その道を歩んでいくことが必要であり、
その道には、苦労もあれば、壁もあり、
困難もあるわけです。
それにしっかりと向き合って、
取り組み、徹底的に実行していくことで、
はじめて、その先が見えてくるということでしょう。
道を究めるためには、それなりの覚悟と努力が
必要であり、そこには、勇気と信念と知恵が
求められるということでしょう・・・・・

 
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2011年10月30日

自らをマネジメントするには、自らが何者であるか、

『自らをマネジメントするには、自らが何者であるか、
 自らの強みは何か、成果をあげるにはどう働くか、
 自らにとって価値あることは何か、
 自らが得るべきところはどこか
 を知らなければならない。』
   P・F・ドラッカー


 自分自身をどのように成長させていくのか
そのために何をなすべきなのか、
その答えのひとつなのかもしれません。
 マネジメントする、
自分自身を自分自身の手で、
それは、自分を知ることでもあり、
自立への一歩なのかもしれません。
 自分が何者なのか、
 自分の強みは何なのか、
 自分が働くとは何の成果の為なのか
 自分にとって価値あるものは何か
 自分が得るべき必要なものは何か
生きていくにあたっての自分と
自分の未来のあるべき姿、
そこに向かうために必要なもの、
それらを、しっかりと認識しなおすこと、
それが出来て、はじめて、しっかりと
前に進んでいくことが出来るのだと
いうことなのでしょう。
それは、他人をマネジメントするときに
おいても、ポイントが変わるわけでは
ありません。
 ただ、まだ未熟であるなら、
自分の強みも、自分が何であるのかも、
自分にとっての価値観も、
自分にとって必要なものが何なのかも
わからないかもしれません。
よく、子どもたちにも同じようなことを
求める人がいますが、それは大きな誤りです。
なぜなら、子どもたちは、まだ自分自身のあり方を
理解し認識できるだけの成長を成していないの
ですから、したがって、大人が親が、
指導して、導いていく必要があるわけです。
子どもに求められるのは従順であり、愚直であると
いうことでしょう。
子どもにしたい事は何と問うのは愚かであるのは
当たり前です、どんなことが出来るのか、
出来ることは何なのかということも知らないの
ですから、だから、これをしてみてはという
具体的に何をするのかを示してあげなければ
いけないということなのです。
学び、知識を得て、その上で、はじめて
判断することが出来るようになるということを
なぜか忘れてしまっていたりする大人が
いるようです。
 自分自身を知ることの大切さは、
もちろんですが、自分自身を知るために、
すべきことは何かは、まさに与えられたもの
チェンスにチャレンジしていくしかないと
いうことだといえるでしょう・・・・・・。
どれだけのものを与えられるのか、
それが大人の子どもに対する責任であると
いうことではないでしょうか・・・・・

 
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2011年10月29日

仲よきことは美しき哉

『仲よきことは美しき哉。』
   武者小路 実篤


 やはり、人と人が、憎しみあっていたり、
嫌いあっているようすは、
みていて美しいものではありません。
苦しくなってくるのではないでしょうか、
美しいと感じるものであれば、
やはり、そのには仲良きこと、
信頼や絆といったものが見えていると
いうことですね。
 震災の中、互いに支えあい助け合う人々の
姿を美しいと感じた方も多いのでは
ないでしょうか、
美しさにもいろいろあるとおもいます。
そして、その感じ方も人それぞれであることでしょう。
しかし、それを美しいと感じるものには
そう感じないものとは違う、
背景が存在しているということは、
間違いのないことでしょう・・・・

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2011年10月28日

望みを持ちましょう。でも多すぎてはいけません

『望みを持ちましょう。でも多すぎてはいけません。』
   モーツァルト

 生きていくために、
 人生をより充実したものとするために
 人は、望みをもつことが
 必要であるということです。
 そう、希望を持つこと、
 夢を抱くこと
 それが大事であるというわけです。
 でも、希望や夢は、沢山あれば良い
 わけではありません。
 沢山あるということは、
 実は、単に迷っているだけであると
 いうことなのですから、
 迷いなく抱くことの出来る望みこそ
 叶えるだけの価値があるものだと
 いえるのではないでしょうか
 ほんの限られた数の希望、夢、
 だからこそ、それに向かって集中して
 歩んでいくことができるのでは
 ないでしょうか
 ひとつもないのは哀しすぎます
 でも、多すぎるのは哀れすぎます
 より素晴らしい時間を
 生きていくために、
 素敵な夢、素敵な希望を、
 しっかりと抱いて、歩んでいけるように
 考えていくことが大切なのだと・・・・

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2011年10月27日

自分のうしろ姿は自分じゃ見えねんだなあ

『自分のうしろ姿は自分じゃ見えねんだなあ。』
   相田 みつを

 自分自身のことでもわからないことはある。
自分のことがすべてわかっていると
勘違いしてしまうと、思わぬ落とし穴に
落ち込んでしまうこともあるでしょう。
そう、自分の後姿は、自分では見ることができないように
自分ではわからない部分が、人には必ずあるものなのです
だから、人は自分自身について、
過信することなく、自分自身に謙虚であることが
大切なのだといえるでしょう。
そして、人生を歩むにあたっては、
一人っきりではいられないということです。
誰かとの関わり合いなしに、生きていくことは
あり得ないということです。
そんなとき、自分自身のことを、
きちんとみてくれる人が、側にいたなら
きっと、より良き人生を歩んでいけることでしょう。
そんな人との出会いが、人を変えていって
くれるわけですね・・・・・
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2011年10月26日

逆境が人格を作る

『逆境が人格を作る。』
   トルストイ


 人の性格は、どのようにしてつくられるのか
まさに、今世での心身の成長の過程で、
構成されていくわけです。
ベーシックとなる深い部分では、魂の成長により
異なることになるでしょう。
それは、魂のもつカルマ、徳分の差でもあります。
そして、今世で、なすべき成長の予定、
神によりあたえられた運命の流れを、
どのように生きていくのか、
そのなかで、つくられていくものであるとも
いえるでしょう。
そして、成長するためには、楽ではいられない
ということです。
逆境にあってこそ、成長していくことが
可能となるともいえるでしょう。
すなわち、人格は成長の結果として、
つくられていくわかですから、
成長するために必要な逆境などが、
つくっていくことになっているのだとも
いえるわけですね・・・・・

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2011年10月25日

われ若し片足を墓に入れるとも、われは学ぶことを欲するだろう

『われ若し片足を墓に入れるとも、われは学ぶことを欲するだろう。』
   ダンテ


 学ぶことの重要さ、大切さを伝えてくれている
言葉のひとつです。
人は生まれたとき、魂の記憶は封印されて
精神の上にはあらわれてきません。
まっさらな心身のもとで、この世に生まれ、
魂が宿ることになるわけです。
それゆえに、心身の成長のためには、
学ぶことが必須です。
学びとは、学問だけでなく、運動することや
行動すること、言葉や力など、いろんな事を
含んでいます。
まず、親や身近な人の真似をすることで
学んでいくわけです。
そして、学びの内容は、成長の過程のなかで
変化していきます。
そして、逝くときまで、学びは続くということです。
学ぶことを止めたなら、それは生きているとは
いえないのかもしれません。
いかに貪欲に学ぶのか、
それによって、成長の速度も内容も変化していくと
いうことですね・・・・・・

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2011年10月24日

自由とは、人間が完成を目指して行う冒険のために

『自由とは、人間が完成を目指して行う冒険のために
 欠かすことのできない条件である。』
   パウロ・フレイレ


 自由とは何か、自由とは、人にとって
どんなものであるのか、
人が完成を目指して歩むときに、
必要不可欠なものだということですね。
でも、本当にそうでしょうか。
もしかしたら不自由なことが、
人を成長させ、完成へと導くのかもしれません。

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2011年10月23日

高慢な相手には、服従すれば勝てると考えるのは誤りである

『高慢な相手には、服従すれば勝てると考えるのは誤りである。』
   マキャヴェッリ


 高慢な人というものは、
どこにでもいるものです。
すべてが自分の思い通りになるとおもっていて
自分が正しく、それ以外は認めない
そんな人を相手にするのは、
並大抵のことではありません。
 服従していれば、こっちのものだと
いう考えは、勝利ではなく敗北だと
いえるでしょう。
服従は、相手の支配下に入るということですから。
支配されるものが、支配するものに
勝利しているのかと問われれば、
否としか答えられないようにおもいます。
では、どうすれば勝てるのか、
納得させること、それしかないのかもしれません。
相手の高慢な心をそれほど傷つけることなく
納得できる着地点に誘導してあげる
自分で決めたように勘違いさせてあげること
そうできたなら、勝利したといえるのでは
ないでしょうか。

 
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2011年10月22日

過去は過去として葬らしめよ

『過去は過去として葬らしめよ。』
   志賀 直哉


 過去を引きずるということは、
よくあることです。
でも、人は今を生きているわけですから、
過去をどうこうしても、未来には繋がりません。
そもそも、過去は変えられないものであるわけです。
過去は、過去として、記録としてみるだけで
未来に向かって、重要なのは、今のことであると
いうわけでしょう。
 でも、過去から学ぶことは多々あるのも
事実です。その学びをいかにして今と未来に
活かしていくのか、それもまた、
まさに今、なすべきことであると
いうわけですね・・・・・

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2011年10月21日

真の勇気は第三者の目撃者のいない場合に示される

『真の勇気は第三者の目撃者のいない場合に示される。』
   ラ・ロシュフコー


 勇気をもって行動するというとき、
人にみられているからという後押しがあるより
誰にもみられていないのに、行なえる方が
より真実なものであるということですね。
 これは、勇気だけでなく、いろんなことに
同じように言える事でしょう。
他人の目というのは、ひとつの大きな圧力となり
行動や決断を後押ししてくれるものです。
しかし、それがない状態であったなら、
まさに自分自身だけの行為であり、
判断であり、能力であるものが出たということに
なるわけです。
 勇気ある行動も、誰にもみられていない状態で
行なえるもののほうが、その人のもっている
本当の勇気の発露であるといえるだとうと
いうことなわけですね。
でも、人が見ていなくても、聖霊や悪魔、
エンティティは、みています。
悪行をすれば、悪魔に付込まれますし、
エンティティを怒らせるようなことをすれば
その報いを受けることになるでしょう。
みられていないそんな時空間は、この世には
存在していないということです・・・・・

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2011年10月20日

エネルギッシュで成功する人間は

『エネルギッシュで成功する人間は
 欲望という幻想を現実に変えることに
 成功する人間である。』
   フロイト


 欲望を現実に変えるというと
非常に即物的な印象を受けますが、
エネルギッシュであり、
成功する人間には、そんな活力が
必要なのかもしれません。
 夢を実現するために、
夢への再現なき欲望が必要であると
いうことでしょう。
欲は、人を動かす大きな原動力の
ひとつであることは、間違いのない
事実であるのですから・・・
 しかし、人は、欲望のままに
生きることしかできない存在では
ありません。人は理性をもった存在で
あるのです。
欲望を制御して、理性で論理的に
物事を考えていくことが出来る
それが、人という存在にのみ与えられた
ものであることを、どう捉えて歩んでいくのか
それは、大切なことであると・・・・

 
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2011年10月19日

人よりはほんの少し多くの苦労、

『人よりはほんの少し多くの苦労、
 人よりほんの少し多くの努力で、
 その結果は大きく違ってくる。』
   鈴木 三郎助


 結果を左右するものには、いろんなものが
あるでしょう。その中にあって、何が大事なもの
なのか、それについても、いろんな意見が
あるのではないでしょうか、
結果を大きく左右するもの、
その要素のなかに、この言葉の伝えるものが
含まれることは、間違いないとおもいます。
苦労と努力、
それは、まさに、成長のために必要なものです。
人の成長と同時に、魂の成長にも関わるものだと
いえるでしょう。
ゆえに、神は、人が苦労するための環境を
人が努力しなければならない環境を
魂の成長のために与えて下さいます。
それが、まさに神の愛ということです・・・。

 
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2011年10月18日

人は二つの方法によって生きる

『人は二つの方法によって生きる。
 つまり、社会に従うか、自然に従うかである。』
   ヴィクトル・ユーゴー


 人生、人が生きる方法、
それには、社会に従うのか、自然に従うのか、
そのどちからしかないというわけです。
社会に従うとは、人の法に従うということであり
自然に従うとは、神の法に従うということなのかも
しれませんね。
しかし、多くの人は、人の法に従うことを
選ぶでしょう、なぜなら、その方が、この世では
生きやすいということになります。
神の法に従うことは、実は非常に大変であり
難しいことだからです。
イエスさまは、神の法に従ったがゆえに
人の法によって、処刑されてしまいました。
何に従って生きるのか、
それを選択するのは、人それぞれ自分の責任と
いうことになります。
どのように生きるべきなのか、
少しでも良い人生を歩むために、
どんな道を行くべきなのか、
難しい選択であるといえるでしょう・・・・

 
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2011年10月17日

考えることなく読むというのは、

『考えることなく読むというのは、
 建築材料をただ積み重ねるだけで、
 何も建築しないのと同じだ。』
   タゴール


 読書について、どのようにアプローチするのか
本から何を得るのか、または、得られるのか、
そのために、何をすべきなのか、
情報へのアプローチにあたっての心構えを
語っているともいえるでしょう。
 考えることなく、文字を追うだけでは、
そこからは何も得ることは出来ないと
いうわけです。情報をいう材料を得ても、
それを使えるようにならなければ
無駄なものになってしまうというわけですね。
 読書については、速読というものも
あります。その本に書いてある情報だけを
ピックアップしていくわけですが、
確かに情報源として本を捉えたときには
効率的ではあるものの、
本は、単なる情報だけのものではありません。
芸術を感じるものでもあったりします。
そんな感性を感じ取るのに速読は適さないと
いえるでしょう。
ゆったりと、文字とその背後にある
著者のメッセージや物語を紐解いていく
そんな読書も時には大切であるのでは
ないでしょうか・・・・・。

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2011年10月16日

過まれるを改むる善の、これより大きなる無し

『過まれるを改むる善の、これより大きなる無し。』
   慈円


 善とは何か、善に大小の違いはあるのか、
善の価値とは何なのか、
そもそも善とは、何を基準としたものなのか、
人の考えや思想は、さまざまです。
 善について、いろんな人が、いろんな言葉を
残しています。こでもそんな言葉のひとつです。
いろんな人の考えを学ぶことは、
そのなかで、自分自身の考えを確認していく為でも
あるといえるでしょう。
善を考えるなら、やはり、その基準は人の社会に
求めるのではなく、神の叡智に求めるべき
でしょう。ただ、神の善は、時として
この世では善というイメージとかけ離れたものに
なってしまうこともあるものです。
善を成すのは良いことですが、
それが神に評価されるか否かは、
その行為の動機が何であるのかが重要になってきます。
神は結果をみるのではなく、動機をみるからです。
 よりよき善をなすために・・・・・・・・

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2011年10月15日

臆病か暴力か、そのどちらか一方しか選べぬ場合は、

『臆病か暴力か、そのどちらか一方しか選べぬ場合は、
 わたしはぜったい、暴力を勧める。
 ─だが、暴力によらぬ抵抗のほうが暴力より
 無限にすぐれていると、わたしは思う。』
   マハトマ・ガンジー


 臆病と暴力、結局のところは、
どちらもダメだということです。
その二者しか選択肢がないなら、
臆病であることよりも、暴力を選ぶというのは、
主張しないことよりも主張することの方を
選ぶべきであるということに過ぎません。
実際には、暴力ではなく、暴力以外の方法で
主張することの方が良いということです。
暴力無き抵抗をおこなって、
社会を動かしていったガンジーらしい言葉であると
いえるでしょう。
暴力がダメなのは、それが生み出せるものに
負の連鎖という重石が付きまとうからであり
多くが悲しみや憎しみしかもたらさないからだとも
いえるでしょう。
 抵抗せずに主張することは、
楽なことではありません。暴力の方が簡単であり
楽なことだといえるでしょう。
しかし、そこから得られるものは大きな差があります。
その差のために苦労することは、
大きな価値があるということです。
 ガンジーはヒンズーであり、ジャイナに学んだ
ベジタリアンです。
その思想や行動も、そんな学びのなかから
出てきたものであるといえるでしょう。

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2011年10月14日

明日の真理は昨日の過誤によって培われ、

『明日の真理は昨日の過誤によって培われ、
 克服すべき矛盾背反は僕たちの成長の土壌にほかならない。』
   サン=テグジュペリ


 過ちや間違えは、誰にでもあること
それは、成長のための糧であるということ
ゆえに、それを悩みの種にするのではなく
克服するための成長のチャンスとして
捉えていくことが大切であるということです。
人は、矛盾したところがあるものであり
背反することや、壁、障害、困難に、
ぶつかるものでもあるわけです。
しかし、どんなことも、明日の成長のために
与えられたものであり、
真理へと近づくための課題ということで
あるともいえるというわけです。
そんな成長のための土壌は、誰にでも与えられていて
そのチャンスをどのようにつかむのか、
それは、それぞれの人の手に委ねられている
ということなわけですね・・・・・

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2011年10月13日

人間は恋と革命のために生まれて来たのだ

『人間は恋と革命のために生まれて来たのだ。』
   太宰 治


 恋と革命のために生まれてきた
太宰らしい言葉なのかもしれません。
でも、人が生まれてきたのは、
そんな理由からではなかったりします。
神の叡智に辿りつくことなく逝ってしまったゆえに
こんな言葉を残すしかなかったのかもしれませんね。
 人が何のために、この世に生まれてきて
そして、逝くのか、
その本質は、神の叡智のなかにのみ存在していると
いうことです。
それを知り理解できるか否かは
その人の魂の成長具合によって大きく変化することでしょう。
知りえても理解できない人もいるでしょうし、
知ることも出来ない人もいるでしょう。
それは、まさにその人それぞれの存在位置により
変わってくるものであるということなのです・・・・
ゆえに、いろんな解釈や、いろんな考えがあるのは
当然のことでもあり、
それを否定することに意味があるわけでもないのです。
なぜなら、知ることのできない人に、
それを理解することが出来ないのに、
その考えをもって、考え方を変えることなど
出来るはずがないからです。
もちろん、いつの日か、理解できる人生を歩むときが
くるわけですが、それはいつになるのかは
まさに、その人の魂次第なわけですから・・・・・。

 
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2011年10月12日

自然が、精神にまで達した物質であるように

『自然が、精神にまで達した物質であるように、
 芸術は、物質の衣をまとって現れる精神である。』
   オスカー・ワイルド

 自然と芸術を、物質と精神になぞらえて
芸術とは何かを問いかける言葉でしょうか
自然とは、まさに素のままのものであり、
その持つ美は、素材である物質がそのままに
表現されたものであるのに対して
人のなす芸術は、物質をもとに人の手によって
精神が与えられた表現物であるといった
ところでしょうか。
しかし、自然もまた神の手による芸術であり
人もその自然のなかのひとつの存在であるとも
いえるわけです。
自然が、物質だけでなくスピリチュアルなものを
抱いているように、人が創りあげるものにも
スピリチュアル的なものが埋め込まれるという
ことがあることは確かなことです。
神により人にのみに許されたこと
それは人にのみに与えられた理性であり
創造力と想像力であるということでしょう。
ゆえに、人のみが芸術というものを
持つことが出来ているということですね・・・

 
posted by 清水の伏竜. at 02:10| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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