2010年12月31日

弱き人こそ薄情である。

『弱き人こそ薄情である。
 本当の優しさは強き人にしか期待できない。』
   レオ・ロスキン

 弱さと強さ、それは力のことではなく
心のころですね。心が弱い人は、結局は状況に
流され、権力や保身が優先してしまい、
他人に対して、薄情になってしまうものであると
いうことです。
本当に他人に優しくできる人は、
権力にも屈せず、保身を図る前に他人のこと
社会のことを考えることができ、
自分自身の誇りを守ることのできる強さ
心の強さをもっている人であると
いうことです。
自分のことしか考えられない、
また自分自身に自信のない、
心の弱い人は、他人のことまで気を巡らすこと
などできるはずもありません。
そんな心の弱い人に、優しさを求めても
それは、その場限りの薄っぺらなものでしかなく
また、本当の優しさは、必要なときに
厳しいことも言えるものであるということを
忘れてはならないでしょう。
相手のことを考えた上での優しさ、
それは、甘やかすことではないということです。
 本当の優しさをもった人になるために
心を強くもてるように、努力していくことが
大切であるということですね。
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2010年12月30日

あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、

『あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、
 それは与えられた運命に対して
 自分の態度を選ぶ自由、
 自分のあり方を決める自由である。』
   ヴィクトール・E・フラクタル

 投獄され、行動の自由も言論の自由も、
この世におけるあらゆるものを、権力と暴力に
よって奪われてしまったとしても、
人には、自分の態度とあり方を決める自由が
残っている。存在としての自分を決めることは
誰が、どのようにしても奪うことは出来ないと
いうことです。
 アウシュビッツで死を待つだけになったと
しても、信仰や尊厳や自尊心や誇りは、
十字架の上のイエス様のように、
持ち続けることができるものであり、
それが人の本当の力であり、強さであると
いえるのかもしれません。
 しかし、この残された自由を、しっかりと
持ち続けられるのか否かは、その人次第であると
いうことになるでしょう。
 どんな状況になっても、自分自身のあり方を
失うことなく、しっかりとした態度をとれる人で
いられるように、努力していかなければ
ならないということではないでしょうか。
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2010年12月29日

大事をなさんと欲せば、小なる事をおこたらず勤むべし。

『大事をなさんと欲せば、小なる事をおこたらず勤むべし。
 小つもりて大となればなり。』
   二宮尊徳

 何か大きな事を成し遂げようというなら
まずは、小さな事をしっかりと実行して
いくことが大切であるということです。
小さなことを、疎かにしていると、
それがやがて大きな障害や問題に
なってしまうということです。
 たしかに、その通りであるといえます。
小さなことを疎かにしていた結果、
今の私の部屋も大変なことになってます。
これを何とかするには、時間と労力が必要です。
結局、小さなことを確実に行っていく
その積み重ねが、大きな結果を支えてくれて
いるのだということです。
 大局を見ることも大切ですが、
細部に気を配ることがなければ、
何事も成就することはないということですね。
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2010年12月28日

他人が笑おうが笑うまいが、自分の歌を歌えばいいんだよ。

『他人が笑おうが笑うまいが、自分の歌を歌えばいいんだよ。』
   岡本太郎

 自分自身のことを、信じられるかどうか、
それを問いかけているような言葉です。
他人が、どう思うとも、どう観ようとも、
どの様に評価されようとも、
自分が信じて疑わないことであり、
自信をもっていることであり、確信があるのであれば、
その道を、突き進んでいけばよいということです。
他人がどうであろうと、何よりもまず、自分自身に
嘘をつき、自分自身を裏切ることの方が、
人生をダメにしてしまうということですね。
 笑われようが馬鹿にされようが貶されようが
自分の歌をしっかりと歌えばよいのだというわけです。
自分自身をしっかりともって、歩んでいくことが
人生においては、なによりも大切なことであると
いうことですね。
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2010年12月27日

我々は、繰り返し行った行動によって作られる。

『我々は、繰り返し行った行動によって作られる。
 行動ではなく、習慣が素晴らしさを生む。』
   アリストテレス

 人の成長とは何によってなされるのか、
その回答としての言葉のひとつといえるでしょう。
すなわち、人は、行動によって成長するということです。
そして、その行動も、繰り返し行う行動こそが
人を構成するものとなっていくというわけです。
行動が、習慣となったとき、それはその人を
構成する要素であるということですね。
また、その習慣が、素晴らしいものを
生み出すことになるかもしれないというわけです。
しかし、良くない習慣であったなら、
悪いものを生み出すことにもなるでしょう。
 行動することは重要であり、
また、習慣として何かなすことも意味あることであり
そんなことから、人は成長していき、
自分という存在を作り出していくというこです。
しかし、その行動が、正しい方向を向いていないと
成長を阻害するだけでなく、
悪い方向へと流れていってしまうことにもなりえます。
 常に行動の質について、問い直すことが
必要であるともいえるでしょう。
 行動しないと、病気になってしまうかもしれません。
引きこもりやパラサイトといって人たちは、
ある種の病気の状態であるともいえるでしょう。
そこには、行動できないという問題が存在していると
いえます。もちろん自分でどうにもならないという
こともあるでしょう。
その場合には、助言を求め、場合によっては環境を変えるとか
通院するとか、入院するとか、といったことも
考えていく必要があるでしょう。
また、病気である以上は、なんらかの治療が必要であると
いうことでもあります。
心のケアーかもしれないし、西洋医学療法かもしれないし、
東洋医学や代替療法かもしれないし、ヒーリングなどかも
しれません。
 しかし、そんな対処も、始めるためには、
まず自分自身の状況をしっかりと認識して、
プライドや意地や我侭を捨て去って、
自分の問題、状況を受け入れることが必要となります。
それが出来ないと、なかなか改善していくことが
難しいともいえるでしょう。
 行動することの難しさは、
自分自身を認識すること、現状をきちんと認めることの
難しさであるともいえるかもしれません。
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2010年12月26日

努力は幸福を手に入れる手段ではなく、

『努力は幸福を手に入れる手段ではなく、
 努力そのものが幸福を与えてくれるものである。』
   トルストイ

 幸せを手に入れるために努力する
努力することが、幸せを与えてくれるもの
 努力は手段ではない、努力そのものが
幸福への道であるというのは、確かなことだと
いえるでしょう。
何故なら、手段であれば、他のものに
代えることも可能であるわけですが、
努力は、他に代わるものはないのですから。
 誰もが、何かを成し遂げるために
欠かすことの出来ないもの
それが努力であるといえるでしょう。
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2010年12月25日

メリークリスマス

今日は、キリスト教の祭礼の日ですね。
イエス様が馬小屋で生まれ、東方の三賢人が祝福に
訪れたとも伝えられていたりします。
イエス様の母親は、マリア様ですが、
父親は誰なのかについては議論の別れるところで
あったりします。
人なのか、聖霊なのか、神なのか、
いくつかの推論があったりします。
イエス様は、マントラとオラシオンを使って
奇跡を起こしながら、人々に叡智を伝えようとなされたのですが
人々は受け入れることが出来なかったために
十字架にかけられてしまったわけです
残念ながら今も状況は変わっていないのかもしれません
言葉は、文字にすると意図が正しく伝わらないことが
あります。
それゆえに、イエス様は書を残されなかったと
言えるでしょう。
言葉による伝承は、口伝であるべきということなのかもしれません。
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2010年12月24日

自分自身と和する事が出来ぬ心が、

『自分自身と和する事が出来ぬ心が、
 どうして他人と和する事が出来ようか。』
   小林秀雄

 自分自身のなかで、和の状態になれない心で
あったとき、他人と和することなどは、
到底できるはずもない。
これは、心のありようだけでなく、
いろんなことにおいてもいえることであるかも
しれません。
 自分自身を愛せないのに、他人を愛せるはずもないと
いうことに等しいともいえるでしょう。
 人は、それぞれに与えられたものがあり、
また、それぞれの魂は、それぞれの成長途上にあり、
自分の状態よりも遥かに高みを望んでも、
それは、成しえるものではないということです。
一歩一歩成長していくしかないのです。
ゆえに、まず自分がどんな状態であるのか、
どのようなレベルであるのか、
それについて、素直に自分自身を見つめて、
自分自身のありようを認めてあげることが必要であると
いえるでしょう。
そして、自分自身のなかで、納得し、心のありようを
落ち着かせていくことが、大切であるということです。
 そのために、いろんなことをしてみたり、
他人に相談してみたりすることは良いことだといえます。
自分自身を知ることは、自分自身だけでは、
なかなか難しかったりするものですから、
何かの行動を通じてや、他人との触れ合いや交流のなかで
自分自身を見つめなおし、自分を知ることが出来たり
するものですから。
 そして、何事においても、まず自分自身のなかで
和することが大切であるというわけです。
それは自分自身のなかで
調和し納得し、腑に落ちているということだとも
いえるでしょう。
そうでないものを、他人に対して納得させたり
理解してもらったり、ましてや協調してもらい共感してもらい
和することが出来るなど、有り得ないということです。
 自分の心の状態は、他人と接するとき、
相手に伝わってしまうものであるということですね。
自分自身を救えないものに、他人を救えるはずもなく
ましてや社会や世界を救うなど傲慢でしかないと
いうことでもあるといえるでしょう。
 もし、自分の心を和することが、どうしても出来ないときは
素直に救いや手助けを外に求めるべきです。
やせ我慢してもしかたありません、プライドだとか
自尊心だとか、そんなもので、他人への救いを求められずに
いたならば、状況はただ悪化していくだけであり、
その結果は、周辺にも大きな迷惑をかけていくことになるのだと
自覚するべきであるといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 20:23| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月23日

世界は苦難に満ちている。

『世界は苦難に満ちている。
 また、それを乗り越えることにも満ちている。』
   ヘレン・ケラー

 世の中には、それぞれに、苦難に向き合い
人々が生きているということです。
そんな苦難にあって、人はそれを乗り越え
前に進んでいる。苦難の数だけ、苦難を乗り越えて
生きている。だからこそ、どんなときにも
自分だけが苦難にあっていると絶望することなく
希望をもって歩んでいって欲しい
そんなメッセージが込められた言葉であると
いえるでしょう。
 年の暮れ、さまざまな人生が、世界のなかにあり、
それぞれに自ら選んで生まれた環境で、
霊性修行の道を歩んでいるわけです。
この世は、魂の成長のためのフィールドであるのですから
苦難は、魂の成長のために与えられた神の愛でも
あるわけです。
ひとりひとり、その魂の成長の様子が違うように
それぞれの人生も異なるのであり、
同じものなどひとつもないということです。
この世に同じという基準での平等などありはしないし
あっても意味がないということです。
違いを認め、多様性を認めることこそが、
重要なことであるということ
それが、社会をより良くするための第一歩であると
いえるのかもしれません。
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2010年12月22日

テイサイだけの中途半端はすべてダメだ。

『テイサイだけの中途半端はすべてダメだ。』
  稲垣足穂

 体裁を整えることが大切です。
そう言われることがよくあるのではないでしょうか。
確かに、それは正しいことであったりします。
世の中は、体裁を気にする社会です。
いろんなところで、体裁が整えられています。
契約にしろ、発表にしろ、活動にしろ、
体裁が整っていないと、受け入れられなかったり
批判されたりするのが、常識となっているわけです。
しかし、体裁が整っていただけでは、
表面的には大丈夫であったとしても、
実際には、ダメであることが多いということです。
体裁だけでは中途半端であるというわけです。
そして、中途半端では、結局最後には、
全てがダメになってしまうことになると
いうわけです。
 中身、内容が重要であり、
体裁を整えた後が、より重要であるということです。
TPOにあわせて、しっかりと必要なものを準備していく
そして、実施していく、その結果として、
大きな成果を得ることが出来るということです。
何かを得るために、
すべきことは、いろいろあるというわけですね。
posted by 清水の伏竜. at 09:09| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月21日

人間の意識の最も直接的な事実は、

『人間の意識の最も直接的な事実は、
 「我は、生きんとする生命に取りまかれた、
  生きんとする生命である」
 ということである。』
   シュバイツァー

 生命とは何か、そして生きるということは
何かといったことについて、人の意識における
認識を語った言葉であるという感じでしょうか。
生きるということを目的にした生命に
取り囲まれた、生きるということを目的にした
生命が、自分であるということが、
意識の中におけるもっとも確かな事実であると
いうわけです。
 だから、どうしたというわけにもなって
しまうかもしれませんが、
生命とは何かということを、人はいろいろと
考えているということであるといえるでしょう。
 鉱物は生きているでしょうか?
 植物は生きているでしょうか?
 単細胞生物や細菌は生きているでしょうか?
 動物は生きているでしょうか?
そんな問いかけに対して、
鉱物以外については、生きていると答えられるかと
思います。
 生命とは、この世における自発的な活動を行う
存在であると定義できるかもしれません。
そして、その自発的な活動は、どんなに些細なもので
あってもかまわないということです。
生命は尊いものであることは確かです。
しかし、生命は生命を食することで生きているという
事実も確かなことであったりします。
そして、それは、この世におけるさだめであるとも
いえるでしょう。
 ”汝、殺すなかれ”と、お釈迦さまもイエス様も
おっしゃいました。その殺すなかれという理由は何なのか
その理由が、ベジタリアンの本質であると言えるでしょう。
お釈迦様もイエス様も、自分の為にベジタリアンで
あったわけではないのです。
それは、神が哀しまれるから、神のために、神の子として
ベジタリアンであったということです。
生きるために、神が命を奪ってもらって困る生命については
決して殺すことはないということなのです。
植物を食べますし、ばい菌などの微生物や単細胞生物なども
殺してしまうでしょう。
しかし、虫くらいから、両生類、魚、鳥、小動物、動物、
そして人を殺すことはならないと教えていらっしゃいます。
よく、同じ命ではないか、なぜ、植物は食べてもよいのかと
問う人がいますが、そこには明確な違いがあるのです。
それは、その生命が、魂を宿したものなのか否かの差です。
魂を宿した生命は、魂の成長のために神が創造したものであり
魂の成長こそが神の願いであるために、
それを妨げる行為=魂を宿す生命を殺すことは、
神を悲しませることになるというわけなのです。
魂の宿ることのない生命は、この世を構成し、生命を維持する
ために創造されたものであり、その命は、魂を宿す命のために
あるということなのです。
だから、ベジタリアンであることが、神との関係を維持する
ために最低限必要な第一歩であるというわけです。
 神と直接会話のできる聖者は、必ずベジタリアンです。
そうでない聖者は偽者であると断言できるでしょう。
ノンベジの聖者は、神ではないものを神と誤認して
自己陶酔している人であるということなのです。
信仰の師を選ぶとき、まず簡単な選択基準として、
ベジタリアンであること、そして禁酒であることが
あげられます。より良き師を選ぶときの参考にされると
よいと思います。
posted by 清水の伏竜. at 20:44| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月20日

とにかく、新しい毎日なんだ。

『とにかく、新しい毎日なんだ。』
   へミングウェイ

 何かに行き詰ったり、ちょっと毎日の生活に
疲れたときに、呟いてしまう言葉なのかもしれません。
日々、新たな世界が開けているということです。
明日は、今日とは異なるし
昨日は、今日とは異なるということ
当たり前なことなのですが、
認識することなく、同じような日々を過ごしている
こともあるかもしれません。
一見すると同じようであったとしても
まったく同じであることはあり得ないということ
その事実をしっかりと感じで、
日々、新たな気持で、歩んでいけたら
きっと充実した生活をおくることができるかも
しれません。
posted by 清水の伏竜. at 12:36| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月19日

行動は必ずしも幸福をもたらさないかも知れないが、

『行動は必ずしも幸福をもたらさないかも知れないが、
 行動のないところに幸福は生まれない。』
   ベンジャミン・ディズレーリ

 人の構成要素の見方に、智情意というものが
あったりします。
 智は、知恵であり知識であり、叡智です。
ソロモン王に代表される力ともいえるものですね。
 情は、愛であり、心であり、慈愛です。
イエス様に代表される力であるともいえるでしょう。
 意は、行動力であり、意思であり決意でもあります。
ダビデ王に代表されるものでもあったりします。
 それぞれに三大天使長が霊的に支えるものでも
あったりします。
 人は、各要素のなかで、特に特徴的に強い傾向が
あったりするものです。
全てが同じレベルで高く備わった人はなかなかいません。
でも、人は、それぞれに得意な部分を担って
協力し合い支えあっていくことができます。
ゆえに、どんな試練をも乗り越えることが可能であるとも
いえるでしょう。
 そして、それぞれに、目指すものは、
この世的には、幸福であるといえるかもしれません。
そして、その中には行動が必ず必要になります。
行動力、意の力が、実はこの世的には非常に重要で
あったりします。社会が、その力で動いている部分が
多いからだともいえるでしょう。
 リーダとか成功者とかいわれる人の多くが、
意の力が強い人であったりするのは、まさに社会が
求めるものがそうであるからだともいえるでしょう。
 行動して不幸になるかもしれません。
失敗するかもしれません。
でも、それは、その先にある幸福へのステップでしかないも
いえるでしょう。
少なくとも、言葉の通り、行動しなければ、
目的の地に到達することなどあり得ないのですから、
それが幸福であろうと、そうでなかろうと、
目指すものであるのなら、行動は必須です。
もちろん、行動も千差万別であり、人それぞれです。
無理しすぎても倒れてしまうだけかもしれません。
いつ、どこで、どこまで、どのくらい、行動するのか、
それをしっかりと見据えることも大切です。
でも、躊躇して行動しないよりは、
行動してしまった方が、何かが変わるし、何かを得られると
いうことでもあったりします。
そこには、小さな勇気があればよいということでしょうか・・・
posted by 清水の伏竜. at 08:27| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月18日

好奇心はいつだって新しい道を教えてくれる。

『好奇心はいつだって新しい道を教えてくれる。』
   ウォルト・ディズニー

 何か問題や課題があったり、行き詰ったりしたとき
どうやって、それを突破するのか、
それは人によって、いろんな方法があるでしょう。
そんな多様な方法のなかのひとつに、
好奇心をもつことがあるということですね。
好奇心をもつことで、新しい道が見えてくる。
その新しい道を行くことで、問題や課題を解決したり
行き詰まりを突破していくことができる
かもしれないということです。
 世の中には100%確実にというものは、
なかなかありません。でも、少しの可能性でもあれば
それは、実現するかもしれないということでもあります。
好奇心をもって、いろんなことを見聞きする、
興味をもって捉えていくことで、
新しい発見や出会いがあることでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 05:51| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月17日

どんな職業につこうと、成功に向かう第一歩は、

『どんな職業につこうと、成功に向かう第一歩は、
 その職業に興味を持つことだ。』
   ウィリアム・オスラー

 就職難という話題が最近多かったりします。
ミスマッチという言葉もよく聞かれます。
大卒での就職率も過去最低であるといわれています。
その一方で、求人倍率は、1倍以上はあるわけです。
 就職するときに、どんな想いをもって
その職につくのか、その会社に入るのか、
そこで、何をしたいのか、
迷っているままで、就職活動している人が
多いようです。
 もし、成功に向かっての第一歩としたいのであれば
この言葉の通りに、その職業に興味を持つことが
大切です。ここで注意すべきは好きかどうかではないと
いうことなのです。
嫌いであっても関心がそれまで無かったとしても
興味を持つことが重要であるということです。
迷っているのであれば、どんな職業であれ、どんな企業であれ、
雇ってくれるところに行くという選択もあるということです。
それもひとつの縁なのですから、
そして、そんな縁があって就職したならば、
まずその職業に興味を持つことが大切であるということです。
興味をもって、職場で学び、働くことが重要であり、
関心をもって関連するニュースや情報をチェックしていくことが
大切であるということです。
興味をもって、アプローチしていくなかで、
見えてくるものがあるでしょう。
そして、好きになるかもしれません。
一生懸命にアプローチしていくことで、
得るものが必ずあるということです。
少なくとも3年以上は、頑張ってみないと、
何もわからないといえるかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 13:04| 静岡 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月16日

兵士諸君、諸君は、まだ何かなすべきことが残っているかぎり、

『兵士諸君、諸君は、まだ何かなすべきことが残っているかぎり、
 何もしなかったのである。』
   ナポレオン

 戦場にて、檄を飛ばすために、語った言葉でしょう。
しかし、何かをなすということにおいては、
通じるものがあったりします。

 何かなすべきことが残っている
しなければならないことがあるのであれば、
それは、まだ、何も成し遂げてはいないと
いうことであり、そこで止まってしまったら
何もしなかったということに
なってしまうだろうということです。
立ち止まることなく、なすべきことを完遂するために
進んでいくことが、ゴールにたどり着く道で
あるといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 13:01| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月15日

一であって多にゆくものを博学といい、

『一であって多にゆくものを博学といい、
 多であって多にとどまるものを多学といいます。』
   伊藤仁斎

 ひとつのことから、より多くのことを
感じとっていくこと、それができる知恵を
もっていることが博学であり、
多くのことを知っていても、
それと同じだけのことしか語れないことを
多学であるという。
多学であるあけでは、単なる辞書でしかないと
いうことです。
やはり、多学であり博学でありたいものだと
おもいます。
posted by 清水の伏竜. at 12:46| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月14日

寒さにふるえた者ほど太陽をあたたかく感じる。

『寒さにふるえた者ほど太陽をあたたかく感じる。
 人生を悩みくぐった者ほど生命の尊さを知る。』
   ホイットマン

 人生における教訓です。
人生において、苦しいことや、哀しいこと、
辛いこと、厳しいこと、多くの試練があります。
しかし、そんな試練や逆境を体験することで、
より素晴らしいもの、大切なもの、尊いものが
見えてくるということです。
太陽の暖かさに感謝し、
生命の尊さに感謝すること。
当たり前なことなのに、多くの人が
それを忘れて暮らしていたりします。
三食食事がとれることのありがたさ、
寒さをしのぐことができるありがたさ、
それが普通になっていると、忘れてしまいがちです。
ありがたさや、感謝の気持ちの深みは、
それを失った経験がある人の方が大きいでしょう。
もちろん経験しなくても、
人には想像という翼があります。
疑似体験で、経験することもできるでしょう。
 あたりまえのこと、普通の日常も、
実はとてもありがたいことであるかもしれません。
それに気付けるような人でありたいものですし、
それを気付けるような教育をしていくことが
大切なことであるといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 07:01| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月13日

もっとも重要なことは、自分ひとりで決めるべきだ。

『もっとも重要なことは、自分ひとりで決めるべきだ。』
  正力 松太郎

 最後の決断は、結局自分自身で行うもの
であるわけですが、その過程において
いろんな人の助言を得ることになるわけです。
助言を得るのは大切ですし、物事を多面的に
多角的に捉えるためには、多くの人の意見を
聞き取ることが重要です。
しかし、決定するときには、
他人の言葉に流されることなく、
自分自身の責任で決定することが大切です。
自分ひとりで決めるとは、
他人に責任転嫁をしないということ
ひとりで決めないと、人は何かあったとき
他人のせいににしてしまう弱いものであると
いうことです。
何か不味いことがあったり、
失敗したりしたときに、
自分で責任を取らずに、
他人のせいに出来るという逃げ道を
つくってしまう。
それでは、重要なことは成し遂げられない
ということです。
自分ひとりで決めるというのは、
形式ではなく本質的にということだと
しかし、それはとても大変なことであり
難しいことです。
実際に出来ている人は殆どいないのかも
しれません。多くの経営者が、社員の責任に
してみたり、多くの上司が部下の責任にして
みたり、体裁的に誤って保身を図っている
そんなニュースばかりが報道されています。
今の首相も・・・・。
posted by 清水の伏竜. at 05:09| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月12日

時間とは、偉大な事業をつくる素材である。

『時間とは、偉大な事業をつくる素材である。』
  アナトール・フランス

 偉大な事業は、どうやって築かれるのか
その素材の大きなもののひとつが、
時間であるということです。
 時間が、事業を築く、確かにその通りで
あるといえるでしょう。
 エジプトのピラミッド、万里の長城、
奈良の大仏殿、歴史に残る偉業は、長い時間という
素材あってのものであったといえるでしょう。
 大きな事業であるほど、
時間という素材を、しっかりと活用していかなければ
ならないということです。
それは、継続であり、タイミングであり、
そして、目標とも関係するものであるからです。
時間を使うなかで、時間という視点での目標を
設定し、なしていくことで、
事業を確実に、築き上げていくことができるように
なるのだともいえるでしょう。
 時間、なかなか上手く使うのが難しいものでも
あったりします。
posted by 清水の伏竜. at 09:51| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする