2011年03月31日

あらかじめ死を考えておくことは自由を考えることである

『あらかじめ死を考えておくことは自由を考えることである。』
   モンテーニュ

 逝く日が訪れる、それは誰もが避けられない
真実であり、運命であること。
定められた日は、突然訪れることもあれば、
緩やかに訪れることもある。
 大震災など、自然の驚異なる力で、
その時を迎えた人たちにとっては、
まさに、突然のことであり、驚きのことであったでしょう。
ただ、冥福を祈るのみですが、
これも、シバの采配であり、神の御心であったと
いえるのかもしれません。
 多くの人が、試練のなかで、自らの運命と
向き合い、そして、魂の成長を望まれていると
いえるでしょう。
カルマの解消と、徳分の蓄積と、
神の悲しみを癒し、神に喜びを届けるために
逝くときの事を想い、自由な気持ちで、
苦難と困難を乗り越えて、前に進んでいくとき
であるといえるでしょう。

 助かった命は、まだ逝くのは早いという
神の言葉であるということです。
逝く日は、いずれ訪れるものなのだから、
精一杯の生き様を、その日まで、
神と、先に逝った人たちに、みせてみせることが
成すべきことだといえるようにおもいます。

 自由とは、運命のなかで、逝く日まで
どのように歩むのか、それをゆだねられていると
いうこと、そして選択は、カルマとなるのか
徳分となるのか、それも自らが決めること、
魂の成長は、まさにそのなかで、成されていくと
いうことでしょう。

 神の悲しみを少なくするために
禁酒・ベジタリアンの選択があり、
神に喜びをおくるために、祈りとプジャの
日々がある。
それらを、より高次元でなした方に
人は道を学ぶ、お釈迦様であり、イエス様であり、
聖者やグルに従いゆくなかで、
神の叡智を知り、神の叡智を成すということが、
より神に近づくための歩みということ、
しかし、幼き魂には、遙かに遠く厳しい道でも
あるということですね。
posted by 清水の伏竜. at 22:42| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

恐怖は常に無知から生ずる。

『恐怖は常に無知から生ずる。』
   エマーソン

 パニック、風評被害、それは、常に恐怖と
一緒に発生しているようです。
そして、恐怖は、無知からもたらされていると
いえそうです。
 正しい情報を判断できずに、踊らされてしまう。
今回の大震災にあたっては、そんな事象が
いくつか発生してしまっているようですね。
しかも、正しい情報を間違っていると誤認してしまう
といった無知からの恐怖も多いようです。
いくら正しい情報であっても、結局は、その情報を
発信しているところが、信じられなければ
正しくない情報になってしまうということです。
そして、多くの場合、その間違いは、無知から
きているということになるのでしょう。

 今回の震災にあたっても、多くの噂や誤った情報が
流れ出しては拡散し、無知なる人に恐怖を植え付け
不信を促し、パニックや風評被害を発生させているようです。

 正しい情報を出しているのに、それを信じないという
人を生み出している典型が、福島原発事故の政府であり
行政(保安院)であり、東電であったりします。
同じ情報であるのに、なぜか海外メディアが発表すると
正しい情報が出ているとされていたりするのが、
まさに不信の生み出す情報判断の欠如の事象を
あらわしているといえるでしょう。
 東電の発表データを信用できないという傍らで
同じデータをニューヨークタイムスが発表すると
信頼できるデータが発表されたとつたえるような
面白い情報が、ネットに拡散しています。
ツイッターやブログで、そんな情報を流している人は、
データそのものを確認するのではなく、
データがどこから出たのかだけで、正しいか否かを
決め付けてしまっているわけです。
まさに、無知の生み出す恐怖の発生源といえるのかも
しれません。
もちろん、信用を失うような情報の発表の仕方しか
出来なかった、政府や行政、東電の問題であることは
間違いないでしょう。
しかし、冷静に状況を判断し、情報を精査すれば、
データそのものについては、一応正しいことは
直ぐにわかることでもあったりします。
もちろん、不足しているという面は否めませんが
嘘でもなければ間違いでもないことは確かなわけです。
 やはり、情報リテラシィに関する教育の不足が
大きな問題の根本になるのかもしれません。

 今回の一連の被災情報において、
大雑把な把握をしていくにあたり、まずいえるのは、
政府や東電などの公表データについて、
間違いだとか嘘だとかいって決め付けている情報は
負のバイアスが強くかかっているものであり、
誤認情報や思い込み情報である可能性が高いということ。
その種の情報をもとに心配するのは意味がないということです。
 政府や東電のデータは使っていて、ただし不足している
または、発表の仕方が悪いといったコメントを含む情報は
それなりに信用しても良いものだと考えられます。
特に、コメントなく、政府や東電などのデータをベースに
分析と解析のみを行なって評価しているものについては
まあ、基準ベースとして意識してよいだろうといった
感じではないでしょうか。
 あと、もし政府や東電のデータは間違いとか嘘と
主張しているのであれば、その理由と代替となるデータを
提示して、きちんと科学的な論証が論理的に行なわれていれば
基準のひとつとして考えてもよいのだといえるでしょう。
残念ながら、そのようなものが今回出ているのを
見かけたことはありません。
(海外メディアのデータも扱っているのは政府や東電、IAEAの
 データであり、なんらかわりはないものです)

 知らない人に、恐怖を与えて、行動を誘発するのは、
結構テクニック的には簡単であるといえるのかもしれません。
詐欺的な行為ともいえますが、オレオレ詐欺は未だに
なくならない、日本人の御人好しさという美徳のなかでは、
誘導は手馴れた人にとってはたやすいことなのだろうとも
いえるのでしょう。
ノストラダムスの大予言を多くの人が結構信じていたように
今回も、恐怖の大王として、福島原発を信じている人が
いらっしゃるようです。
それも、また、個々の自由ではありますね。
実際のところは、水蒸気爆発さえしなければ、
原発事故の絶対的な最悪王であるチェルノブイリのようには
ならないといえるわけで、原発近隣の皆さんにとっては
長い戦いの日々が始まっているのは間違いありませんが、
そのほかの皆さんにとっては、事故を恐怖するのではなく
事故から生じたエネルギー不足、原発リスクについて
よく認識した上で、日本の未来のエネルギーのあり方に
関して考えていただいて、それぞれの責任である
統一地方選挙における投票を行なうことが重要であると
いえるでしょう。脱原発へ向けて。
posted by 清水の伏竜. at 21:34| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月30日

知らぬ間に汚染されている言葉遣い:「じゃないですか」

 言葉遣いについて、誤りを指摘されると
やはり恥ずかしいものです。
私も、指摘されたことがあったりします。
その代表的なものが、
「〜じゃないですか」
です。
 礼儀を欠いた言葉であり、年上の方や
師と仰ぐ方、尊敬できる方に向かって使うべきことばでは
ありません。
メディアの悪影響に染まってしまったといえるでしょう。
TVなどに登場して、この言葉を使っている人は、
大衆を馬鹿にしている人だと思った方がよいでしょう。

 小学校で英語を学ぶよりもさきに、
きちんとした母国語、国語をしっかりと学ぶこと、
日本の文化や歴史をより深く学び、言葉の大切さを学ぶことの
方が重要であるように思います。
英語を学ぶより、日本語を学ぶ時間を増やすべきでしょう。

「じゃないですか」の自己主張(全原文)
鳥居寛之 (平成6年6月稿)
http://nucl.phys.s.u-tokyo.ac.jp/torii/language/janaidesukafull.html

オフィス敬語の正しい使い方・これって、失礼じゃないですか。
http://www.fujistaff.com/skill/manner/keigo/34.html

 さて、では、「〜じゃないですか」とは、どういうことかと
いえば、「〜じゃないか」と同様であり、
相手に回答を求めずに肯定を強要する言葉であるということです。
なら、どう言えばよいのかと考えてみると
「〜ではありませんか」
というのが普通の言葉遣いということです。

 日頃から気をつけておきたいものだと思います。
posted by 清水の伏竜. at 12:20| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月27日

今、大切なことは・・・ 歌のもっている力

 天災、地球に住む以上は、避けることのできない
人に与えられた試練なのかもしれません。
しかし、それは、乗り越えられない試練でもないと
いえるのではないでしょうか。
その試練を乗り越えるために、人は何をすべきなのか、
あせらずあわてず落ち着いて
ひとりひとりが考えていくことが大切ですね。
 情報社会のなかで、さまざまな情報が流布されています。
そのすべてが正しいわけでもなく、
必要であるわけでもないけれど、
知らず知らずに入ってきてしまいます。
 情報に流されずに、落ち着くために
歌や素敵なメッセージにふれてみるのも良いのでは
ないでしょうか。



posted by 清水の伏竜. at 18:54| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月23日

創造し続けようと思う人間には、変化しかあり得ない

『創造し続けようと思う人間には、変化しかあり得ない。
 人生は変化であり、挑戦だ。』
  マイルス・デイビス

 創造すること、新しい社会を築き、
新しい世界を築いていくとしたなら、
今に留まっているわけにはいかないでしょう。
変化していくことが求められるということです。
変化するためには、人のもっている創造する力が
必要であり、大切であるということです。
そして、創造し続けるのであれば、
変化をみとめ、多くの困難が伴おうとも
挑戦し続けていくことが大切であるということです。
 今、21世紀になり、
人類は、まさに変革を求められていると
いえるのではないでしょうか、
変革を成す為に、変化を恐れず、挑戦し、
創造し続けていくことが必要であるということでしょう。
それが出来るのか否か、そのレベルや挑戦の内容や
大きさや質は、人それぞれに異なることでしょう。
小さい変化であっても、人それぞれに出来ること
出来る挑戦があり、創造できることがあると
いえるでしょう。
 自分には出来ることなどないと思うのではなく
自分でも出来ることがあると思うこと、
そして、ほんとうに小さいことでもかまわないから
自分で出来ることを行なっていくこと、
自分の出来ることに挑戦していくこと、
自分を常に、変化させていくこと、
そうしていくことが、大切であるということなのだと
いえるのでしょう。
 無理をする必要がある人もいれば、
無理をする必要のない人もいるものです。
人には、それぞれに与えられたその人だけの人生があり
人は、それぞれに異なる成長のレベルにあって、
同じであるものはひとつとして存在していないのですから、
違っていることは当たり前のことであるということです。
自分の魂の成長のために、自分の人生を生き抜くこと
そのなかで、自分の出来る変化と挑戦を試みていくこと
それが、よりよく生きるということに
繋がっているのだといえるのでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 09:39| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月20日

賢者は、生きられるだけ生きるのではなくて、

『賢者は、生きられるだけ生きるのではなくて、
 生きなければならないだけ生きる。』
   モンテーニュ

 生きるということを考えることは、
普段はあまりないのかもしれません。
自殺者が年間3万人という状況の社会にあって
千年に一度の大地震と大津波による大災害が
日本を襲いました。
 生きることの尊さ、生きることの大切さを
社会全体で感じ取り、考えてみることが
必要なのだとおもいます。
 生きられるだけ生きるということは、
最低限の神に与えられた人生を歩むという
ことです。それは最低限必要なことです。
しかし、より善く生きるのであれば、
与えられた人生を生きなければならない
そう思えるような厚みをもって
歩んでいくべきであるということです。
 生きるために、大切なこと、
社会にとって大切なものは何なのか、
人はひとりでは生きていけないというように
絆、支え合う心、育み会う心、
地域のコミュニティの重要さ、
そして、家族の絆の大切さを、
高度成長のなか欧米の個人主義に迎合してきた
結果、失ってきた日本の良さを、
取り戻していくべき時代であると
いうことなのではないであようか。
欧米のものが良いし優れているという幻想と
つくられた憧れが、実は誤りであったことを
認識して、日本文化の良さを大事にして
素晴らし部分を失わないように
教育を含めて伝えていくことが必要だと
いえるでしょう。
 日本人として生まれたのは、
日本人として生きることで、魂を成長させる
ためであるということです。
自ら選択して、神の采配のもと、
この世に生まれいでたということの意味を
感じることが、運命をこえた成長を得る
素晴らしい人生を生きることに繋がると
いうことになるでしょう。
神の定めで逝くときまで、
精一杯に生きていく、生きられるまで
生き抜くこと、その為にすべきこと
しっかりと、ひとりひとりが考えてみる
ことが大切であるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 11:22| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月19日

成功するところまで続ければ、それは成功になる。

『成功するところまで続ければ、それは成功になる。』
   松下幸之助

 続けることが大切であるという言葉は、
成功に至る道への鍵ということです。
自分の目標や目的に向かって、
それを成し遂げたいというときにも、
そこに向かって、必要なことを
少しずつでもいいから、あきらめずに
おこなっていくことが大切だということです。

 今、大震災によって、多くの人が
大変な状況になっています。
しかし、復興に向かって、あきらめずに
成せることを続けていくことが大切であると
いうことでしょう。

 大きな難局にあたり、
ひとりひとりが、今、出来ること、
そして、未来のために、続けていけることは
何なのか、考えてみることが
大切なのではないでしょうか。
posted by 清水の伏竜. at 09:55| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、

『あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、
 それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、
 自分のあり方を決める自由である。』
   ヴィクトール・E・フランクル

 大震災、多くの人が、多くのものを奪われました
しかし、そのような状態であっても、
人は、自分自身のありかたを決める自由があり、
運命に対して、自らの意思によって、
歩みだすことができるということです。
 どんな歩みを選択し、どんなあり方を選択するのか
それは、それぞれの人に与えられた自由であり
自分自身の人生に対する自己責任であるといえるでしょう。
 多くの困難が待ち受けるなかで、
その困難を乗り越えて、前に進んでいく力を
人はもっているということです。
posted by 清水の伏竜. at 09:44| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月14日

初心の人、二つの矢を持つことなかれ、後の矢を頼みて、

『初心の人、二つの矢を持つことなかれ、後の矢を頼みて、
 はじめの矢に等閑(なおざり)の心あり。』
   吉田兼好

 最初から、これがだめだったら次がある
そう思っていては、最初のことも駄目になって
しまうものだということですね。
目の前のやるべきことに集中するために
次の手があるというようなことを考える
べきではないということです。
 もちろん、なにかことをするときには、
いろんなケースを想定し、対応を考慮する
ことは必要でしょう。しかし、逃げ道を
つくってしまうと、最初の一歩で、油断して
失敗してしまうことが多くなってしまうかも
しれないということです。
心の持ちようと、実施するときの覚悟の
もちかたは、目の前のことに集中するために
後はないと考えるべきであるというわけです。
 なにごとも、これが最後だという気持ちで
真剣に集中して、取り組むことが大切であり
その心構えのための言葉であるといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 07:40| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月13日

映画も人生も粘土のようなもの、私たちがかたちづくっていくのです。

『映画も人生も粘土のようなもの、
 私たちがかたちづくっていくのです。
 そして希望を持ってやり続ければ、
 必ず完成するものです。』
   シャーリー・マクレーン

 何事も、自分たちで築いていくものであり
そして、希望をもって、鼓動していけば、
必ず完成に至ることができるということ。
映画も人生もにているというわけです。
 粘土に喩えているのは、
考え方によっては、人生は魂の歩みであることを
示唆しているともいえるかもしれません。
魂は、まさに神の魂の一部であり、
ひとつでもあり、複数でもあるということです。
粘土を複数にわければ、ひとつひとつが、
沢山存在しているといえますし、
それをまとめてしまえば、たったひとつのものと
いうこともいえるわけです。
魂という存在もまた、元は神の魂であり
その一部であるといえるわけで、
ひとつであり、おおくでもある
そんな存在でありつつ、人や動物に宿り、
成長していくものであるわけですから、
形作っていくためには、魂の成長が必要であり
そのために人生は存在しているといえるわけですから
どこに向かって、どのように歩むのかは、
魂のこえに従っていけば良いともいえるでしょう。
 ともかくも、自分という存在がある意味に
感謝して、この世に生まれたからは、
生まれた目的を果たすべく、希望をもって、
夢を抱いて、逝くときまで、精一杯歩んでいく
ただそれだけだともいえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 00:03| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月12日

己自身を低く評価するものは、他人からも低く評価される

『己自身を低く評価するものは、他人からも低く評価される。』
   ウィリアム・ハズリット

 自分自身に自信をもちなさい。
ということですね。
人は、弱いもので、自分になかなか自信が
もてなかったりするものです。
しかし、自信がないからといって
自分を卑下してしまっては、
結局、誰からも信用されず、評価を落として
しまうことになるというわけです。
過信や慢心、過大評価は問題ありですが、
きちんとした評価を自分自身にもおこなって、
自信をもって、その評価のもと行動し
アピールしていくこが、もっとも良いことだと
いえるのかもしれません。
もっともときには謙虚さも必要でしょうし、
相手を立てることも大切であったりするものですが。
posted by 清水の伏竜. at 23:52| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月10日

苦しむには、死ぬことよりも、もっと勇気がいる

『苦しむには、死ぬことよりも、もっと勇気がいる。』
  ナポレオン

 死ぬことは、逃げるということだと
今、日本では、毎年、3万人の人が、自ら死を
選択しています。
これを可哀そうだというのは簡単なことです。
死の選択は、実は意外と簡単なことであって、
まさに楽をしたいから選ぶということでしかないと
いえるでしょう。
または、病気で、その選択をしてしまうか、
死ぬのに勇気は要らないということです。
生きることこそ勇気がいるということでもあると
いえるでしょう。
苦しい状況に耐えて、苦しみながらも生き抜く方が
勇気がいることであり、価値あることであり、
素晴らしいことであるということです。
自分を哀れんで欲しい、自分の苦痛を理解して欲しい
でも、だれも理解してくれない、
もう、必要のない人間なんだ、
生きていくのは辛い、
だから、死のう。
自殺に向かう人の大半は、そんな感じで、
この世から逃げること、弱音、諦め、といった
勇気のなさ、自信のなさ、元気のなさ、
そして、命を授かったことへの感謝のなさ、
そういったマイナスの状態に陥ってしまって
抜け出すことのできない状態になってしまった末だと
いうことかもしれません。
でも、それは、結局は、勇気のなさであり、
弱さでしかないということでもあるわけです。
そんな人を助けるには、ただ死の状況を回避させて
あげてもだめでしょう。
また、同じことを繰り返すことになるだけです。
自分に自信をもつこと、生きる勇気をもつこと、
そのように心を、ほんの少し強くしてあげることが
必要であるといえるのではないでしょうか。
苦しむ勇気をもつこと、そこから新しい一歩が
始まるといえるのかもしれませんね。
posted by 清水の伏竜. at 12:46| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月09日

いつまでもつづく不幸というものはない。

『いつまでもつづく不幸というものはない。
 だから、じっと我慢するか、
 勇気を出して追い払うかの、いずれかである。』
   ロマン・ロラン

 不幸か否かは、結局は主観の問題でも
あったりするものです。
どの様な状況にあったとしても、不幸だと思えるし
不幸ではないとも思えるということです。
ある人にとっての不幸は、他の人には単なる我がままだとしか
みえなかったり贅沢だとしかみえなかったりもします。
不幸は、幸福と同様に、この世の感覚的なものでしかなく
その人が、その状況を、どのように捉えるのかで
大きく変化してしまうようなものでしかないと
いえるのかもしれません。
 とわいえ、一般的に不幸な状況であったとしても、
その状況は、永遠に続くかどうかは、その人次第であり、
我慢するのか、行動して変えるのか、
それは、その人の気持、意思、心、そして、動きしだいで
あるわけです。
 ただ、生まれついた不幸というものも
あるようです、食の日に生まれた人は、もう今世は
諦めるしかないようですから。
でも、どんな生まれであっても、生まれたからは、
今世で、成すべきことがあり、成すべき運命を背負っている
ことに違いはありません。
その上で、どう生きるのかが、問われているのだと
いうことになるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 12:40| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月08日

経験をもたらすのは観察だけなのである。

『経験をもたらすのは観察だけなのである。
 観察をしない女性が、50年あるいは60年
 病人のそばで過ごしたとしても、
 決して賢い人間にはならないであろう。』
   ナイチンゲール

 経験を積むとは、どういうことなのか、
戦場の天使、白き乙女の言葉は、何かを成すとき
ただ、成すのではなく、しっかりと観察して
観察したことを、自分なりに記憶し分析し、
応用することが必要であるといっているわけです。
 経験が活きるためには、記憶するでけではなく
そこから何かを得ておくことが大切であると
いうことでしょうか。
 ただ見るのではなく観察することが大事と
いうのは、名探偵が口にしそうな言葉でもあります。
目的もなく状況のままに、みているのと、
きちんと観察するのでは、その結果として得られる
ものが、大きく異なるということです。
どのようにみるべきなのか、そのノウハウを
学んでおくことは、経験をより活かすために
必要なことなのかもしれませんね。
posted by 清水の伏竜. at 12:40| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月07日

希望は人を成功に導く信仰である。

『希望は人を成功に導く信仰である。
 希望がなければなにごとも成就するものではない。』
   ヘレン・ケラー

 まさに、希望を抱き、成功を成しえた奇跡の人の
重みのある言葉であるといえるでしょう。
 何かを成しえるために、どのような心でいるべきなのか
その重要なポイントが、希望を失わないことである
ということです。
 希望という名の信仰を持たない人が
成功というゴールにたどり着けるわけがないと
いうわけですね。
それは、前向きに歩むための力でもあり、
困難を乗り越えるための力でもあり、
信じる力を支える力でもあるからです。
 どのような状況に陥っても、最後の最後まで、
希望を持ち続けることが、奇跡を導くということに
なるのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 18:17| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月06日

ふりむくな ふりむくな 後ろには夢がない

『ふりむくな ふりむくな 後ろには夢がない。』
    寺山修司

 どんな状況にあっても、
どんな不幸にあっても、
どんな結果に陥っても、
くよくよして、後を振り返り、
思い起こして、後悔し続けている
そんな状態であっては、結局のところ
何も出来ず、何も得られず、何も進歩しない
夢も、希望も、可能性も、どこかに
いってしまうものだということです。
 だから、うしろをふりかえらずに、
夢に向かって、希望に向かって、
まえをみて、歩んでいくことが大切であり
そうしていくことが、人生を充実したものに
していくということですね。
posted by 清水の伏竜. at 08:15| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月05日

記憶力しか有っていない人間は、足し算しか出来ない人間と同じだ

『記憶力しか有っていない人間は、足し算しか出来ない人間と同じだ。』
   中島敦

 記憶力は重要な能力であることは、
間違いないとおもいます。
先だって、TVで、記憶力を競う国際大会が、
中国で開催されて、中国人の選手が優勝したことが
流れていました。
凄いことではありますが、
人としての評価は、記憶力だけで決まるものでは
ありません。
この言葉は、記憶力だけに注目し、重要視するような
人に対する警鐘のような言葉であるといえるでしょう。
記憶したことを、どのように活用していくのか、
その活用をするために必要な能力があってこそ
初めて記憶力が活きてくるということです。
また、必要のない記憶は忘れてしまっても問題は
ないということでもあります。
足し算だけでなく、引き算、かけ算、わり算と、
いろんな演算ができることが、人としての深みを
生み出すのであり、多様なものごとに対応して
いけるようになるのだということですね。
posted by 清水の伏竜. at 10:01| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月04日

幸福への道はただ一つしかない。

『幸福への道はただ一つしかない。
 それは、我々の意志の力ではどうにもならない事柄について
 悩むことをやめるにある。』
   デール・カーネギー

 カーネギーらしい言葉なのかもしれません。
しかし、幸福への道は、人の歩むべき本当の目的であるのか
その部分について考えていくと、
また違った言葉が紡がれたのかもしれませんね。
 成功者として知られるカーネギーですが、
いってみれば、”無駄に悩むな”ということなのだと
いえるのでしょう。
 悩んでも、結局は、何も解決などしないのであれば
悩むだけ損であるということです。
さっさと、決めて、そちらに向かって進んでいく方が
建設的であり、有意義だということでしょう。
もちろん、悩んでなにか名案のでるようなことであれば、
悩むこともよいのでしょう。
しかし、意思の力でも、どうにもならないような事を
悩んでみても、どうにもならないというだけであり、
無駄に時間を浪費していくだけというわけです。
 そんな無駄をしていたら、成せることも成せないと
いうわけですね。
そして、その何かを成すことが、幸福へと進む道で
あるということでしょう。
 幸せの定義は、人によって異なるものです。
それは、この世の価値観に基づくものであるからだとも
いえるでしょう。
しかし、この世に生きていると、人は必ず幸福になりたいと
願うものですから・・・・・。
posted by 清水の伏竜. at 20:27| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月03日

不決断こそ最大の害悪

『不決断こそ最大の害悪。』
  デカルト

 決断することが、もっとも重要であり、
大切なことであるということですね。
先月は、自分自身にとっては、大きな決断をし、
それを実行して、やはり良かったと感じています。
 人生において、ひとつの分岐点となったと
いえるでしょう。
 結局のところ、何がもっとも重要であるのか、
何のために生きているのか、
どんなことを決断するにあたっても、
最終的に行き着くのは、その部分における確信であり
信念であるということになるのだなとおもいます。
 決断しないことは簡単なことです。
諦めるのも簡単なことです。
しかし、その結果として訪れる不幸や悲劇については
自己責任であるということになります。
誰も非難できないし、誰のせいにもできません。
自分自身で後悔するしかないということになるわけです。
そんな後悔をするよりも、出来ることはやったと
納得できる人生を歩むために、
しっかりとしたよりどころを心のなかに
もっておくことが大切になるのでしょう。
 日本人は、開国後にあまりに海外の方に眼を向けすぎて
自分たちのもっていた優れた部分を見失い、ダメにしてきて
しまったように感じます。
それは心の世界、精神の世界において顕著であるように感じます。
その結果、不条理な事件や絆の喪失、不安定な社会へと
流されてきてしまったのではないのでしょうか。
 信仰という心の基盤をしっかりともって、
自分自身に自信と確信をもっていた日本人の心を、
取り戻していかなければ、日本の社会は良くなっては
行かないような気がします。
posted by 清水の伏竜. at 19:55| 静岡 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月02日

恥は一つしかない。すなわち、なんの恥も感じないということだ

『恥は一つしかない。すなわち、なんの恥も感じないということだ。』
  パスカル

 考える葦のひとりが語る恥。
恥は日本人の感性のひとつとしてよく語られます。
恥をもっとも嫌がる民族ということを言う人も多いですね。
最近は、違ってきてしまったようですけれど、
恥を感じないことこそが、恥であるというのは、
まさに、無知の知と同様に、
人のあり方を語る表現のひとつであるといえる気がします。
 恥を感じないことは、実は現代社会では
強みのようにいわれている感じがします。
即ち、とにかく主張すること、自分をアピールすること、
それこそが認められるために必要であるという主張です。
欧米の考えが、その傾向にあるとおもいますが、
日本人は、そんな次元を超えた民族であったはずなのですが
最近は、欧米の悪影響から、劣化していっているようです。
 以心伝心や、恥、わびさび、といった感性などは
欧米よりも優れたものであるということを、
もっと日本人は誇りに思ってよいのではなのかという気がします。
そして、一段、落として、欧米のように、主張しないと
何も出来ない文明と付き合っていくというスタンスで
あっても良いのではないでしょうか。

 察するとか、感じるとか、
まさに、共感することのもっとも進んだレベルであると
いえるはずであり、言葉がなくともシンクロできるレベルと
いうのは、かなり高次元のことであって、
それが、低次元のように語られるのは、欧米などのそれが
出来ない人々の嫉妬でしかないということを
日本人は、きちんと気付くべきではないのかなと・・・・。
自然との共感、物の怪や精霊などを感じて、
ともに暮らしていける民族であったことが、どれだけ凄く、
素晴らしいことであったのかを、そろそろ取り戻していくことが
日本には必要なことになってきてしまっているような気がします。
posted by 清水の伏竜. at 21:04| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする