2011年08月31日

少しの欠点も見せない人間は馬鹿か偽善者である。警戒せよ。

『少しの欠点も見せない人間は馬鹿か偽善者である。警戒せよ。
 欠点の中には美点に結びついて美点を目立たせ、
 矯正しない方がいいというような欠点もあるものである。』

   ジューベール

 欠点のない人はいない、
その欠点をどう思うのか、
今の社会は、欠点を非難し、それを直すことに
注力するような風潮があるために、
暗くなっているのかもしれません。
多少の欠点には目を瞑って、
美点を伸ばしていくことこそが、
実は、大切なことであるということに
多くの人が気付いていく必要があるのかも
しれないということです。
特に教育者として指導者としての立場に
ある人には、求められるべきことだといえるでしょう。
 欠点を直したために、ダメになってしまう
そんなこともあるというわけです。
どうしても直すべき欠点もあるでしょう。
しかし、そんな欠点は、数少ないものだと
いえるのではないでしょうか。
欠点は、たんに、それが得意ではないとか、
それが苦手といったレベルのことであれば、
無理に直す必要もないといえるでしょう。
それよりも、美点、得意なこと、自分が自信のもてるものを
しっかりと育くみ、成長させていくことの方が
ずっと大切であり、重要であるということです。
多くの優れた人は、まさに得意な部分が飛びぬけていて
でも、欠点もいろいろ持っているという
感じであったりするものですから・・・・・・・・

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2011年08月30日

想像力は知識よりもっと大切である

『想像力は知識よりもっと大切である。』
   アインシュタイン


 知識は、情報の蓄積であり、
誰でもできることであったりします。
しかし、想像力は、その人の能力であって、
他から得ることの出来ないものであるわけです。
ゆえに、想像力は、知識よりも
得がたいものであるといえるでしょう。
だからこそ、知識よりも大切であると
いうわけです。
知識の中から、何かを生み出す力、
それが想像力であるともいえるからです。
 想像力を育むためには、どのような教育が
必要なのか、それはやはり、自分自身で
考えることを繰り返すということであるように
おもいます。
与えられたことをこなすことも重要であり、
それが出来た上で、そのなかから、
自分なりの認識と解釈から、新しいものを
生み出していく、
芸術や音楽、図工といった教育が重要であるのは、
まさに、自分で創造するとか、感じるといった
ことを学ぶ機会であるからだとも
いえるようにおもいます。
読書もまた、そんなツールのひとつですね。

 
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2011年08月29日

何かを成し遂げるために面倒なことなど何もない

『何かを成し遂げるために面倒なことなど何もない。』
   ナポレオン・ヒル


 夢に向かって、目標に向かって、
歩みだしているなら、
その過程において、どんなことがあったとしても
どんな状況に陥ったとしても、
面倒だと思えるようなものは、
何もないというわけです。
すべてが、ゴールに向かっていくために
必要なことなのだから、
それをひとつひとつ成しとけていくことが
ゴールに近づくことになるのだからと
理解し、認識しているからだということでしょう。
つまり、目標に向かって、
何かを成し遂げるために、活動しているなら、
その活動になかでは、面倒だとは感じるような
ことがあるはずはないというわけです。
もし、面倒だと感じるようであれば、
それは、成し遂げるものを失っているか
見失っているということになるでしょう。
面倒だという気持は、大きなアラームであるとも
いえるのかもしれません。
 グループで活動していたなら、
誰かが面倒だと感じだしたら要注意ということでも
あるでしょう。
 モチベーションを維持できなくなると
なかなかゴールにたどり着けなくなると
いうことですね・・・・・・・・

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2011年08月28日

デメリットのあるところにこそ、ビジネスチャンスがある

『デメリットのあるところにこそ、ビジネスチャンスがある。』
  小倉昌男


 メリットではなく、
デメリットのあるところに、
チャンスがある。
 これは、デメリットがあるとことには
何かが足りない、何かの要求があるのに
満たされていないといったことが
考えられるからこそ、
それを埋めるものを見出せば、
ビジネスチャンスとなるということです。
物事は常に、それをどう捉えるのかによって
同じことであっても、
まったく違うものになって見えてくるものです。
ピンチもチャンスになり得るし、
苦痛も幸福になり得るということです。
 この世の多くのことは、人が勝手に
その状況を判断して、ある枠に押し込んでいるとも
いえるでしょう。
その枠は人がつけたものであるならば、
人が変えることは可能であるということです。
 メリットがあるからとおもっていたら
落とし穴に落ちることがるように、
デメリットしかないとおもえるところに
宝物が見つかることもあるというわけです。
 どうなるのか、どうすべきなのか、
それは、その人の心次第ということなのかも
しれません・・・・・・・

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2011年08月27日

人間の知性は眼鏡ではなく、意志と感情で曇った鏡である

『人間の知性は眼鏡ではなく、意志と感情で曇った鏡である。』
   F・ベーコン

 人の知性を何に喩えるのか、
ものごとを良くみえるようにする眼鏡なのか
それとも、曇った鏡なのか、
本来の姿としては、知性は、眼鏡であるべきだが、
残念ながら、多くの人が、
その意思と感情によって、はっきりと映し出す
鏡を曇らせてしまっているということ
 知性は理性的であり、論理的であるべきもの
だからこそ、人にだけ与えられていて、
神の叡智に近づける唯一の手段でもあると
いえるでしょう。
しかし、人はまだ未熟、ゆえにこの世的なもの
心によって縛られてしまっていると
いうことです。
意識と感情は、この世的なものであり、
でも、その方向性が、神の叡智により
定められるのであれば、善きものとなりえも
するでしょう。
しかし、人の視点で、欲望という名の楔に
捉われていると、それは、曇りを生むものとなり
真理への扉を閉ざすものとなってしまうと
いうことです。
 行動することは重要なことです。
その行動を促すために、意思は必要です。
それは勇気ともいわれるものですし、
決断力ともいわれるものでしょう。
感情は、多くの場合、神を遠ざけます。
悪魔や天使、スピリッツやエンティティを
惹きつける要素となってしまうものが殆どです。
ゆえに、感情的であることは、
魂がまだ幼いということでもあるのかも
しれません。
 意思も感情もコントロールできるもの
それは、理性と知性によって成されます。
だから、それを鈍らせるものを、
神は嫌うということなのです。
神が嫌うものを愛好し、嫌うことを成すことは
カルマを増やすということでもあります。
神が喜ぶことを愛好し、喜ぶことを成すことは
徳分を積むということでもあります。
 人生を深いところで豊かにしたいのであれば
選ぶべきものは明確です。
ただ、選択権はすべて人にあるということを
わすれてはならないでしょう。
そして、誰がどのような選択をしたとしても
それを人が責めることなど出来ないということも
確かなことであるといえるでしょう。
 人生は、与えられた霊性修行を成すべき道で
あるのですから。

 
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2011年08月26日

人はどんな高い所にでも登ることができる

『人はどんな高い所にでも登ることができる。
 しかし、それには決意と自信がなければならぬ。』
   アンデルセン


 夢を抱くとき、その夢が、どんなにか
途方のないものであったとしても、
その高みに挑戦して、登りきることが
人にはできるということです。
しかし、それを成すためには、
それなりの資格が必要というわけです。
それは、決意と自信をもっていること。
 決意と自信、なかなかもてそうで
もてないものでもあったりします。
多くの人が、悩み苦しみ、躊躇するのは、
決意と自信が無いからなのですから、
その決意と自信をどのように持ち得るのか
そこが重要であるということに
なるでしょう。
その方法は・・・・・・・・・。

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2011年08月25日

なせは成る為さねは成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり

『なせは成る為さねは成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり。』
   上杉 鷹山


 物事を成し遂げようとおもったら
結局のところは、行動するしかないと
いうことです。
何かを成す為には、それを成す為のことを
しなければだめだし、
何もしなければ、結局何も成すことは
できないということなのです。
何かが、成し遂げられなかったとき、
それは、結局、その人が、成すべきことを
しなかった結果でしかないということです。
 人は、成し遂げられなかったとき、
その理由を他に探すものです、
自分はしっかりやったのに、
やるべきことは実行したはずなのに、
そういっていても、実は、本当に成すべきために
必要なことを、していなかったから、
成せなかっただけだというわけです。
その事実から目を背けても、何も得るものは
ないでしょう。
 成せなかったら、それは、成すべき人が
何もしなかったということだと、
何かしていたとしても、それは、成すべきために
必要なものではなかったか、
必要なものが足りなかったのだと
いうことなのです。
そこを反省して、次のステップに進むならば
成長という成果を得られることになるでしょう。

 
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2011年08月24日

『運、不運はナイフのようなものだ。その刃を握るか、柄を握るかで、

『運、不運はナイフのようなものだ。その刃を握るか、柄を握るかで、
 我々を傷つけたり、我々の役に立ったりする。』
   ローウェル


 運がある、不運だ、・・・
そんな言葉をみみにするとき、
みなさんは、何を感じるでしょうか。
運とはなにか、ラッキーということなのか、
運というものを、どの様にとらえるのかは、
その捉え方でかわってしまうということを
この言葉はいっているのかもしれません。
ナイフのように、握るところによっては、
傷つくこともあれば、役にたつこともある。
つまり、捉えどころによって、
良いことをもたらすかもしれないし、
悪いことをもたらすかもしれないと、
 運とは、必ずしも、それを得た人にとって
どのような事をもたらすのかはわからないと
いうことでもあるでしょう。
それを捉えるときの心構えによって、
良くも悪くもなるということです。
だからこそ、日頃から、精進して、
心構えをもっていること、
運やチャンスがきたら、しっかりと自分の為に
なるタイミングと方向において、
逃さずに掴むことが出来るように
準備を整えておくことが大切であると
いうことなのでしょう。
 神は、無条件に人に与えるべきものは
与えます。でも、その与えるものを、
きちんと受け取るか否かは、人の選択にゆだねられた
ものであるということです。
受け取っても気付かずに、活かせない人もいれば
受け取ったことに気付き、活かせる人もいる
それは、受け取る側しだいであるということです。

 
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2011年08月23日

何かに打ち込むことこそ、人生の幸福である

『何かに打ち込むことこそ、人生の幸福である。』
   スマイルズ


 人生においての充実とは何か、
充実した人生とはどのようなものであるのか、
そして、人生において幸福とは何なのか、
それは、それぞれの人が、どのように感じ、
どのように行動し、どのように思うのかで、
変わってしまうものであるともいえるでしょう。
人生における幸福を、
何かに打ち込めることであると
思うのであれば、まさにその通りとなると
いうことです。
 幸福とはもたらされるものでもなく、
得られるものでもないものであって、
幸福であるか否か、ただそれだけのものである
というのが、真実であるからです。
 何かに打ち込んでいるから、幸福である。
そう思えるとしたら、まさに、その人は幸福なのです。
それは、与えられたものでもなければ、
得られたものでもなく、ただ幸福であるだけであると
いうことなのです。
幸福というものが、結局のところ、物質的なものではなく
感覚的なものであり、感情的なものでしかないという
事実を、認識できるのであれば、
幸福な状態とは、幸福であると自らが思えば、
どのような環境や状況であったとしても
存在しえることになるわけです。
ゆえに、他人からみて不幸と思えたとしても
本人にとっては幸福であるということは、
当たり前にあることであって、何の不思議もないわけです。
その逆に、他人からみれば幸福であったとしても
本人にとっては不幸であるということもあるわけです。
つまり、幸福とは絶対的な基準などなく、
普遍的なものでもなく、社会的なものですらないと
いえるでしょう。
個人個人が、自分自身にとっての幸福をもっているだけで
あるということなのです。
何が幸福なのか、どんな環境が幸福なのか、
どんな人生が幸福なのか、
それが、社会が決めるものでもなければ、他人が決めるものでもなく
ただ、自分自身でしか決められないものであると
いうことですね・・・・・・・。

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2011年08月22日

世の中には、勝利よりももっと勝ち誇るに足る敗北があるのだ

『世の中には、勝利よりももっと勝ち誇るに足る敗北があるのだ。』
   モンテーニュ


 勝利よりも、価値のある敗北、
そんなものも、世の中にはあると
いうことです。
それは、その勝利と敗北が、もたらしたもの
そこから得たものが、何なのかということに
よるのだということでしょう。
勝利しても、何の成長もなく、
一時の悦楽しかないようなものであれば、
あまり価値はないのかもしれません。
それよりも、成長をもたらし、気付きを得、
未来への希望を抱かせるような
敗北であったなら、その敗北には、
大きな価値があったのだといえるでしょう。
時は常に流れており、
人生も社会も変化していきます。
その流れのなかで、どんな価値があったのか、
どんな意味があったのか、
勝利にしろ、敗北にしろ、そこから先に
もたらされたものによって、
価値があったか否かが、変わっていくのだと
いえるのかもしれませんね。

 
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2011年08月21日

人間こそ人間にとって最も興味あるものであり

『人間こそ人間にとって最も興味あるものであり、
 また、おそらく人間のみが人間に興味を感じさせるものであろう。』
   ゲーテ


 まさしく、真理をついた言葉であると
いえるような気がします。
この世の存在意味は、神による魂の育成であるわけで、
その魂の育成のためには、人が最も最高の存在として
創造されているわけですから、
まだまだ幼い魂は、一定の成長をなすまでは、
人以外の生物(虫、魚、鳥、動物)のなかに宿り、
成長していき、そして、この世の成長の過程として
最後に人に宿るわけです。
人のなかで、成長し、やがて、この世で成長すべきことを
すべて成し終えたら、もうこの世に生まれてくる
必要がなくなるわけですね。
人の存在が、魂の成長のためにあり、
人生は、霊性修行の場として用意されたものである以上、
人は人との関係のなかで、学び、成長していくことに
なるわけです。
ゆえに、人が人に関心をもち興味を感じるのは
当然のことであり、他の動物とは異なる存在として、
カルマや徳分を通じて、魂の糧を得ていくということに
なるわけです。
動物時代とは異なる成長段階を人の時代におこなって
神に近づいていく、それが魂の歩みなわけです。
魂は、何度も成長のために、この世で霊性修行を
行なうわけで、それが輪廻転生であり、前世という
ものであったりするわけです。
しかし、肉体や精神、スピリチュアルな存在は、
一度きりのものであり、それらにとっては、転生はないと
いえるわけです。
ゆえに、人の存在は、生まれたときから逝くときまで
ただ一回きりのものであるという部分と、
何度も生まれ変わる大きな流れのなかの一部という部分とが
共存した存在であるといえるでしょう。
そのどちらに注目するのかの違いで、
輪廻転生の是非の解釈が異なっているに過ぎないと
いうことでもあるわけですね。
 いずれにしろ、この人生をいかに充実したものとするのかは、
それぞれの人生において、どのように生きていくのか
その内容と動機によって決まってくるのだということに
なるのだといえるのかなと・・・・・・・・。
出会える人も、経験できることも、限られています。
だからこそ、大切にしていきたいものですね・・・・・。

 
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2011年08月20日

われ反抗す、ゆえにわれら在り

『われ反抗す、ゆえにわれら在り。』
   A・カミュ


 人の存在、自分の存在を、
どのように認識するのか、そこには、人それぞれの
考え方があるのだろうとおもいます。
反抗することが、自己の存在を主張し確認すること
そんな考えもあるということですね。
 学生運動の盛んであった時代、
1950年〜60年にかけてのころは、
まさに、そんな想いで、青春を謳歌していた方が
多かったのかもしれません。
そして、今、その世代の皆さんが、
日本を牽引しています。
でも、そんな当時の考え方は、現在の日本の社会では
通じなくなってきているともいえるでしょう。
欧米の合理主義を導入することが正義とおもい
当時まだあった日本的なよさを失っていった末に
結局、当時の先輩の皆さんは、
自分達の歩んでいた時代とは異なる常識の社会を
築いていってしまったということなのかなと
そんな印象をもってしまいます。
育成よりも結果、プロセスよりも成果、
そんな企業文化の変化が、日本そのものを弱体化させて
きたような気もしたりします。
国際化だけが、本当に日本の行きべき道なのか、
問い直すべき部分もあるのかもしれません・・・。

 
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2011年08月19日

間違いを怖れて戸を閉ざせば、真実も締め出されてしまう

『間違いを怖れて戸を閉ざせば、真実も締め出されてしまう。』
   タゴール

 人は、どうしても、間違えることを
 恐れてしまいます。失敗を恐れてしまうわけです。
 間違ったらどうしよう、失敗したらどうしようと
 悩む人は多いのではないでしょうか。
 それは、リスクを出来るだけ取りたくないという
 ことでもあったりするわけです。
 でも、失敗や過ちを恐れ、リスクを恐れるゆえに
 何もしないという選択をしたなら、
 そこには、何も生み出されなくなってしまいます。
 そして、真実も同様に閉ざされてしまうことに
 なってしまうというわけです。
 何かを得るためには、成長するためには、
 行動することが必要です。
 そして、行動するということは、リスクが伴うと
 いうことでもあったりするわけです。
 何かを成すために、その扉を閉ざすことなく
 勇気をもって、歩み出すこと、
 その先に、たとえ失敗があったとしても、
 必ず得るものがあるということを
 わすれないでおくことが重要なのだと
 いえるでしょう。

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2011年08月18日

真の知とは、結局、夜の暗黙の中で

『真の知とは、結局、夜の暗黙の中で
 目覚めているということに尽きている。』
   エミール・シオラン

 知とは何か、それを喩えた言葉です。
 夜の暗黙のなかで、目覚めていること
 それが知であるというわけです。
 目覚めていない世界、未知なる世界で、
 しっかりと自分を目覚めさせて、
 物事や世界を見つめていること
 それが出きる状態ことが知であると
 いうわけです。
 暗黙を感じない人もいるかもしれません。
 それは、知を育むことをやめてしまった
 状態であるといえるのでしょう。
 人が、他の動物と異なるのは、
 まさに知があり、理性をもって物事を
 見つめ判断し理解することが出きると
 いうことにあるわけです。
 これは、他の動物には出来ません。
 出きるように見せかけることは
 出来ても、真理の扉を開くように
 知を活用することが出きるのは
 人だけなわけです。
 人として産まれたことが、この世において
 いかに特別なことであるのかを、
 認識しておくべきであるともいえるでしょう。

 
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2011年08月17日

世の中には、沢山の幸福に恵まれながら、たった一つの不幸のために、

『世の中には、沢山の幸福に恵まれながら、たった一つの不幸のために、
 自分を非常に不幸な人間だと思っている人もあるし、
 それかと思うと、不幸だらけの人間でありながら、
 自分で何かの幸福を見つけ出して、勇ましく戦っていく人もある。』
    下村湖人


 結局のところ、幸福も不幸も、その人が、
その出来事を、どう思うのか次第ということに
過ぎないわけです。
幸福も不幸も、結局は人の感情の問題でしかなく、
同じ事象であるのに、ある人にとっては不幸であり、
ある人にとっては幸福であるということが、
この世には無数に存在しているのだともいえるでしょう。
多くのことを、どう感じるのかの違いは、
その数の差だけではなく、たったひとつのことで
揺れ動いてしまうような不確かなものでしかないと
いうことでもあるわけです。
であれば、どちらの方向に、歩むのがよいでしょう。
この言葉は、そんな選択を問うているとも
いえるかもしれません。

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意識する存在にとって、生存するということは変化することであり、

『意識する存在にとって、生存するということは変化することであり、
 変化するということは経験を積むことであり、
 経験を積むということは無限に己自身を創造していくことである。』
   アンリ・ベルクソン

 存在するとは何か、意識とは何か、
人とはいったい何なのか、そんなことについての
考えを突き詰めた言葉のひとつですね。
生きていくとき、人は自分自身のこの世における
存在価値に疑問を抱くことがあったりします。
日本では、そんな厭世的な気分に陥って、
大きなカルマとなる自らを自らの手で殺すという
大罪を犯してしまう人があとをたちません。
年間3万人もの人が、自己の存在を否定して
誤った選択に至っているわけです。
 存在することは、変化することであるという
のは確かです、人の身体は、同じ細胞で出来ている
期間は、限られています、常に新しいものと
置き換わっていて、しばらくすると過去の自分と
同じものは肉体的には存在していない状態に
なっているわけです。
でも、意識は永続しており、無くなってしまった
過去の肉体のときのことも覚えているわけです。
変化のなかで、経験を積み、そして、経験によって
自己を創造していくことができる存在、
それが人間であるということなわれです。
だからこそ、どんな状況になったとしても、
その変化を止めてしまうような選択をすることは
間違っているのであって、
それをしないように気付くことが重要であると
いえるでしょう。
可能性は無限であり、それをどう感じるのかも
自由なのです。
ならば、より前向きに、良い方向に感じ、
考えていった方が、より良き人生を
歩むことができるのではないでしょうか・・・

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2011年08月15日

人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって

『人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって
 行動すべきものである。』
    サルトル


 私は自由ではない、自由が欲しい、
そう言う人がいます。
でも、それは、本当でしょうか、
この言葉は、人が自由かどうかは、
その人次第であると言っているとも
いえるでしょう。
 人は、そもそも、自由な存在であって
不自由なのは、自らが、そうしているだけ
まさに、自分自身の選択によって
そうしているだけなのだというわけです。
常に自分自身の選択によって、行動すれば
自由であるのだから、出来ないはずはない
というわけです。
 人は弱いものです。
なかなか自分自身の責任を負いたくなく
何か問題があれば、他人のせいや、
他のことのせいにしたがります。
しかし、本当の原因は、結局は自分自身の
中にあるのだということなのです。
それに、正面きって取り組めるのか
出来ないのか、その差でしかないと
いうことなのだともいえるでしょう。
どの様に生きるのも、自由であり、
それを選択するのは、自分自身でしかなく
他の何物でもないということです。
それから目を背けても、解決はしないでしょう
でも、弱い人間は、目を背け、
解決できずに、悩み、苦しむのだという
ことなのかもしれません。
だから、自分自身だけで、どうにもならないから
他人に助けてもらい、他人を助けるのだとも
言えるのではないでしょうか。
人が、ひとりでは生きていけないのは、
人のもつ弱さを、互いに補っていくことが
必要であるからなのかもしれません・・・
良き出会い、良き友人、良きパートナー、
得られることが、人生における最高の幸運なのかも
しれませんね・・・・・・・

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2011年08月14日

みずから愉しむことのできない人々は、しばしば他人を恨む

『みずから愉しむことのできない人々は、しばしば他人を恨む。』
   イソップ


 自分自身で、何かを愉しむことが
できることは、とても大切なことだと
いうことですね。
 愉しめないというのは、
やはり、どこか心が病んでいるという
ことなのかもしれません。
他人を恨むことは、良いことではありません。
悪魔に狙われることになるかもしれないし、
カルマとなるかもしれません。
 他人を恨んだり、妬んだりするよりも
みずから愉しみ、安らぐことのできる方が
人生はずっと豊かなものとなることでしょう。
また、健康にも良いし、いきいきとした
日々を歩めるようにもなるでしょう。
 どのように生きるのかは、
どのように生きれるのかということで
あるともいえますから・・・・・・

 
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2011年08月13日

さあ立ち上がりたまえ。どんな戦いの中でも

『さあ立ち上がりたまえ。どんな戦いの中でも
 必ず勝つ確固たる勇気をもって。』
   ロマン・ロラン

 なでしこJAPANが、ワールドカップで優勝して
世界一になりました。
何度もピンチを迎えながらも、決して諦めずに
絶対に勝利するという意志と勇気をもって、
試合終了の瞬間まで、勝利に向かって戦い続けた
結果であるといえるでしょう。
 世の中には、いろんな戦いがあります。
災害との戦いもあれば、仕事での戦いもあれば、
人間関係での戦いもあるでしょう、
戦う理由も、戦う相手も、様々であることでしょう。
しかし、それに勝つためには、
どんなに逆境となっても、苦戦しようとも
ピンチになろうとも、うずくまり這い蹲って
立ち上がることなく諦めてしまうのではなく、
立ち上がって、諦めずに、勇気をもって、
戦っていくこと、必ず勝つんだという強い信念を
もって、前進していくことが、
必要であるということですね。
結果は、それに向かって努力するものに
与えられるということでしょう。
大変なことであり、難しいことであるのかも
しれませんが、
精一杯、チャレンジしていけたらと
おもいます・・・・・・・・・・・・・・
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2011年08月12日

君が代記念日

 明治26年8月12日、文部省が、小学校における
祝祭日の儀式用唱歌として公示したことにちなんで
君が代記念日とされているとのことです。
 日本の文化である和歌、
その和歌集である「古今集」のなかの一句、
詠み人知らずとして、
記載された詩に、宮内庁雅楽課の林広守氏が
曲をつけて、出来たもの。
日本の国歌として、歌われるようになり、
今日に至っているわけです。

「君が代は
 千代に八千代に
 さざれ石の
 巌(いわお)となりて
 苔(こけ)のむすまで」

http://youtu.be/Ya9iPEa9ucc


 この歌の意味を解釈し、和歌の魅力を
きちんと理解できる教育をすることこそが
重要であるとおもいます。
わかりにくいとかいう意見は、その根本が
おかしいように感じます。
わかってあたりまえであるように
きちんと学ぶべきだということです。
posted by 清水の伏竜. at 23:04| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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