2011年04月30日

人間とは、パラドックスの体現であり、

『人間とは、パラドックスの体現であり、
 矛盾の塊である。』
   オーギュスト・コント

 人間の複雑さを表す言葉のひとつと
いえるでしょう。
パラドックスといえば、ある前提から
妥当にみえる論理を展開して、正しいと
思われる結果が受け入れるのが難しいものに
なっていること、いろんな有名なものが
あったりします。
 擬似パラドックスといわれるような
実際に正しいものであるが、印象的に
正しくないように感じるものもあるようです。
「23人のクラスの中に
 誕生日が同じである2人がいる確率は50%以上」
というものなどだそうです。
 人が、まさに、みかけによらないものであり
その内面には、複雑なものを抱えていて
様々な顔をもっているものであるということ
その顔のなかには、まさに矛盾するかの
ようなものもあるということです。
しかし、そんな矛盾するようなものも含めて
ひとりの人間、個性を構成するものであると
いうことは間違いなく、現実であり事実であると
いうことなわけです。
 さいきん、アニメで、
シュレーディンガーの猫がよく扱われたり
してました。
人が不思議な存在であるように、この時空も
不思議な存在であったりもし、そのことを
認識することもあれば、ないこともある。
そんな不思議にであったとき、その事実を
受け止められるか否かが、その人の深さを
示すことになるといえるでしょう。
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生成するすべてのものは、全体の生命の根底にある、

『生成するすべてのものは、全体の生命の根底にある、
 あの永遠なるものを幸福にするために生成するのである。
 この全体は、あなたのために生じているのではなく、
 あなたが全体のために生じているのだ。』
   プラトン

 プラトンは、神の存在をおぼろげながら
感じ取っていたということなのかもしれません。
人は、神よりいでし魂をその核としてもつ
器であるともいえるわけですから。
神の目的、神の喜びのために、人は生まれ生き
そして逝くことを繰り返しているともいえます。
そんな人は、社会や国家を構成するのは、
やはり、魂の元なる神という繋がりを、
根底において感じ取っているからだともいえるでしょう。
 全体のなかの個、個からなる全体、
人は、まさしく、ひとりでは存在価値のないものであり
社会や世界と繋がっているからこそ価値あるものと
なっているのだともいえるでしょう。
どのような形であるかは、多種多様であるものの
何かと結びついている、何かと係わりあっている
そんな存在が人であるということです。
だからこそ、人は人を求めるのだと
いうことでしょう。
プラトン流の
 ひとりはみんなの為に、みんなはひとりの為に
ということでしょうか。
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2011年04月28日

涙とともにパンを食べたものでなければ

『涙とともにパンを食べたものでなければ
 人生の味わいはわからない。』
   ゲーテ

 厳しい、苦しい、辛い、悔しい、
ありがたい、嬉しい、・・・・
 涙を流しながら、パンを食べるという
経験というものは、何かとても感情を
揺り動かされるようなことがあって、
食を得たということでしょう。
 それは、ようやく食べ物を口に出来たのかも
しれないし、初めて人の温かさを感じたときなのかも
しれません。
 ゲーテの時代であるなら、
貧しさのなかで、教会から施されたパンを
口にしたといった経験なのかもしれません。
 ともかくも、人生における味わいとは、
人生を生きているという実感をどれだけ
感じることがあったのかということなのだと
いえるでしょう。
 震災のなかで生きる人たちは、
まさに人生の味わいをわかっていると
いえるのかもしれません。
 生きることにおける生きることの意味を
極限の状況に陥ったときこそ、
強く感じるものであるともいえるでしょう。
 人にとって、生き抜くことは、
魂の霊性修行であるのですから・・・・
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2011年04月27日

悪法もまた法なり

『悪法もまた法なり』
   ソクラテス

 紀元前399年4月27日、ソクラテスが
死刑を宣告されて、服毒死した日ということで、
哲学の日だそうです。
 当時のギリシャの権力者にとって、
ソクラテスの思想が、青年に与える影響が
非常に大きく、その結果、権力者たちにとって
不都合な状況が生まれていたことから、
罪に問われ、一方的な判決を下されたわけです。
ソクラテスを獄中から逃亡させようとした
友人クリトンに対して、
ソクラテスは、遵法の精神を大切にするという
自らの哲学の信念にもとづいて
「悪法もまた法なり」と語り、刑に服することを
選択したといわれています。
年齢も70歳ということもあったのだろうとおもいます。
 法と裁きの問題は、
いつの世でも、人々の間で議論となってきたことです。
死刑制度の問題しかり、
裁判員制度の問題、検察の問題、法律そのものの問題、
真理というものがない、この世の社会の決まり事は
時代と政治によって、いろんな状況をとっています。
ゆえに、多くの人が、考えていくべき課題でもあると
いえるでしょう。
 法と哲学、そして、宗教と倫理、
何が正しく、何が間違いなのか、
何が正義で、何が悪で、何が罪なのか、
日頃考える機会が少ないなか、
哲学の日という機会に、少し考えてみるのも
良いのではないでしょうか。
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2011年04月25日

人間とは「世の中」自身であるとともに

『人間とは「世の中」自身であるとともに
 また世の中における「人」である。』
   和辻哲郎

 人は、社会的な生き物であるということ。
世の中において、その存在を認識し、
生きる道を見出していく、
ひとりで生きていくのでは、生きていることには
ならないという存在であるといえるでしょう。
人に、性別があるのは、まさに、ひとりでは
生きていけないからだともいえます。
 そして、人がこの世に生まれ逝くまで、
なすべき歩みは、すべて霊性修行であり、
そして、霊性修行のためには、ひとりでは
意味がないということでもあったりします。
 世の中におけるひとりであり、
世の中を構成しかたちづくるひとりでもある
それが、人ということになるでしょう。
ゆえに、為に生きることが、尊いことにも
なるわけです。
そのなかでも、親ともいうべき、
神の為に生きることこそが、最大の価値であり
もっとも尊きことといえるでしょう。
それを成した人に、イエス様やお釈迦様などが
いらっしゃいます。
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2011年04月24日

人類のもっとも偉大な思考は、

『人類のもっとも偉大な思考は、
 石をパンにかえるということである。』
   ドストエフスキー

 石をパンにかえるということは、
どういうことを意味するのか、
ようは、食べられないものを、食べられるようにする
不要なものを、価値あるものにする
必要ないものを、必要なものにする
といったことになるのでしょう。
 そんなことを行うことが出きる能力を
人は与えられているということです。
それは、思い考えることのできる力、
論理的に、分析し解析し理解し応用する
創造する力といえるかもしれません。

 未来少年コナンでは、プラスチックから
パンをつくっていました。
いずれ、そういった時代になるのかもしれません。
人類が、宇宙へと進出する時代になれば、
現在では、考えられないような技術や手法が
当たり前のように利用されていることでしょう。
そして、無理をして、
動物を殺して死肉を食べるような禁忌を
侵さずにすむのが、普通になっている部分が
広がっているかもしれません・・・・・。
posted by 清水の伏竜. at 14:36| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月23日

こんな小さな人間でも、やろうという意志さえあれば、

『こんな小さな人間でも、やろうという意志さえあれば、
 どんなことでもやれるということを信じるのだ。』
   ゴーリキー

 何事においても、結局のところは
やろうという意志と行動力、
そして、出きると信じる心が、大事であると
いうことですね。
出きると信じること、そうできないと
なかなか一歩が踏み出せないものです。
だから、子どもたちや、愛する人にも、
あなたは出きると言ってあげることが
大切であるといえるでしょう。
人は、後押ししてもらえると、行動できるように
なるものですから。
 優れた上司は、褒め上手であるといことです。
叱咤も時には必要ですが、行動を促すものでは
ありません。行動を抑制し萎縮させるものです。
部下が仕事が出来ないのは、上司が仕事をできないように
しているからだともいえるでしょう。
子どもが勉強が出来ないのは、親や先生が
勉強できないようにしているといことです。
 本当に、相手の力を引き出したいのであれば
相手にそれが自分で出きるのだと信じ込ませることが
重要であるということです。
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2011年04月22日

生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、

『生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、
 現在に充実することだ。
 過去にこだわったり、未来でごまかすなんて根性では、
 現在を本当に生きることはできない。』
   岡本 太郎

 過去でも、未来でもない、現在こそが
生きるということの本質であるということです。
まさに、この瞬間に、どんなに充実しているのか
どんな情熱や思いを抱いているのか、
そのことこそが、生きていることの価値を
決めているということになるわけです。
 過去でも、未来でもなく、
今、生きているのだという実感こそが、
生きていくために大切なものだということですね。

 もちろん、今を充実するために、
過去からの経験や知恵、未来への希望や目標の存在は
欠かせません。
 現在は、過去から未来への分岐点でもあるのですから、
しかし、過去にこだわりすぎるのも
未来にすればいいからと今をごまかすのも、
生きることの価値、生きる充実感を損なうだけであり、
だめな人生へと落ち込んでいってしまう
要因となるのだといえるかもしれません。

 今、この瞬間を、充実した生を感じるために
過去を引きずることなく、活用し、
未来へ頼ることなく、希望を抱くことが、
大切なのだといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 18:39| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月21日

鳥は卵からむりやり出ようとする。卵は世界である。

『鳥は卵からむりやり出ようとする。卵は世界である。
 生まれ出ようとする者は一つの世界を破壊しなければならない。』
   ヘルマン・ヘッセ

 新しい世界が生まれるにあたっては、
古い世界を破壊するということが必要になると
いうわけです。
変革とは、破壊を伴うものであるということでしょう。
確かに、変革では、古いものを捨て去るということで
あったりします。
しかし、単に切り捨てるというケースと、
包括して進化するというケースとがあるのではないかと
おもいます。
 破壊というのは、すべてを一旦無とするということとは
限らないといえるでしょう。
もちろん、全てを無にして、創りなおすというケースも
あるでしょう。
しかし、すべての創造や新生が、無から生じるという
わけでもありません。
温故知新という言葉があるように、
イノベーション、メトモルフォーゼといった、
進化的な創造というものもあるようにおもいます。
 生まれでようとするということは、
生まれでようとするもの自身が変化したからでもあります。
変化したものには、新しい環境が必要であるということだとも
いえるでしょう。
 それは、成長していくなかで、活躍すべき場が
変化していくことと同じではないでしょうか。
その変化は、元の場所を破壊するというわけではなく、
そこから立ち去るだけという言い方もできるかもしれません。
 守破離という言葉が示す進歩と同じことであると
いえるのかなという気もします。

 新世界へ旅たつには、その新世界に相応しい自分に
自らも成長していなければならない
そういうことなのではないでしょうか。
posted by 清水の伏竜. at 12:55| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月20日

生きるとは深い孤独の中にあることだ

『生きるとは深い孤独の中にあることだ。』
    フリードリヒ・ヘッベル


 生きる、生きていく、人生を歩むこと
それは、自分自身の問題であり、
自分自身のことでしかない。
まさに、孤独の中にあるということなのかも
しれません。
 両親、姉弟、恋人、妻、友人、子ども、
縁のある人がいても、人生は自分自身だけのもの
自分だけのものだということです。
そのことは、深い孤独のなかにあるのだと
いえるのかもしれません。
でも、本当は、根底において、その存在として
魂として、神と繋がっているのであり、
孤独な存在ではあり得ません、
真に深いところにおいては、孤独ではないのに
孤独だと感じるのは、弱さのあらわれと
いえるのかもしれませんね。

 
posted by 清水の伏竜. at 21:00| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月19日

理性、判断力はゆっくりと歩いてくるが、

『理性、判断力はゆっくりと歩いてくるが、
 偏見は群れをなして走ってくる。』
  ルソー

 今回の東日本大震災においても、
この言葉の示すようなことが発生していると
いえるかもしれません。
放射能・放射線汚染についての風評などは
まさに群れを成して走っている偏見であると
いえるのではないでしょうか、
理性や判断力をもって、しっかりと物事を
認識し、識別することが出来るといったことは
なぜか早く広がることはなく、
ゆっくりとしているものであったりします。
 メディアやネットでの情報流布においても
同様な傾向があるといえるでしょう。
それが、パニックを招き、風評被害や、買占めや
時には暴力などになって、社会に表面化して
くるというわけです。
 落ち着いて歩むことが求められています。
落ち着いて考えることが求められています。
それが出来るかどうかは、個々の人の心のあり方、
信じる力のレベル、知恵の深さ、理性の高さ、
経験の多さ、といったものによって
変わってくるのでしょう。
 日頃からの努力の積み重ねが何事においても
大事であるということなのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 22:30| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月18日

救いは一歩を踏み出すことだ。さてもう一歩。

『救いは一歩を踏み出すことだ。さてもう一歩。
 そしてこの同じ一歩を繰り返すのだ。』
  サン=テグジュペリ

 何事においても、前に踏み出すことが
大切であるということです。
いっきにゴールに向かうことを考えるのではなく
まず、目先の一歩を歩みだすことだというわけです。
夢や目標に向かっていくとき、
それが大きいほど、遠くにみえることになります。
そんな遠くに見えるものであっても、
まず目先の小さな一歩があってこそたどり着ける
のであって、その一歩がなければたどり着くことは
ないというわけです。
 一歩一歩、その繰り返しの先に、
目指すものがあり、それが救いであるなら、
まさに救われることになるといえるでしょう。
 もちろん、人によっては、その一歩を踏み出すことが
大変なことであったりします。
一歩の大変さは、人によって異なるものです。
自分が簡単に出来るからといって、他人も同じであると
思うのは大きな間違いです。
よき師である人であれば、弟子にとっての一歩が、
どの様な大変さであるのか見極めることができるでしょう。
そして、それに応じて叱咤し指導することでしょう。
それは、上司と部下、先生と生徒、親と子の関係に
おいてもいえることです。
ダメな部下とか、ダメな生徒とか、ダメな子とか、
そんなことを言う上司や先生や親は、
実は、上司や先生や親がダメダメなレベルであると
いうことに過ぎないというわけです。
しかし、自分のダメさ加減を認識できない人が多いため
会社でも学校でも家庭でも、いろんな問題がおき
うまく解決できないでいるのだともいえるでしょう。
他人に原因を求める前に、自分自身を見つめなおすこと
それが最も重要であるといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 19:26| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月17日

あらゆる歴史は、天国と地獄の両極端の間にある・・・

『あらゆる歴史は、天国と地獄の両極端の間にある
 世界の振動の記録にすぎない。』
   バーナード・ショー

 歴史をどう考えるのか、これについても
いろんな歴史観があったりします。
そんななかのひとつとして、歴史の振り子を
捉えた言葉なのかなと感じます。
天国と地獄という表現に対して感じるイメージも
国や民族によって異なるものであったりします。
それは、まさに、民族レベルのカルマや徳分が
関わっているものであるからなのかもしれません。
そして、神の用意した霊性修行の環境として
人種や国があるともいえるでしょう。
それ故に、魂のレベルの差が平均的にあるために
そこで生まれる価値観や歴史にも差が出てくると
いうことになるのでしょう。
動物から人にはじめて宿る魂の殆どは、
白人として生まれてくると言われています。
そして、魂の成長のレベルに従って、
黒人から黄色人種へという流れがあるようです。
イエス様やお釈迦様が黄色人種であったことも
そんな神の采配があったからだといえるようです。
ゆえに、歴史もまた、そんな神の采配の下で
築かれてきたものであるがゆえに、
それぞれの流れがあるということになるでしょう。
その歴史の流れのなかに、
私たちも存在しているということです。
そして、その中で与えられた役割があり役目があり
それを成すことを通じて成長していくという
ことであるといえるでしょう。
そこには、天国のような時代もあれば、
地獄のような時代もあるでしょう。
しかし、生まれてきた時代に、そこで生きることは
それが意味のあることであるからです。
そのことを感じ取りながら生きていけると
よいのかなとおもいます。
posted by 清水の伏竜. at 04:34| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月16日

一生勉強、一生青春

『一生勉強、一生青春』
  相田みつを

『一生勉強と一生青春は、一枚の紙の裏表のようなもの。
 「年をとって困ることは、身体が固くなるばかりでなくて、
  頭が固くなること、心が固くなることです。
  心が固くなると、感動、感激がなくなります。
  一生青春を保つためには、心のやわらかさを保つこと。
  そのためには、具体的に何かに打ち込んでいくことだと思います。」』
  相田みつを

 この言葉に出会ったとき、本当にしっくりときました。
まさに、自分自身の生き方や姿勢にピッタリするという
感じがしたということです。
 大人になって、自分が子どもであったときのことを
忘れてしまう人もいますが、私は常に子どものころの
感覚や視点、感性を持ち続けたいとおもっています。
そして、それは、まさに一生青春であるということだと
感じているといったところです。
また、学ぶこと知ることによって、新たな視界が
広がっていくことの面白さ、素晴らしさも
わすれたくないし、この人生で、どれだけのことを
学べるのかが、人生の意味でもあるとおもうので、
一生勉強であるということも、その通りだと思っています。
 人生における姿勢として、心にもっているべきこと
それが、生涯通じて、いつも青春でいる気持ちを
もっていたいということであり、常に学ぶ姿勢で
あり続けたいということだといえるでしょう。
そして、人として常に謙虚でありたいし、
感謝の気持ちを忘れないでいたいというおもいも、
学ぶ姿勢と青春の感性と通じるものだと感じています。
青春は、チャレンジすることでもあり、
過ちを認め謙虚であることでもあり、
多様性を容認し、他人を大事にするなかで、
協力しあっていける柔軟性をもっていられることでも
あるように感じます。

 人は生まれ、やがて逝く日を迎えます。
その流れのなかで、出会いや絆を大事にし、
縁に感謝していくこと、学びとったことをもとに
成長していくことが、より充実した人生を過ごして
いけることになるような気がします。

 今ある自分、それは、自分の先祖から両親までの
存在があって、この心身が存在出来ているということです。
ゆえに、両親や祖先に感謝するのはあたりまえのこと、
日本には、そんなあたりまえのことを大事にしてきた
慣習や行事があります。感謝の気持ちをもって
そんな慣習や行事を大事にしていきたいものです。
そして、今日まで生きてきたのは、関わり合った人との
縁のなかで、生かされてきたということでも
あるわけです。そのことを忘れずに、これから先の
逝く日までの人生を、しっかりと歩んでいきたいと
おもいます。
posted by 清水の伏竜. at 09:53| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

温故知新、温故創新 〜 叡智を学ぶということ

『温故知新、温故創新』

 温故知新は、孔子の論語-為政篇からの出典で、
「子曰く、故きを温ねて、新しきを知れば、以って師と為るべし」
から、師となるべき人の心得として必須な条件のひとつとして
語られているそうです。
師となるような人であれば、先人の思想や学問を研究して、
そこから、新しいことを知ることが出来るべきであるといった
ところでしょうか。
勉強することの大切さを語ると共に、何かを生み出すためには
その基礎となるべきものが必要であるということを
示してくれているといえるでしょう。
現代科学は、基本的に経験の積み重ねから成り立っています。
理論の確立もデータの解析から行われていますし、
理論の検証もデータの確認によって行われています、
実験と観測と観察、分析と統計と解析、
多くの積み重ねを論理的にまとめあげてきた結果と
いうことになるでしょう。
発明も、その多くは、それまであったものの
組み合わせによって生まれているものであったりします。
あらたな発見も、あたらな創造も、学びの先にあると
いえるでしょう。
 知恵、伝統、文化、慣習、慣例、・・・
先人から子孫へ、師から弟子へ、
伝えられるものの中に、大切なものがあると
いうことでもあるでしょう。

 世界、この宇宙の真理を司る叡智、
物質世界の叡智としての科学、
霊界・スピリチュアルの世界の叡智としてのオラシオン、
魂の世界、神の世界の叡智としてのヴェーダ、
すべての根元は、創造主たる神から出ているものであるものの
その叡智の学びは、異なる形で成されてきています。

 マントラ、ヤントラをベースに構成される
神の叡智は、神より授かりし知恵であり、知識であるため
神より人に伝えられ、それを得たグルより弟子に伝えられて
きたものであり、学ぶためには魂のレベルと、
弟子としての修行が不可欠であるため、この世においては
縁がなければ学べないものとなっています。
神やその御使いたるエンジェルに出会える人は
限られており、その叡智を学べる資格も条件があるという
ものとなっています。イエス様やお釈迦様のように、
真の叡智は、書き残されることはなく、書き残されたものも
普通には読めないものしか残されていないのが現実で
あるようです。神から直接学んだ聖者からの学びを
弟子が記したものが残されているものの、その内容は、
弟子として直接師から学べるもののほんの一部でしかない
ということになっているために、誤った伝わり方や解釈が
なされてしまっていることが多かったりするみたいです。
魂の成長という神の願いを成すための知恵であるため
この世的な恩恵とは違った世界であるといえるでしょう。
信仰が問われ、祈り、プジャ、修行という出家しなければ
究められない世界でもあったりします。
神の奇跡と呼ばれる現象の論理的な説明も出来るものであり
多くが、アジア、インドを起点に、この世にもたらされています。
しかし、アーユルベーダにしろ、ワーステゥ、アストロジー、
といった叡智は、人の間の伝承によって、解釈ミスや
翻訳ミスや、人の求めにあった勝手な追加により、
正しい姿を失っているものも多いようです。
風水や占星術などは、その典型といえるみたいですね。
神の叡智を正しく学ぶためには、その叡智の源流に近づくことが
不可欠であるといえそうです。
それは、どんな師に学ぶのかということは重要であると
いえるでしょう。
人を構成する根元、存在の核である魂の世界の学びは、
人生や運命の源泉であるわけですが、成長過程の違いや
カーストの違いなど、この世での霊性修行の内容が
異なるがゆえに多様であり、またこの世の幸せが目的ではない
ために、理解できない人も多いものとなっていると
いえそうです。
神の叡智を学ぶには信仰の力が必要ですし、
魂の成長レベルによって学べるものも異なるようです。
神の奇跡と呼ばれる現象、運命、カルマの解消、
徳分による恵み、それらは契約の神、論理的な神の
叡智によって全て説明できるものとなっているわけですが
その真理の本質に迫るのは大変なことであると
いえるでしょう。

 人の存在を構成し、魂の器でもある命、精神、霊体に
関わる世界が、この物質世界に重なるように存在しています。
その世界を司る叡智が、オラシオンであり、シールである
わけですが、この叡智は、スピリチュアルな世界の住人である
アークエンジェルやエンティティといった存在から
人にもたらされたものであるわけです。
また、バッドスピリッツによるマイナスな側面も存在して
いるのがこの世界でもあったりします。
その叡智の源泉は、モーゼが、エンティティより得た叡智から
はじまる主流の系譜の他に、それぞれの地域や国のなかで
スピリチュアルな世界に近づける力をもった人が、
その世界の存在から教えられた叡智によって、
行われてきたものた存在しています。
巫女や神官、陰陽師、エクソシスト、悪魔払師、霊媒師、など
多くの宗教や伝承や禁忌などは、スピリチュアルの世界の事象で
あり、魂の世界である神の世界とは異なるものであるのが
実体ですが、この世的には不思議なことであるために
神の世界と混同されてしまっていることが多く、
神ではない、スピリチュアルやアークエンジェル、
エンティティ、物の怪、などが、神として扱われていることが
多かったりします。
史上において、スピリチュアルの世界で、
最高の術者として自らの力で、その叡智を手にすることの
できる人は、7人くらいしかいなかったというくらい
この世界でも、その叡智を究めることは難しいことであると
いうことです。
モーゼ、ソロモン、アフラメリン、クローリー、
メイザーズ、トニーモラレス、といった最高の知恵者に
学べた人は幸運であったといえるでしょう。
聖書はオラシオンであり、エクソシストによる
エクソシズムは、その叡智を使ってなされています。
ヒーリングや、まじない、占い、霊感、霊媒、
呪い、呪縛、付き物、妖怪、幽霊、お化け、悪魔付き、
とかいったもののほぼ全てが、
スピリチュアルな世界の影響下での現象であり、
神とは直接関係のない事象であったりします。
人に悪さをするスピリチュアルな存在からの影響を
排除するためには、神の叡智ではなく、
スピリチュアルの叡智が必要とされることになります。
多くのこの世での奇跡と呼ばれる現象や、
超常現象などは、スピリチュアルな世界の叡智で、
説明が可能であったりしますし、より健全で良い生活の
ために、スピリチュアルな世界での悪い影響である
ブラックマジックや、バッドスピリッツ、
バランやクーランを退けて、良い影響をもたらすために
スピリチュアルの世界の叡智を学び実践することは
大きな効果があるわけですが、正しい叡智は、
なかなか学ぶことが出来ない状況となっているようです。
この世界の学びも、よき師との出会い、
縁によるところによるものが大きいといえるでしょう。
また、信じることが出来るかどうかも問われます。
ホワイトマジシャンとブラックマジシャンという存在、
善と悪という構図が、この世に近いスピリチュアルの世界には
存在しています。ブラックマジシャンは、その術で
人の魂の成長のために成すべきことを阻害するため
神の悲しみになっていたりもするようです。
日本には、日本固有の土着のスピリチュアルな世界の
術者は、安倍の清明をはじめ、いましたが、
いわゆるエクソシストと呼ばれる術者はいませんでした。
しかし、今はいます。縁があれば、学ぶこともできるでしょう。

 神の叡智、聖霊の叡智、の世界は、
人の存在における魂の世界、霊体・精神の世界に関する
ものであり、それを理解するには、それなりの条件も
必要であるものだったりします。
人は、また肉体をもっています。
人の身体に関わる世界が、この物質世界です。
物質世界を司る叡智もあり、それが自然科学であると
いうわけです。この世界の叡智が、もっとも理解しやすく、
また学びやすいものとなっています。
科学は論理的であり、原理原則から成り立っています。
現世の叡智である科学と同様に、神の叡智も、聖霊の叡智も
原理原則からなりたっており、論理的なものです。
そして、それらの叡智を認識できる生物は、
人間しかいません。
人が、生物のなかで特異な存在であることは、
あきらかであるといえるでよう。
しかし、それゆえに責任・義務を背負っているとも
いえるわけです。

 科学的でないといって、現象を認めない人が
いたりします。それは、もっとも学びやすい科学を
盲信するがゆえのことであり、あり意味では
仕方のないことであったりします。
科学が進歩していくにつれ、他の叡智との認知の
差が広がっていき、わかれていってしまいました。
宗教と科学は不可分な学問であった時代もあり
錬金術師や魔術師が、科学を担っていた時代も
あったわけです。ガリレオもニュートンも
宗教家でしたし、科学者でした。
ただ、他の叡智の認知のレベルの広がりよりも
科学の認知のレベルの広がりが早く深くなって
いったことが、分離していった要因であると
いえるでしょう。
しかし、科学という叡智は今も不完全であり
万能ではないことも事実です。
そして、現在の科学では説明できないことも
多数存在しています。
科学で説明できないことも存在していることが
あたりまえであると認識できるか否かが、
その先の叡智を認識できるか否かとも関連しれいる
かもしれません。
科学的というのは論理的であるということであって
現在の知識で説明できるか否かではないと
いうことです。
奇跡とか超常現象とかいわれるものも
実は科学的、論理的に説明できる事象であり、
そのために必要な叡智に違いがあるというだけだと
いうことです。
もちろん、その叡智を知らないものにとっては
不思議な現象となるでしょう。
ローマ時代の人が、現代社会に訪れたら
飛行機や自動車などを魔法と思うのと同じことです。

学ぶことの大切さとは、まさに事象を論理的に
科学的に認識し理解できる基礎をもてるかどうかと
いうことなのだといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 09:36| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月15日

人生とは、歩き方をおぼえるまでは間違った道ばかり選んでしまう迷路だ

『人生とは、歩き方をおぼえるまでは間違った道ばかり選んでしまう迷路だ。』
  シリル・コノリー

 人生の道、ある意味では、
運命により定められている道でもあり、
しかし、運命の定めは、何でも縛るものではなく
生まれ逝くまでに、成すべきことを
定めただけであり、どの様に成すのかは
その運命を与えられて生まれた人に
ゆだねられているもの。
それゆえに、過ちを犯すものもいれば、
より素晴らしい歩みを成すものもいる。
運命のなかの選択の重要さは、
まさに、その人の努力と信仰と信念によって
築かれていくものということです。
 でも、この世にて生まれたときには、
魂の記憶は封印され、新たな命とスピリッツにより
一からはじめて成長していくことになり、
まさに、学び育っていくまでは、
良い道を選ぶことが出来るとは限らない
迷路のなかを歩んでいるようなものだと
いえるでしょう。
だからこそ、両親の導きや、師の導きが
重要であり、大切であるということです。
良き両親や親族のなかで育つことは、
幸せなことでありということです。
また、良き師との出会いも、とても素晴らしい
ことであり、幸せなことであるといえるでしょう。
出会いによって、大きく道が異なるのも
人生の不思議といえるのかもしれません・・・。
posted by 清水の伏竜. at 06:32| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

遺言・・・・

遺言

 4月15日は、遺言の日だそうです。
語呂合わせから、制定したそうで近畿では
行事もあるとか、
遺言、昔は辞世の句というものを残すのが
ひとつの慣例でもあったりして、
多くの偉人や賢人、文人が、この世を去るに
あたって、一句残していらっしゃいますね。
最近は、個人で遺書を残す人も多くなっているようです。
家族や家庭が崩壊し、核家族化によって
人の絆が崩れていって、社会そのものも崩壊して
コミュニティが消えていったことで、
その力を失い知恵を失いダメになってきた日本社会。
やはり、人が人らしく生きれる社会は、
家族の絆という根本がしっかりとしていなければ
ダメだということでしょう。
大家族時代への回帰こそが、すべての問題を
解決するための根本であるのかもしれません。
個人主義からの脱却こそが、
いろんな問題の解決への近道ということかも
しれません。
コミュニティの再生が地域の活性化に
繋がっていくとしたら、やはりその根本には
家族、親族という人の根本となる絆を
大事にすることが必要ではないでしょうか。
 先祖に感謝することの大切さを日本人は
知っていました。そのための慣習も数多くあります。
日本人の素晴らしさは、日本文化と伝統の中にあり
長い歴史のなかで築かれてきたことであると
いえるのではないでしょうか。
黒船来襲から続く、
欧米のものが良いという幻想と呪縛から
解き放たれることこそが、もっとも必要なことで
あるのかもしれません・・・。
 遺言は、未来に託す希望でありたい
ものだと思います。
posted by 清水の伏竜. at 05:47| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月10日

私の場合は別に行く先があって旅行しているわけではなく、

『私の場合は別に行く先があって旅行しているわけではなく、
 ただ行くのです。
 旅行自体が目的で、旅行するのです。
 大事なのは移動することなのです。』
   R.L.スティーブンソン

 旅することが、目的という旅もあると
いうことです。
それは、山登りが、山に登ることが目的で
あるのに似ているのかもしれません。
人生においても、ただ生きることが
目的というのでも、構わないということ
なのかもしれませんね。
学ぶこと自体が目的とか、
覚えること自体が目的とか、
考えること自体が目的とか、
鍛えること自体が目的とか、
そういったことがあっても構わないと
いうことかもしれません。
ゴールなき目的、そんなものがあっても
それはそれで、良いということでしょう。
大切なのは、自分自身で決めること
自分自身で歩むこと、
そして、他人の目的と自分の目的を
比較して、悦に入ったり、卑屈になったり
しないこと、
そんなことであるのではないでしょうか・・・
posted by 清水の伏竜. at 02:04| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月09日

一つの顔は神が与えてくださった。

『一つの顔は神が与えてくださった。
 もう一つの顔は自分で造るのだ。』
   シェークスピア

 この世に生まれたとき、神により与えられた
運命と生涯があり、両親と共に与えられた
肉体と命があり、顔がある。
その顔は、成長し、人生を歩むなかで、
変化していく、その変化は、まさにその人が
どんな日々を過ごしてきたのか、
霊性修行の成果と、心と身体の成長の結果として
あらわれていく、自分自身の顔として、
自らの歩みによって造られていくということです。
 いろんな顔があり、いろんな人生があり、
いろんな生き様があり、いろんな運命がある
多種多様であることは、当たり前のこと
そんな人々によって、社会はつくられていると
いうことです。
信じあうためには、多様性を認めることが
大切であるといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 08:17| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月07日

何もかもすぐに究めたがるのはだれだ!

『何もかもすぐに究めたがるのはだれだ!
 雪が消えれば、見えてくる。』
   ゲーテ

 何でもかんでも性急に知りたがる
そんなに焦ってもしょうがないということ
雪に隠れて今は見えないものであっても
やがて雪は溶けて消え、隠れていたものも
見えてくるのだからということです。
 落ち付いて見極めることが、
大事であるということでしょう。
あせって、究めようとすると
見えてないものを見えたつもりに
なってしまって、勘違いして間違って
しまうということもあるでしょう。
まさに盲信という罠にはまってしまうと
いうことです。
 自分自身が、間違っていることに気がつかないで
あやまった情報を拡散していくことに
なってしまうこともあるでしょう。
そんな状況から、狼少年のように、
信頼を失っていってしまうかもしれません。
 今回の福島第一原発の事故にあたっての
反原発系の発言や情報をみていると
まさに、見えないものを見ようとして盲信し
間違った情報を流布して恐怖を広げてしまって
いる部分があるように感じます。
それが、狼少年のように、一般の人からの
信用を失うことになってしまわないのか
危惧します。これまで反原発の活動が、
何の成果もあげられずに、日本における原発の
増加を許してきてしまったのは、
そんな盲信からの情報が、信用を得られなかったり
本当に原発を止めるために必要な行動をせず
自己満足に浸っていたからではないのだろうか
そんなふうにも思えてしまいます。
今、脱原発のチャンスに、まさに統一地方選挙という
チェンジの機会があるのに、そこに脱原発や
反原発の議員や首長を生み出せないでいるのは
何のために反原発の活動があったのかという
感じがしてきてしまいます。
 雪が溶けたとき、そこに新しい道が
見えてくることを願うのみです・・・・・。
posted by 清水の伏竜. at 03:12| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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