2011年05月31日

失敗は資本の欠乏よりは、エネルギーの欠乏からしばしば起こる

『失敗は資本の欠乏よりは、エネルギーの欠乏からしばしば起こる。』
   ジョン・ウェブスター

 失敗の原因について
いろんな考え方があるなかのひとつと
いえるでしょう。
 資本の欠乏よりも
その物事を成すためのエネルギーが
足りなくなること、
その方が、失敗に繋がりやすいと
いうことです。
 やはり、何かを成功させるためには
それを推進していくためのエネルギーが
重要であるということでしょう。
そのエネルギーが欠乏することが
失敗につながるというのであれば、
いかにエネルギーを維持していくのか
補給していくのかが、
成功のためには大切なことであると
いうことになります。
 エネルギー補充のために
何をなすべきか、
メンバーに対して留意するのが
リーダーの役割であるといえるでしょう。
そして、リーダーは、自分の中の
エネルギーが欠乏しないように
注意していかなければなりません。
その為の工夫が、どれだけ出きるのか、
それが成功へのポイントのひとつと
いうことになるでしょう。
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2011年05月30日

人間はみななにほどかの純金を持って生まれている

『人間はみななにほどかの純金を持って生まれている。
 聖人の純金も我々の純金も変わりはない。』
   吉田松陰


 人には、誰もが、生まれながらに
素敵な価値あるものを持っている
そのもっているものは、
聖人も、凡人も、変わらないもの
それは、神によって与えられたもの
それぞれの魂が、その成長にしたがって
もっている輝きであり、力であるもの
 誰もが、神のもとにおいては、
その成長の度合いに従って、平等であり、
変わらぬ宝を与えられているということです。
 だから、この世において、不公平だと
感じるのは、本当の価値を見失っていて
真の存在を忘れてしまっているからだとも
いえるでしょう。
この世的な不平等には、実は本当の意味では
何の意味もないということです。
存在そのものの根本である魂において、
不平等はあり得ないのですから。
 この世は、魂の成長のためにある
霊性修行の場であるということ。
そのために試練もあれば、苦労もある
そして、癒しのときもある。
すべての人が、それぞれに必要な環境と
必要な状況と運命を与えられて、
魂の成長のために、この世を生きていく
人生を歩んでいくということです。
生まれて逝くときまで、その間において
神の目的と愛には、等しく、その人に応じた
ものが与えられているということです。
そして、この世で、どのように生きるのか
そこには、その人の努力と生き方で、
運命によって与えられたもの以上のものを
得ることもできるし、そうでないということも
あり得るということです。
当たれられた環境のなかで、
どう成長していくのかは、人それぞれに
与えられた課題であり、まさに選択する自由であり
成長のスピードやレベルに対する自由があると
いうなのだといえるでしょう。

 
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2011年05月29日

人間はみんな、いつ刑が執行されるかわからない、猶予づきの死刑囚なのだ

『人間はみんな、いつ刑が執行されるかわからない、猶予づきの死刑囚なのだ。』
   ビクトル・ユーゴー

 人生の儚さ、誰もが必ず死と直面するときが
やってくるという事実について、
その逝く日を、刑の執行と比喩して、
人生を死刑囚のように、有る場所に囚われたもの
としてとらえた言葉といえるでしょう。
 やや人生を暗くとらえたのは、きっと彼の
人生観にもとずくものであるのでしょう。
確かに、うまくいかないとき、
思い通りにいかないとき、
人生に、矛盾や、諦めや、悔しさや、
憤りを感じているとき、
自分が何もできないことに、
自分では何もかえられないことに、
いらだち、嘆きたくなってしまうものです。
そして、まるで、囚人のような暮らしを
していると感じることもあるでしょう。
 しかし、本当の姿は、囚人でもなければ
死刑囚でもないということに、
人は、気付くべきなのだということでも
あるでしょう。
反面教師の言葉に、惑わされずに、引き込まれずに
しっかりと、自分自身を信じて、
前向きに、生きていくことが出きるようにと
この言葉をかみしめることも、
時には必要であるといえるのかもしれません。
 人は、傷つき、苦しみ、呆然となることが
あるものなのですから、落ち込むこともあれば、
何をしたらよいのかわからなくなることもある
それは、ごく自然なことであり、
それだからダメだということでは決してないと
いうことを忘れてはならないのだといえるでしょう。
 人生を自由に歩めるのか否かは
結局のところ自分自身の心のもちかた次第で
しかないということですね・・・。
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2011年05月28日

もともと地上に道はない。歩く人が多くなればそれが道となるのだ

『もともと地上に道はない。歩く人が多くなればそれが道となるのだ。』
   魯迅

 この世における模範となるものや、
なせる歩みの方法など、誰かが先人をきって
歩んでいった細い道が、そのあとを多くの人が
歩みゆくことで、しっかりとして道に
なっていくということです。
 もともと、どんな道筋も、どんな歩み方も
定められていたわけでもなければ、
そんな決められた道を歩む以外に、
方法や選択が限られているわけでもないと
いうことです。
 もし、この世に自分の行く道となるものが
見あたらないのであれば、
自らが、最初のひとりとなって、
道なき場所に、道をつくっていけば良いと
いうことです。
それが可能であるからこそ、この世には、
多くの可能性と、多くの選択肢とが
存在しているのだということです。
だから、誰もが諦めることも、絶望することも
必要ないといえるでしょう。
ただ、自分自身が信じてさえいれば
良いのですから。

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2011年05月27日

不正行為が行われている時に中立でいたら、

『不正行為が行われている時に中立でいたら、
 あなたは迫害者の側を選んだことになる。』
   デズモンド・トゥトゥ

 善悪の判断と、無関心の罪、
大衆の罪のひとつに、無関心、黙ってみている
という行為があるということです。
それは、犯罪者と同罪であるということです。
不正があり、それを知っていたのに、
何もしない、しかも、中立という立場をとる
それはすなわち、不正に荷担した同罪であると
いうことだと認識すべきであるということです。
多くのメディアが、まさにこの状態にあると
言えるでしょう。
そして、そのメディアと共に、多くの市民が
この状態にあったりするわけです。
出きることは、本当に少し、小さいことだけ
かもしれません。しかし、不正を知ったら、
中立ではなく、それは間違っていると
罪を正す側に立ちたいのであれば、
出きることをすることが大切であるといえるでしょう。
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2011年05月26日

他人の自由を否定する者は、自らも自由になる資格はありません

『他人の自由を否定する者は、自らも自由になる資格はありません。』
   リンカーン

 自由とは何かについて考えることが
あったとしたら、自由の有無とはどんな状態かを
考えてみるとよいでしょう。
 まさに、束縛するものがいるゆえに、
自由はなくなるということです。
自らが自由でありたいのであれば、
他人の自由を否定することはあってはならないと
いうわけです。
 自由を主張するのであれば、その自由を誰にでも
認めることが出来なければならないということです。
差別や例外があってはならないということですね。
 多くの規制や束縛が、社会秩序のため、公共の福利のために
存在しています。その中には、その規制があっても
束縛があっても、正しく生活していれば何の不自由もない
というものもあれば、ちょっと不自由するといったものも
あったりします。
 規制や束縛で、不要なものとは、まさに、
この世において正しい歩みをしているのに、
不自由さを与えてしまうものだといえるのでしょう。
 何でもが、自由であるというのは幻想であり
勘違いであるといえます。
自由には、必ず、責任と義務が付随するものです。
自由を主張するとき、それの付随する責任と義務を
果たしていることが必要となります。
もし、それを満たしているのであれば、自由を否定することは
あってはならないともいえるでしょう。
 何か、単独で、主張できる権利というものは、
ほんの少ししかないということでもあるといえますね・・・・。
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2011年05月25日

事実というものは存在しない。存在するのは解釈のみである

『事実というものは存在しない。存在するのは解釈のみである。』
  ニーチェ

 事実とは何か、物事や出来事があったとき、
それを、どのように捉えるのかによって、
異なるものになってしまう。
だとしたら、そこに事実といえる唯一なるものなど
存在していはしないのであって、
ある事象に対する解釈が存在するだけではないか。
ということです。
 ニューチェらしい言葉であるといえるでしょう。
たとえば、最近の話題でいえば、
 放射能は危険である。
 放射能は危険ではない。
という2つの解釈が存在しています。
同じ放射線漏れに対して、低い線量にあたっては
どちらの解釈も間違っているとは断定できなかったり
するわけです。
 原発事故の対応についても、事象はひとつであるのですが
その解釈は、多数存在しているために、
あたかも、いくつもの真実が存在しているかのように
報道が成されてしまっています。
まさに、存在するのは解釈のみであるという状況であると
いえるでしょう。
 しかしながら、解釈のあり方を決めるものが
しっかりと固定されているならば、事実は唯一なものと
なるともいえます。
 人生における事象の捉え方に関していうならば、
より前向きに、充実した歩みがなせるような解釈を
真実として受け入れるのが、良いといえるかもしれません。
 では、普遍的、絶対的な、解釈はありえないのでしょうか
その答えもまた、人によって異なるのかもしれません。
もし、あるとしたら、神の叡智にもとずいた解釈であると
いえるかもしれません。
それを知りえるか否かは、出会い、縁によると
いえるでしょう・・・・。
posted by 清水の伏竜. at 12:55| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月24日

大切なのは、自分のしたいことを自分で知っているってことだよ

『大切なのは、自分のしたいことを自分で知っているってことだよ。』
   トーベ・ヤンソン

 自分が何をしたいのか?
よく、あなたは、何をしたいのですか?
という質問がおこなわれます。
面接では、とくに行なわれることが多い質問では
ないでしょうか。
そして、多くの人が、答えに窮することがあるわけです。
入試や入社などでは、予め模範解答を用意しておき
それを話すだけになっていることが大半ではないでしょうか。
しかし、多くの人が、自分が本当に何をしたいのか
わかっていないで生きているものです。
 何をしたいのかという問いに、
これをしたいのだと回答できるということは
幸せなことだといえるでしょう。
なぜなら、自分の歩むべき道に迷うことがないからです。
 人生における道筋を、しっかりと歩むために
もっとも大切なことは、まさに自分のしたいことを
自分で知っているということだといえるでしょう。
 でも、自分でわからなかったらどうすればよいでしょうか、
そのときは、自分が何をしたいのか、
探すことしか出来ません。
どの様にして、探すのかといえば、
とにかく出来ることは、何でも行なってみること、
いろんなことを学び、いろんな体験をし、経験をつみ、
そして、考えることだといえるでしょう。
そんな感じで、日々賢明に生きていれば、
ある日突然、これだ、というものに出会うかもしれません。
または、閃くかもしれません。
 自分の目指すべきもの、夢が何なのか、
そして、その夢、目指すべきものは、自分でなければ
ならないことであり、まさに自分がすべきことであると
気付くときが、訪れるということです。
 その瞬間がくるまでの時間は、人それぞれに異なります。
10代で出会う人もいれば、50過ぎで出会う人もいると
いうことです。
 だから、他人と比較して、悩むことには意味がありません。
自分は自分であり、他人とは違う存在なのです。
そして、この世で唯一無二な存在なのです。
それは、自分のすべきことは、自分でしかわからないし
自分でしか成せないということでもあるのです。
大切なことに気付ける日まで、
精一杯、生きていきたいものだとおもいます・・・・。
そして、成すべきことを知ったときには、
それに向かって進んでいけばよいということです・・・。
posted by 清水の伏竜. at 19:24| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月23日

世界で一番強いものはただ一人立つものなのだ

『世界で一番強いものはただ一人立つものなのだ。』
  イプセン

 自分自身の力で、立つことが、
一人前の人間であるということ。
そして、ただひとりで立つことのできるものが
世界で一番強いということ。
 お釈迦様も、イエス様も、ひとりで立って
おられました。
誰の手助けもなく、自分と神のみを信じて、
悟られ、伝えあゆんでおられたわけです。

 この世において、失うということは、
実は、本当の意味では、失うことではないと
いうことです。
この世で失うものなど何もないのだから、
何も恐れず、何も執着せず、神のみを求め
ひとりで歩むことが出来るということです。
この世のものに捉われることが、多くなればなるほど
人は弱くなっていくということでもあるでしょう。
 人の強さの根底は、結局は、神との絆であり
信仰の力であるということです。
それが薄く、弱いほど、この世においては、
力なく、得るものが少なくなっていくということです。

 しかし、人は幼く、まだまだ永きにわたって
霊性修行を繰り返していかなければならないような
存在であるわけです。
だから、その魂の成長の様子の違いによって、
この世での捉われるものが異なることになるし、
どうしてもわからないことも出てくれば、
どうしでも出来ないことも出てくるということに
なるわけです。
この世の人は、まさにその根本から多様であり
異なるものであるというわけです。
ゆえに、この世で、多様性を認めるのは
当たり前のことであるといえるでしょう。
この世にカーストがあるのも、結局は多様性があるから
であり、その霊性修行のために必要なものとして
自然に生まれてしまうものであるともいえるのです。
だから神は何の干渉もすることはないわけです。
神にとっては、この世のことなどは、ある意味では
どうでもよいのであって、
ただ、我が子である魂が成長することのみを
願っているのですから・・・・。
posted by 清水の伏竜. at 18:40| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月22日

われわれは人生という大きな芝居の熱心な共演者だ

『われわれは人生という大きな芝居の熱心な共演者だ。』
  ハンス・カロッサ

 人生というものを舞台としたとき
そこで、演じられる物語のなかに、
われわれは存在しているというわけです。
そのなかの熱心な共演者として。
でも、できれば、主役として活躍してみたいと
誰しもが思っているのではないでしょうか。
自分が主役の舞台を、より華やかで面白いものに
してみたい。
そんな願いをもって、演じているのかも
しれません。
でも、演出とシナリオの神様は、
それぞれの人の魂の成長度とカルマと徳分をみて
人生のシナリオを決めて、誕生というイベントから
スタートさせている。終幕は逝く日。
自分が主役の舞台は、他人が主役の舞台と、
交わり共演者となることもある。
また、観客となることもある。
生きていくなかで、いろんな舞台に共演することで
より豊かな人生になっていくのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 09:11| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月21日

自ら労して自ら食うは人生独立の本願なり

『自ら労して自ら食うは人生独立の本願なり。』
  福沢諭吉

 自分の人生において、独立独歩を
歩むということは、労働して、食をとる
この行為について、人として自立できることが
人の本分であり、本当の願いであるという
ことですね。
人生を歩むなら、まず自ら労働して、
自らの手で食を確保すべきであると
それが、最低限の人生の本分であると
いうわけです。
これは、人の権利として、労働すること
食べることは、最も基本となるものであると
いうことでもあるわけです。
より良く生きていくために、
まずは自分に何が出きるのか、
どのように働くのかを考えることが
大切であると言えるのでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 05:25| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月20日

世には卑しい職業はなく、ただ卑しい人があるのみである

『世には卑しい職業はなく、ただ卑しい人があるのみである。』
  リンカーン

 職業で人を判断し差別する人がいる。
そのような人こそ、卑しい人であるということを
リンカーンはいっているのだといえるでしょう。
 職業の自由が人にはあるというものの
残念ながら、希望する職業に就ける人は少ないです。
それは、職業、労働とは、この世における
生きるための方法であり、関わりであるわけですから
人生の目的である霊性修行に見合うもので
あるべきだということになるわけです。
したがって、多くの人が、苦手やあまり好きではない
職業に就くことになる定めであるといえるでしょう。
しかし、その職業を、自分の天命として捕らえて
前向きに関わっていくようにしたとき、
その職業を好きになることが出来るともいえます。
そして、好きになると、嬉しくなり、
やりがいが出てくるということになるでしょう。
 もちろん、どうしてもダメだという
こともあるでしょう。
しかし、その様な場合、職業の問題というよりも
職場の問題であることの方が多いといえます。
職業としては、あっていても、職場があっていないと
職場が嫌いが、やがて、職業が嫌いになっていって
しまうことがあるということです。
ダメな職場であっても、我慢は必要です。
でも、我慢にも限度はあるものです。
病気になってしまっては本末転倒ですから、
我慢できなくなったら、その職場を離れることは
良いことであるといえるでしょう。
ただ、日本では転職が難しい社会構造になっており、
なかなか厳しいことであったりします。
 失業者がいない国は、ある意味で理想の国です。
そんな国をめざして、政府は努力する義務があると
いうことでもあるでしょう。

 東日本大震災の復興への努力のなかで、
職の充実は、復興に関わらず重要なことになっています。
その為の政策をしっかりと出していって欲しいと
おもいます。
posted by 清水の伏竜. at 13:46| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月19日

勇断なき人は事を為すこと能はず

『勇断なき人は事を為すこと能はず。』
   島津斉彬

 何かを為すということにおいて、
その能力をもっているということは、
勇断できるということだというわけです。
勇断、勇気をもって決断する。
 何かを決断するとき、その決断すべきものが
その人にとって、どのくらいのリスクがあるのか
それによって、必要な勇気の力が異なってきます。
大きなリスクがあるときには、大きな勇気が必要です。
しかし、大きなリスクがあるようなことを
決断できる権利をもっているということは、
その人は、その権利を得るだけの地位にあると
いうことでもあり、普通なら権限も持っていると
いうことになるでしょう。
そして、それなりの見返りも得ていることでしょう。
 今回の東日本大震災では、勇断すべき人が
出来なかったことで、災害状況を悪化させるという
ことがおこりました。その影響は今なお進んでいます。
出来なかったことをしっかりと見据えて、
それを認めることも重要であるといえるでしょう。
まだ、それを認めていないようですが・・・。

 何のために勇断をするのか、
それは、その決断すべき内容によっても
状況によっても異なることでしょう。
しかし、自分の信じるべきこと、
自分が守るべきもの、愛すべきもの、
そんな何かの為に必要であるのであれば、
勇気が生まれてくるものです。

 小さいころから、勇断する機会を与えてあげることで
子どもは、勇断の能を育むことが出来るでしょう。
それは、親や周辺の大人たちの責任であったりします。

 人生のなかで、勇断すべきとき、
それが出来るか否かは、そこに至るまでの
生き方や、そのときに傍に誰がいてくれるのかで
変わってくるのかもしれません・・・・・。
posted by 清水の伏竜. at 19:19| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月18日

ことばの日〜じゃないですか・・・

ことばの日〜じゃないですか・・・

 5月18日は、語呂合わせで、ことばの日だそうです。
言葉を正しく使うように心がける日ということですが、
最近は、テレビでのCMやニュース解説などでも
間違っていると日本語学者に指摘されるような
言葉遣いが多くなっているようです。
その代表的なものが、
「じゃないですか」
ですね。CMでも女性がいっていたり、
アナウンサーや解説者も使っていたりします。
東京弁ではないのかという人もいるようですね。
確かに、標準語という意味では、
間違った使い方であるようですというか、
おかしな表現であり、その背後には無責任、
甘えの心理があるようです。
しかし、今や、コラムをかくような社長さんとか、
コミュニケーションの専門家というような肩書きを
もった人も、使っているような状態に
なっていますね。
コミュニケーションの専門家とかいっても
日本語を知っているわけえはなさそうです。
東京では、殆ど標準語になってしまったともいえる
ような感じです。
間違った言葉遣いも、定着してしまうと
普通の言葉に変化していく、
それが言語であるともいえます。
しかし、その変化には、文化や社会心理などの
隠れた背景の変化があるということでもあります。
日本社会が、無責任になっていることの
裏返しなのかもしれません。

「じゃないですか」の自己主張(全原文)
鳥居寛之 (平成6年6月稿)
http://nucl.phys.s.u-tokyo.ac.jp/torii/language/janaidesukafull.html

オフィス敬語の正しい使い方・これって、失礼じゃないですか。
http://www.fujistaff.com/skill/manner/keigo/34.html
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2011年05月17日

人間が賢いのはその経験に応じてではない。

『人間が賢いのはその経験に応じてではない。
 経験に対する能力に応じてである。』
バーナード・ショー

 経験だけが人を決めるわけではない
経験と、それを活かす能力があるがゆえに
人は賢くなれるのだというわけです。
 経験はとても大切です。
しかし、それだけでは賢くなれない、
そこに、それを活かす能力が必要です。
その能力を育むために勉強が必要であると
いうことです。
何かひとつだけが必要で、それ以外は必要ない
そんなものは、この世にはないということ
なのだといえるでしょう。
 良く学び、良く活動し、良く経験する
その繰り返しのなかで、賢くなっていく
それが人間であり、人間だけが出きることで
あるということでしょう。
 経験と学び、両方があってこそ、
成長があるということですね。
posted by 清水の伏竜. at 22:43| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月16日

負けて退く人をよわしと思うなよ.知恵の力の強きゆえなり.

『負けて退く人をよわしと思うなよ。知恵の力の強きゆえなり。』
  高杉晋作

 負け、そして撤退する人がいる。
しかし、それは弱いからではない。
知恵があってのことである。
というわけです。
負けて滅びるのは愚かであるということでも
あるでしょう。
退くときをきちんと見定めることが出来るか否かは、
その人の知恵の力によるということです。
何が大切なのか、その状況によって判断し、
その状況に応じて行動することが、
もっとも大事であるということを
いっているのだともいえるでしょう。
何かに固執することで、間違った結果へと
追い詰められてしまうこともあるということです。
 弱さを知り、恥を知り、己を知る、
そして、大事を知り、目的を知り、行動を成す、
きちんとした基準と知識とそれを判断する力が
あってこそ、ゴールに辿りつくことが出来ると
いうことなのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 18:12| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月15日

少しの欠点も見せない人間は、馬鹿か、偽善者である。

『少しの欠点も見せない人間は、馬鹿か、偽善者である。』
   ジュベール

 人の本質とは何か、
信じられる人とは、人間性とは、
すべて、この世的な物差しではあるものの
この世、社会や世間で、上手に生きていくには
人間性は大切であるといえます。
しかし、神の為にのみ生きるのであれば
あまり気にすることもありません。
聖者の多くは、人間性には問題ありとも
いわれています。なぜなら人がどう思うのかに
何の価値も見出していないからです。
ただ、神からみて良ければすべて良しという
立場で、生きているからです。
欠点とは、この世でのものであれば気にする
こともないということで、神に対してで
あれば気にしてもしかたがなく、
隠す必要も意味もないと
いうことになるわけです。
しかし、この世で上手く立ち回りたいと
想い願う人のなかには、欠点を隠したい、
知られたくないという人も大勢います。
完全でありたい、そうみて欲しいという
欲求がそうさせるのだといえるでしょう。
欠点があると嫌われるとおもい、
嫌われるのがいやだということもあるでしょう。
欠点をみせない人が、馬鹿か偽善者だという言葉には、
欠点は誰にでもあり、それは悪いものでもなければ
卑下するものでもないという意味があると
いえるでしょう。
人の欠点を嘲笑し馬鹿にするものは
信頼できない愚か者であるということだとも
いえるかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 12:16| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月14日

新しいことに挑戦するときに、もっとも大切なことは、

『新しいことに挑戦するときに、もっとも大切なことは、
 現在の自分の能力を考慮してできるかできないかを
 予測することではなく、「やる気」があるかないかである。』
   斎藤 茂太

 チャレンジに、必要なものは、
能力でもなければ、財力でもなく、強い想いと信念、
そして、小さい勇気。
 やる気があれば、きっと出きる。
慰めのようにしかきこえないこともある言葉で
あったとしても、
誰かが、少し支えてくれたなら、きっと真実に
みえてくるものです。

 現状において、出来ないという理屈を
山のように考えてみるのではなく、
出きるかも知れないという可能性を小さくても
ひとつでも良いから見出して、それを信じること
そうすれば、未来は必ず答えてくれるということ
それが、人のもつ可能性であり、
真実であるということ。

 今、東日本大震災のなかで、脱原発が叫ばれています。
出来ない理由をあげて、原発を維持しようと
やっきになっている人は過去の人であるといえるでしょう。
可能性がひとつではなく、数多く語られているのだから
脱原発は、出来ないことでも、不可能のことでもなく
実現可能なことであって、小さな勇気をリーダーが
持ちさえすれば、未来に見えてくるものだと
いうことです。
 本当に国民を愛し、日本を愛しているのなら、
できる小さな決断を、今こそして欲しいと願います。
posted by 清水の伏竜. at 13:22| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月13日

平和とは、ただ闘いのないことではなく、

『平和とは、ただ闘いのないことではなく、
 それは魂の力により生まれる美徳である。』
   スピノザ

 平和とは何か。
単純に闘いがない、戦争がない、ということでは
ないはずだということです。
 東日本大震災のさなか、今の日本は平和とは
いえない状況にあるといえるでしょう。
まさに、事故との闘いは続いており、
被災との闘いも続いています。
 最前線で、自衛隊、消防、警察といった
有事対応のエキスパートの皆さんが戦いを継続中であり
原発では、原発に関する労働者が、
事故の沈静化のために、闘いを継続中です。
それらの闘いが終わり、通常の業務状態に
戻ったあとに、つかの間の平和が訪れると
いうことなのかもしれません。
 平和を、魂の力により生まれる美徳と
表現した言葉での魂とは、人の根底にある魂ではなく
精神とかスピリチュアルといった方がよいかもしれません。
神の分魂である魂にとっては、この世的な意味での
平和は意味のないことであったりします。
平和とは、やはりこの世の感性として存在するものであり
精神によって、感情によって、生み出される美徳であると
いった方が良いのでしょう。
落ち着いた状態、安心な状態、安らぎのある状態と
いった感じではないでしょうか。
 平和を求めることは、確かに良いことであると
いえるでしょう。
しかしながら、平和でない状態においてこそ、
人の価値は試されているともいえるでしょう。
 現在の日本において、東日本大震災という状況下で
まさに、それぞれの人が、その存在価値を
試されているのだといえるかもしれません。
 権限を持つもの、財を持つもの、地位のあるもの
そいうった人が、より大きな天命を果たせるのか
試されているということです。
大きなものをもつものは、大きな責任を与えられている
そして、その行動の結果しだいで、大きなカルマを
背負うことになるかもしれないということです。
posted by 清水の伏竜. at 18:12| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月12日

貧困は不正なことを教える

『貧困は不正なことを教える。』
   セネカ

 ふとした気の迷いから、万引きしてしまう。
盗みをはたらいてしまう。詐欺をしてしまう。
その理由に、貧困があったりします。
 貧困であるがゆえに、生きるために
罪を犯すという事例が、この世界には数多く存在して
いたりするわけです。
貧困から、空腹へ、そして、気が荒み、心が荒れて
暴力や、犯罪へとはしってしまう。
ある限界を超えたときに、人が貧困により陥る不正が
残念なことに、この世には存在しており、
そのような犯罪が、数多く発生しているという
現実があったりするわけです。
 貧困を撲滅するというキャンペーンや運動が
世界中で行なわれています。
しかし、施しによる貧困への対応では、
この問題は解決することはないでしょう。
貧困からの脱却は、自立的に行なうことが出来なければ
ダメだということです。
少なくとも衣食住の最低限のレベルを自活できるように
することが重要であり、
そこから、貧困による犯罪を減らしていけるように
なっていくのだといえるでしょう。

 日本は恵まれた国です。
日本における貧困は、本当の意味では貧困では
ないのかもしれません。
それでも、貧困に陥ったとき、
そこから脱出するチャンスがなければ、
人は荒んでしまいます。
日本での問題は、チャンスがないことにあると
いえるでしょう。
その部分における社会システムの改善こそが
求められていることであるといえます。
posted by 清水の伏竜. at 19:46| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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