2011年06月30日

毎朝、目が覚める度に、私は言い知れない喜びを感じる。

『毎朝、目が覚める度に、私は言い知れない喜びを感じる。
 自分がサルヴァドール・ダリであるということのね。』
   ダリ

 自分に自信がある人は、自分であることに
喜びを感じるということでしょう。
 目が覚めたとき、自分自身であること
それを気付き、ホッとする人もいると
いうことです。
 人生をより充実したものとするなら、
やはり、自分自身を愛すること、
自分自身を信じることが
必要であるということでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 07:19| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月29日

全ての革命家は最後には弾圧者か異端者になり下がる

『全ての革命家は最後には弾圧者か異端者になり下がる。』
   カミュ

 革命家に対して厭世的なことばです。
革命家が、いずれは弾圧者となるか、異端者にしかなれないと
いうのは、非常に近視的なものの見方といえるでしょう。
この言葉は、物事は、常に、その人のものの見方によって
変わってしまうということを意味しているともいえそうです。
 弾圧者になってしまう革命家も、
 異端者になってしまう革命家も、
最後まで、初心を保つことが出来ずに
変化してしまったからに過ぎないともいえます。
 最後まで、初心を忘れずにいられたら、
革命家は英雄となるでしょう。
または、聖者となるかもしれません。
 お釈迦様も、イエス様も、いってみれば革命家で
あるともいえるのですから。
 成り下がってしまう革命家のように
ならないために、初心を忘れることなく、
環境の変化に溺れない自分自身の心を、
育むことが大切であるといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 01:33| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月28日

人生という戦場で、味方をさがすのではなく、

『人生という戦場で、味方をさがすのではなく、
 自分自身の力を見出せますように。』
   タゴール

 人生において、何を願うのか、
何を見出せたらよいのか、
そんな問いへの答えのひとつでしょうか。
人生のなかで、その歩みにおいて、
味方になってくれるものを探すことよりも、
自分自身の力を見出すことの方が、
大切であるというわけです。
 人は独りでは生きていけない存在です。
しかし、生きるのは自分自身であって
他人ではありません。
だからこそ、まず第一に自分自身のことを
知り、自分自身の力を見出さなければ、
何事も始まらないということになるでしょう。
その上で、一緒に歩んでくれる人、
師となる人をさがせばよいのだということです。
ただ、人との出会いは、縁であり、
探したから出会えるとは限りません。
探しても出会いこともあるでしょう。
だからこそ、出会いは大切であるということです。
そして、縁を司るのは、神であり、それは。
変えられない宿命なのかもしれません。
でも、縁をものにするのか否かは、
与えられた人次第でもあったりします。
神の恵みは、それを信じるものにしか、
得ることのできないものなのですから・・・・
posted by 清水の伏竜. at 23:03| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月27日

自分の力でどうにもならないことは、心配してもはじまらない

『自分の力でどうにもならないことは、心配してもはじまらない。』
   ギル・アメリオ

 自分の力では、どうにもならない
そんなことは、やはり、あるものです。
人生は、生まれたときに、
神によって与えられた、終着点へ向かって逝く
定めとなっているわけで、
それを変えることは、神にしか出来ません。
神は、簡単には願いをきいてはくれないものです。
神の定めた叡智に従っていなければ、
まったく届くこともないでしょう。
しかも、神の与えるものは、魂の成長のために
必要なものであって、この世のことなど
気にしてはいないのですから、
一見してみるとこの世的には意味不明であったり
酷いことであったりするのかもしれないのです。
この世的には、酷いことであっても、苦しいことであっても
厳しいことであっても、その先に、行くべきところが
待っていると、神の恩恵を感じ取れるかどうかで、
神の恩恵を受け取れるか否かが、変わってしまうと
いうことでもあったりするわけです。
奇跡は、信じる人のところにしか訪れないという
ことであるわけです。
そして、神の采配でなければ、どうにもならないことを
人が心配してみても、はじまらないということです。
自分自身を正しく知り、奢ることなければ、
自分の身の丈にあった出来ることを成していくしかなく
不相応なことをどうにかしようとしても
それは無理なことであり、不遜なことであると
いえるのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 18:32| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

占い・心理分析

 占いや心理分析が、当たるのは、
この世における人生が、基本的に、神の采配で
定められた流れの中にあるからといえよう。
すべての根元は、インドの古い叡智、アストロジーに
よる神の定めし人生の計画を読み解く術であり、
すべては、そこから流でて、いろんな形で、
抽出変化されていったものであるということ、
生まれた場所、生まれた時間は、神が、その魂のために
必要な霊性修行ができるように選択肢たものであり、
それによって、人生の基本的な流れが定められている。
魂の宿る肉体も、そんな計画のなかの要素のひとつで
あるから、血液型、人種、体型、性別などからも
その人生の流れのいったんを読みとけるということに
なるわけだが、その精度については、
読み解く手法や能力によって千差万別であり、
非常に高い精度であるものから、殆どあたらないものまで
あったりするので、信用が確立されることはないと
いうことにもなっているといえるでしょう。
神の叡智に近いものほど、高い精度であるといえます。
禁酒、ベジタリアンの人の方が、その意味では、
精度は高いということになる可能性が大きいでしょう。
リーディングは、神力を授かった人のもつ力ですが、
それは、その人のスピリッツや魂の記録などを読み解き
今世における霊性修行の流れを見定めるものであるわけです。
あとは、信じるかどうか、それ次第ということに
なるのでしょうか。
成功者の多くは、実は、そんな占いのようなものを
上手に利用していたりするものです。
それは、人それぞれの特性を知ることでもあり、
その人の得意とするものを引き出すことでもあるからだと
いえるでしょう。

さて、ちなみに、最近ちょっと、
こんなのやってみました。

交流分析の考え方を応用した心理分析診断
(白河桃子監修)
をやってみた結果。

あなたは、癒し系タイプです。

優しく包容力のあるタイプ

 包み込むような優しさで相手に接することができる包容力のある人です。
あくまで控えめに目立たず、人や社会のためになることをするのが好きです。
困っている人を助けたり、悩んでいる人を慰めることが好きです。
逆に人を激しく糾弾したり、争ったりすることは苦手という一面もあります。
年上、年下、同僚、・・・いろいろな人から頼りにされていることも多く、
特定の人から「依存」されてしまうこともあります。
手助けしたり、相手の良いところを伸ばしたい・・・という気持ちはあるのですが、
一歩踏み出さないで、見守っていることもあります。.

優しく包容力のあるタイプの恋愛傾向

他人への愛情が豊かで包容力を持つあなたは
「尽くされたい」より「尽したい」と思うタイプです。
意見が違っても、激しく争ったり、相手に厳しいことを言わないように気をつかいます。
相手の気持ちを深く考え、理解し、共感し、尊重することができる、
一緒にいて「癒される」恋愛相手となれるでしょう。
思いやり豊かで愛情あふれる結婚相手として家族を作るのには最適な相手です。
しかしその分、相手の辛さ、悲しさも自分のことのように感じてしまい、
「都合のいい相手」になってしまったり、
べったりと「依存」されてしまうこともあります。
相手のかわりに泥をかぶることもあります。
posted by 清水の伏竜. at 02:55| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もう終わりだと思うのも、さあ始まりだと思うのも、どちらも自分である

『もう終わりだと思うのも、さあ始まりだと思うのも、どちらも自分である。』
   フェデリコ・フェリーニ

 何事においても、結局は、自分自身が、
どうするのかによって決められるものだと
いうことです。
 終わりも、始まりも、
成功も、失敗も、すべては、自分自身が、
判断し、行動し、考え、成した、その先にあり、
それ以上でも、それ以下でもないというわけです。
 人生は、誰のものでもなく、
だれかのためにあるのでもなく、
自分自身のためにしかないということです。
この世は、神が創造し、魂の霊性修行の場として、
用意されてものであり、そのために必要なものが、
神の叡智、神の原理原則に従って、論理的理性的に
形づくられた結果であるわけです。
 そのなかで、生きている我々は、まさに、
神の創造物のひとつであり、魂という神の愛するもの
神の分身を、その中に抱えて、大きな神の計画に
従って、細かな自由度のなかで、自らの選択によって
生きているのだといえるでしょう。
 今を生きるものにとって、永遠なのは魂だけであり
心と身体、物質としての肉体と、スピリチュアルな精神、
霊体は、今回限りのものであり、唯一無二の今を生きる
限定された実存であるということです。
スピリチュアルな面までの存在としては、
今世のみの転生することのない貴重な有限な存在であり
まさに今回限りの生を過ごしているわけです。
しかし、魂というレベルにおいては、今世は、
長い成長の過程における一度の人生に過ぎないわけで
今回の人生が終われば、また別の人生を歩み、
より神に近づくために、成長を続けていくわけです。
どの視点を強調するのかの違いが、宗教や信仰における
人生の解釈の違いとなっているに過ぎないとも
いえるでしょう。
 いずれにしろ、今をしっかりと生きることが
重要であり大切であるということにかわりはないと
いうことですね・・・・
posted by 清水の伏竜. at 00:00| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月25日

彼を裁くまえに彼を理解しようと努めるべきである

『彼を裁くまえに彼を理解しようと努めるべきである。』
   サン=テグジュペリ

 人が人を裁く、何と傲慢なことだろうか
果たして、本当に、人には人を裁く権利が
あるのだろうか、その価値があるのだろうか、
イエスさまも、石をなげる人々に向かって
その行為を問う行為をなさいました。
 相手を裁くということは、相手を否定すること
その前に、まず、相手を知ること、
相手を理解することが大切なのではないかと
いうことです。
もちろん、理解できないこともあるでしょう。
受け入れられないこともあるでしょう。
でも、そうであったとしても、
まず理解しようとする努力を怠っては
ならないということです。
それをせずに何かを決めつけることは、
独善であり傲慢であり不遜であると
いえるでしょう。
 今回の東日本大震災においても
メディアに登場する皆さんのなかには、
自分の主張を相手に押しつけるだけで、
相手の言葉に耳を傾けない人が、
原発推進派にも、反原発派にも、
いらっしゃいました。
そういったみなさんは、自分に都合の良い
事実のみを受け入れて、客観的、学術的な
事実には目を向けようとはしないようでした。
事実なのに、嘘だとか、インチキとか、
決めつけて確認すらしようとしない。
正直いって、そんな姿勢からは信用できるものが
感じられませんでした。
そんな皆さんの情報に対して、一時の感情に
流されることなく、冷静な判断ができるように
情報リテラシを高めていくことが必要であると
いえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 13:34| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月24日

人の弱さとは、人生を究めるとき、いつかかならず必要になってくるものだ

『人の弱さとは、人生を究めるとき、いつかかならず必要になってくるものだ。』
   モーリス・メーテルリンク

 生きていくなかで、
人生を究めるとき、その過程において
人の弱さとは何かを、実感していることが
必要となってくるということです。
人の弱さを知らないものには、
人生を究めることは出来ないであろうと
いうことでもあったりするわけです。
 人生を究めた人物とおもわれる歴史上の
偉人は、その人生のなかで、人の弱さを知る
経験を必ずされているといえるでしょう。
その経験の仕方は、人それぞれであるものの
人が弱いものであるということ、
どのように弱いのかということについて
しっかりと認識されているということです。
もちろん、それと同時に、人の強さも
知っているといえるでしょう。
 何事においても、何かひとつのことだけしか
知らないということは、何かを究めるにあたって
不足を生じてくるということなのだとも
いえるのかもしれません。
もちろん、実体験する必要のないことも
この世には多く存在しています。
 人生という神のシナリオにおいて、
不要なものも、この世には存在してしまっていると
いうことでもあるからです。
ゆえに、人には知恵があり、理性があり、
自分自身で、物事を判断して行動することが
出来るようになっているのであるともいえます。
その自由がゆえに、大きな責任をも負っていると
いうことです。
 人生を究めること、そのものには、
実は意味がないかもしれません。
それよりも、信仰に生き、神の喜びのために生きる
ことの方が、人生の価値からいえば、
より大きいということになるでしょう。
人生とは、魂の成長のためにあり、
霊性修行の場であるのですから・・・・・・。
posted by 清水の伏竜. at 18:13| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月23日

立ち上がってたたみなさい。きみの悲嘆の地図を

『立ち上がってたたみなさい。きみの悲嘆の地図を!』
  ウィスタン・オーデン

 嘆いているだけではだめだということ
人生における悲しみや嘆きの記録を
いつまでも振り返っているだけでは、
何もはじまらないし、前に進むこともできない
だから、そんなものは畳んでしまって
どこかに捨て去ってしまえばよいと、
そして、立ち上がって、新しい一歩を
踏み出すことが、大事なのだということです。
 悲しみを感じて、嘆くことも時には必要でしょう
また、愛する人のためや、他人のために、
悲しむことも時には大切なことであったりします。
しかし、それをいつまでも継続していることには、
意味はありません。
 何の価値もない行為であり、
かえって、人生においてはマイナスであり
カルマになってしまうこともあるでしょう。
または、悪いスピリッツを呼び寄せて、
もっと酷い状態に陥ってしまうかもしれません。
負の感情は、負のものを呼び寄せるからです。
 折角、神によって与えられた人生なのですから
精一杯生きて、逝くときまを充実したものに
することが重要であるといえるでしょう。
だから、過去の苦しみや悲しみや嘆きに
捉われることなく、未来の希望や夢に向かって
進んでいくべきだということです・・・・・。
posted by 清水の伏竜. at 21:09| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月22日

成功の方程式はないが、失敗の方程式はある。

『成功の方程式はないが、失敗の方程式はある。
 それは全ての人を喜ばそうとすることだ。』
   マン・レイ

 人は、成功するための知恵を求めるものです。
そして、成功の方程式があれば、
どんなことをしても得たいとおもう人が大勢います。
それで、いろいろとひっかかってしまうことも
あったりするようです。
成功の方程式などないというのに、
その幻影に縋ってしまうということでしょう。
 成功者から学んで得られるものは、
その成功者のような魂と精神と人生と環境があれば、
成功するということでしかありません。
自分が同じように成功できるわけではないということです。
参考になることはあっても、確実なものではないでしょう。
さて、成功するための方程式はないものの
失敗する方程式はあるようです。
そう、失敗の方が、世の中には非常に多くあるのであり、
事例も多様で多量であるために、
そのエッセンスを取り出すと、多くの場合に適合すると
いうことになるわけです。
そのひとつが、全ての人を喜ばそうとすることであると
言う訳です。全ての人を喜ばせようとすれば、失敗すると
いうことですね。
それは、出来ないことを無理をして行なうがために
起こることだともいえるでしょう。
即ち、ゴールの設定、目標の設定、そのものが、既に
不可能なことであるというわけです。
出来ないことを目標にしては、成し遂げられるはずはないと
いうことになるわけです。
 人が、全ての人に何かを成すことなど所詮は不可能です。
もっと絞込み、誰に何をしてあげたいのか、
具体的なイメージがなければ成功はしないということですね。
これは、よく言われていることです。
 何かを成し遂げたいと思うのであれば、
それを成し遂げた瞬間をイメージできる必要があると
いうことです。
そのイメージはより具体的でリアルであることが
必要であったりもします。
そうであれば、成功できるだろうということになるわけです。
夢を抱くこと、夢に向かって進むことは
とても大切であり有意義です。
しかし、夢は、イメージできるものでなければなりません。
曖昧で、つかみ所のないものは夢ではなく、空想であり
妄想であるということになってしまうでしょう。
夢とは、空想でも妄想でもなく、理想なのですから。
posted by 清水の伏竜. at 07:47| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月21日

写真は撮るものではなく、創るものだ。

『写真は撮るものではなく、創るものだ。』
   アンセル・アダムス

 芸術のなかに、写真というものもあります。
芸術的な写真は、まさに撮るものではなく
創るものだといえるでしょう。
 被写体、構図、タイミング、
撮るものと撮られるもの、その関係性のなかで、
一瞬の時間が、切り取られる。
その瞬間を創りだすことが、撮影であると
いえるということですね。
 観た者に何かを感じさせることのできる
力をもった写真とは、まさに創られた芸術であると
いえるでしょう・・・・
posted by 清水の伏竜. at 19:35| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月20日

地獄を歩いているなら、突き進め

『地獄を歩いているなら、突き進め。』
   チャーチル

 今、歩んでいる道が、
もし、地獄のようなものであるなら、
とにかく、突き進むしかないということです。
躊躇していたり、のんびりしていても
その地獄から逃れることなのできません。
とにかく、前進するのみだということです。
そうすれば、今よりも状況が良くなる可能性が
見えてくるかもしれません。
すくなくとも、停滞しているよりも
ずっとましであろうということです。

 自殺するということは、究極の停滞です。
そして、同時に、犯罪です。
殺生という最大の犯罪を犯したことになるわけです。
だから、自殺という選択は、最悪なものであると
いうことになるわけです。
まだ、生きて、刑務所に入る方がましだとも
いえるでしょう。
 生きていること、それが基本、
そして、いずれにしろやがて逝く日はくるのですから、
今を、とにかく生き抜くなかで、
前に進んでいく、この世の地獄は、あの世の地獄に
くらべたら、幸福であるといえるくらいだそうですから
ならば、まだましなこの世の地獄で、
少しでも前進するということが、最善な選択であると
いうことになるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 19:04| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月19日

おまえの生の目的に向かって一路急げ

『おまえの生の目的に向かって一路急げ。』
   マルクス・アウレリウス

 生きていくことの大切さ、
 生きていくことの難しさ、
 生きていくことの苦しさ、
 生きる目的を見失うと、すべてが、
 辛いものにみえてきてしまいます。
 だからこそ、生きる目的を
 きちんと認識し自覚することが
 とても重要であり大切であると
 いえるでしょう。
 そして、その目的に向かって、
 まっすぐに生きていくこと、
 進んでいくこと、歩むことが
 人生を充実したものとしていく
 基本となるということでしょう。
 神に与えられた生きることの意味は
 間違いなく存在しています。
 それに気付けないとしても
 生まれてから育っていくなかで、
 抱いたもの、夢や希望、に、
 目的を見出すことも可能です。
 それを思い描くことが、まず第一歩、
 そして、思い描いたものを、
 諦めずに信じていくことが、
 第二歩、その上で、成せることから、
 少しづつでも、行っていくこと、
 それが、生の目的に向かっていく
 ことなのかもしれません・・・・。
posted by 清水の伏竜. at 09:36| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月18日

我々は、死んだ時に葬儀屋さえ悲しくなるような

『我々は、死んだ時に葬儀屋さえ悲しくなるような
 人生を歩む努力をしようではないか。』
   マーク・トウェイン

 まったく知らない人も、その葬儀に
立ち会って、哀しくなるような想いを
感じられるような、惜しまれた死を迎える
ことができたら、それは素晴らしい人生で
あったということでしょう。
いつか、必ず訪れる逝くときを迎えたとき
そんな想いを残された人々に感じてもらえる
そんな人生を歩めるように、
努力していきたいものだとおもいます。
生きることは、誰かに影響をうけ、
誰かに影響を与えるということでもあるわけです、
与えるのであれば、良き影響でありたいものだと
おもいます・・・・。
posted by 清水の伏竜. at 22:01| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月17日

スポーツと人生の原点は負けることである。

『スポーツと人生の原点は負けることである。
 負けるということを、理解することだ。』
   リン・デイヴィース

 負けること、それは、どんなことでも
るものです。試験にしろ、スポーツにしろ、
ゲームにしろ、競争にしろ、何度も行うなか
一度も負けずにいることなど、
まずあり得ないことだといえるでしょう。
人生においても、負けること、挫折することは
多々あるものです、そのレベルには大小があっても
ただの一度も負けたことがなく、挫折したこともなく
諦めたこともなく、やりたいことをやらなかったり
代えてしまったりしたことのないひとは、
まずいないでしょう。
 そのような困難にあたって、そこから、
どのように再スタートするのかが、
重要であるといえるでしょう。
そのためには、まず負けるということ、
その困難に屈したということを、
しっかりと認識して、理解することが
大事であるということです。
きちんと理解できたか否かが、
その後の再起に大きく影響するといえるでしょう。
理解することで、学びを得て、経験値を高める
ことができるからです。
posted by 清水の伏竜. at 21:41| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月16日

不正行為が行われている時に中立でいたら、

『不正行為が行われている時に中立でいたら、
 あなたは迫害者の側を選んだことになる。』
   デズモンド・トゥトゥ

 中立でいるということは何か、
それは、傍観者であるということかもしれません。
傍観者であることは、楽なことです。
ゆえに人は、中立になりたがるのかも
しれませんね。
 不正行為が行なわれているのに
それを否定し非難する側に立つことなく
中立であるなら、それは、不正行為を認める側に
たっているというべきでしょう。
中立ということばは、ここでは不正であるというのに
等しいということです。
では、不正がなく、どちらにもそれなりの言い分があり
それぞれの正義があったときに、
中立であるというときは、どうなのでしょう。
実は、そのときは、第三の立場をとっているので
あって、中立ではないといえるわけです。
対立する2つの立場ではない、別の立場であると
いうことなわけであって、どちら付かずというより
どちらにも付かないということになるのでしょう。
しかし、ここでも、そんな立場ながらも
蝙蝠のようにふらふらと、その場その場で
都合のよい方に味方するという人もいます。
それは、実は両方を裏切っているということに
なるのですけど、そうは思っていないわけです。
メディアがまさにそんな状況にあるのだと
いえるのかもしれませんね・・・・。
posted by 清水の伏竜. at 19:42| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月15日

問題は何に目を向けるかではなく、何を見るかだ

『問題は何に目を向けるかではなく、何を見るかだ。』
   ソロー

 何も見ていないことの方が多いのが
人生のなかの普段のことなのかもしれません。
何かを求めていくのであれば、
そして、何かを得たいと思うのであれば、
何かに目を向けるのではなく、
何を見るのかを考えることが必要であると
いうことなのでしょう。
人は、自分の見たものでなければ、
信じることも出来ないものですから・・・。
みるべきものを、しっかりと捉えること、
それが大切なことであるというわけです。
posted by 清水の伏竜. at 21:53| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月14日

人間は批評的態度にとどまっている間は、その人がまだ真に

『人間は批評的態度にとどまっている間は、その人がまだ真に
 人生の苦労をしていない何よりの証拠だともいえましょう。』
    森信三

 人の姿を現すものは何なのか、
苦労したことのある人間と、苦労したことのない人間、
その差は、どんなところにあらわれてくるのか、
それは、その人の態度にあらわれてくるというわけです。
批判的な態度しかできない人は、
結局のところ、苦労しらずの人間であると
いうことだというわけです。
真の苦労をしてきたのであれば、人の苦労の気持ち、
相手の心を感じることのできる深みを、
もっているということでしょう。
 深みのある人であれば、悪戯に批判的態度などは
とらずに、まず相手のことを受け入れる度量が
備わっているものだということなのかもしれません。
批判的態度をとるのは簡単です。
いやなものをいやと言うだけでよいのですから、
そこに理由や論理性など必要ないともいえるでしょう。
そんな批判的な態度しかとれない人は、
まだ子どもなのかもしれません。
残念なことに、外見や地位が大人なのに、
中身が子どものままという人が結構多くなって
しまっているのかもしれません・・・・・。
posted by 清水の伏竜. at 22:28| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月13日

あなたたち自身の中を探しなさい。

『あなたたち自身の中を探しなさい。
 そうすれば、全てを見つけることができるだろう。』
   ゲーテ

 何かに悩み、何かに迷い、
求めるものがわからなくなったとき
その答えを見つけたいのなら、
自分の中を探してみるとよい
そこに、求めているものが
みつかるだろう。
 全ての答えは、
結局は、自分の中にあるということ
そして、それおみつけることが
できるのも自分自身でしかないと
いうことです。
自分のなかの奥底にある魂が、
全てを知っているということでもあり
精神の深部に、経験からの知恵が
眠っているということでもあり、
そんな中に人生の歩みにおける
必要なことが、見出せる・・・。
posted by 清水の伏竜. at 22:34| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月12日

天才?そんなものは決してない。ただ勉強です。方法です。

『天才?そんなものは決してない。ただ勉強です。方法です。
 不断に計画しているということです。』
   ロダン

 天才という言葉で、その人を表現してしまうのは
簡単なことであったりします。
でも、天才といわれる人のほとんどが、
勤勉であり、努力家であり、熱意と熱中力をもった
実践者であったりするものです。
まさに、学び、行い、確認し、見直し、計画し、
また行う、その繰り返しを、継続できる力を
もっているだけだというわけです。
 何もせずに能力があるのは、天才ではなく、
神才であるということになるのかもしれません。
ただ、神才は、ある特別な能力であって、
世に言う天才のもつ能力とは異なるものです。
また、別の神からの使命を与えられて生まれたから
得られた力でもあったりします。
 まあ、それ以外では、霊性修行の人生ゆえに、
天才といわれるような人も、何もせずに結果を
出しているはずもないわけです。
ある意味、天才というのは、秀才や凡才が、
自分たちの努力不足を自己完結して納得させるために
生まれた言葉なのかもしれません。
嫉妬で苦しみたくないからということです・・・。
posted by 清水の伏竜. at 09:37| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。