2010年11月30日

信念は人を強くする。疑いは活力を麻痺させる。

『信念は人を強くする。疑いは活力を麻痺させる。
 信念は力である。』
  フレデリック・ロバートソン

 信念は、力であるというのは、
その通りであるといえるでしょう。
そして、疑いは、活力を麻痺させるというのも
確かなことだといえるでしょう。
信念をもった人は、確かに強いです。
疑いをもった人は、揺れていて落ち着きがないと
いえるでしょう。
そして、疑いは、信念を侵食することも
あったりします。
 信じること、自分の夢、目標を見据え、
必ずそれを実現するということを、
未来の事実ととらえて、疑わないこと、
それが、まさに成功者がもっていることであると
いえるでしょう。
いろんなノウハウが語られていますが、
ノウハウは、手段であり、結局は、目的が
違っていれば、適用できないことも多いので、
成功者のノウハウであっても、役に立たないことが
多かったりします。
もちろん、似た目標や夢であれば、役に立つかもしれませんが、
それよりも、重要なのは、結局は、心のありようであり
信念の有無と強さであるといえるかも
しれません。
人間性といってもよいでしょう。
結局、成功者に学ぶものは、その信念をどうつくりあげ
保っているのかといったことが重要であり、
それ以外は必要ないのかもしれません。
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2010年11月29日

きっと成功してみせる、と決心することが、

『きっと成功してみせる、と決心することが、
 何よりも重要だということを、
 常に銘記すべきだ。』
  リンカーン

 成功者に学ぶといった教材や
情報商材が、いろいろ出まわっていますが
結局のところ、その情報を得ても
成功できるわけではないのが実体であったり
するわけですが、
どんな成功するという情報や本も
結局は、この言葉以上のことは語って
いないということなのかもしれません。
すなわち、成功したければ、何が必要か
それは、まず、成功してみせると
決心することであるということです。
しかも、その決心が本当に深く強く
ぶれることのないもので
あるということです。
 成功者に学ぶべきは、その手法とか
方法論ではなく、その決意と信念の持ちようで
あるといえるでしょう。
その部分が、なし得なければ、
成功することもないということに
なるのが、実体であるといえるのかも
しれません。
posted by 清水の伏竜. at 03:07| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月28日

チャンスの平等以上の人間の平等化は、最高の不公平である。

『チャンスの平等以上の人間の平等化は、最高の不公平である。』
    ヤスパース

 平等とは何か、
この議論はよくいろんなかたちで
おこなわれています。
格差社会が広がっているなかで、
平等ということが、また多く語られるように
なってきているともいえるでしょう。
平等ということばは、多くの場所で
使われています。男女平等がもっとも
ポピュラーなのかもしれません。
しかし、平等といって、何もかも同じに
するのは、結局、最高の不平等であると
いうのは間違いないでしょう。
人は、それぞれに異なるものであり、
同じでないのが当たり前であるという
ことの方が重要であるといえます。
多様性を認めてこそ、本当の自由があり
平等があるということです。
この言葉の通り、平等にしなければ
ならないのは、チャンスであるということです。
これは、今の日本社会が、実現出来ていない
ものでもあり、いろんな平等の政策があっても
結局、チャンスに不平等があっては
意味がなかったりするといえるでしょう。
チャンスの平等化、もっとも政治や社会、
企業が考えるべきテーマであると
いえるでしょう。
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2010年11月27日

偉大であっても同時にまた激情を欠くものは偉大ではない。

『偉大であっても同時にまた激情を欠くものは偉大ではない。』
  セネカ

 偉大なものには、非常に熱い情熱が
つきものだということですね。
どんなことであっても、それを成し遂げるには
情熱がなければ難しいということだとも
いえるでしょう。
 夢を実現するために、
目標を達成するために、
ビジョン、ミッション、アクションだけでは
だめで、やはりパッションがなければ
うまくいかないということでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 22:11| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月26日

目的が手段を神聖化することはけっしてないが、

『目的が手段を神聖化することはけっしてないが、
 手段が目的をだいなしにすることはありうる。』
   マルティン・ブーバー

 手段と目的の違いについて、
語られた言葉のひとつですね。
よく、手段が目的になってしまって、
本来の目的を見失ってしまっていることが
あったりします。
また、目的の為には手段は選ばずということを
言う人がいますが、それは悪人の台詞ですね。
手段によって、目的が台無しになることがあることを
忘れてはならないということです。
また手段では、目的が神聖化されることはなく
目的そのものに価値がなければダメだということです。
そして、多くの誤りは、手段なのに、
手段そのものが目的になってしまっていることです。
 それに気が付かないでいると、
そのプロジェクトは失敗してしまうことになる
可能性が大きいということです。
 何かなすとき、その目標に対して、
目的を明確にしておかなければ、手段が目的になって
しまって、目標そのものへのアプローチが
おかしな方向に向かってしまうものです。
しっかりと、目的を定めておいて、
手段についても、その目的と、目標に適したものを
選択することが重要であるということですね。
posted by 清水の伏竜. at 12:54| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月25日

嫉妬心を少しももたず、友人の成功を喜ぶ

『嫉妬心を少しももたず、友人の成功を喜ぶ
 強き性格の持ち主は皆無なり。』
   アイスキュロス

 この言葉は、必ずしも正しいとは
いえないのかもしれません。
しかし、誰もが、友人が成功すると
嫉妬まではしなくても、羨ましいと
思うことはあるのではないでしょうか。
もちろん、その友人の成功を一緒に喜びながらです。
友人の成功を喜ぶ心というのは、
特に強い性格の持ち主でなくても
もてることでしょう。
この言葉のように皆無というのは、
そうとう友人に恵まれなかった人であると
いうことなのかもしれません。
 友人の成功は、自分の成功のように嬉しい
そう感じることは可能ですし、
実際に出来るものです。
もちろん、羨ましいと思うことはあるでしょう
そして、自分も成功するぞという気持ちになり、
友人の成功を心の糧として、
歩んでいくことが出来るでしょう。

 さて、いってみるならば、
嫉妬心を持つということが、
良くないことであるということでしょうか。
人の心の弱さ、マイナス面というのは、
嫉妬や恨み、妬み、怒り、諦め、差別、・・・
いろいろあったりします。
それは、人が完全なる存在ではなく、
成長していかなければならない存在であると
いうことの証明でもあるといえるでしょう。
それらを克服してしまえば、
聖者のレベルに至り、もうこの世に生まれてくる
必要はなくなるということですね。
解脱するということです。
輪廻転生して、何度も、この世に生まれて
霊性修行をしなければならないのは、
まだまだ魂が未熟であり成長しなければならない
状態であるからなのですから。
 あまりにも幼い魂であると、
嫉妬を抑えることも怒りを抑えることも
欲望を制御することも出来なかったりします。
もちろん、ベジタリアンにもなれないでしょうし
禁酒もできないでしょう。
でも、それは、今世で学ぶべきものが
他にまだあるということに過ぎないということでも
あったりするわけですから、
出来ないからといって、それでダメだとか
悪いのだともいえないといえるということです。
赤ん坊に、礼儀作法を求めるのに意味がないのと
同じなのです。
posted by 清水の伏竜. at 18:06| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月24日

偉大な心はしっかりとした拠りどころを持っている。

『偉大な心はしっかりとした拠りどころを持っている。
 卑小な心は願望しか持っていない。
 小さい心は不幸に馴れておとなしくなっている。
 偉大な心は不幸の上にそびえ立つ。』
  ウォシントン・アーヴィング

 心の偉大さ、小ささとは、どんなことなのか
それを評した言葉ですね。
弱い心と強い心と言ってもよいのかもしれません。
 心の強さは、おかれた状況において
どのように振舞うのかということによって
計られるといったところでしょうか。
 心のより所となるものを、
しっかりと持っているのか否か、
願望だけでなく、義務や成すべきことを
きちんと認識しているのか、
不幸にあっても、恐れず怯えず、
しっかりと立って未来を見据えることが
できるのか、
 そういったことで、心の強さが見えてくると
いったことになるのでしょう。
逆境や苦境、試練に出会ったときこそ、
心の強さや広さが、見えてくるともいえるわけです。
 心を強くするためには、
より多くの試練や経験を積み重ねていくことが
必要であるともいえるでしょう。
その意味では、若き日に、苦労が多く
試練がおおく、不幸であった人であればあるほど
成功者となりえるということなのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 20:23| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月23日

困難にまさる教育なし。

『困難にまさる教育なし。』
  ベンジャミン・ディズレーリ

 困難に出会うとき、
人はそれを乗り越えるために、
学び、行動し、成長していく、
たとえ挫折しても、そこから何かを学び
何かを得る。
 困難というと、何か大変なことで
あるように思えるものの、
課題や宿題といっても良いのかも
しれません。
 教育とは、まさに自分自身が
やりたいことをやるのではなく
やらなければならないことを
行うことから始まるものだと
いえるでしょう。
困難に出会うことの少ない子どもたちに
困難を与えることが、教育者の仕事であり
親の役割であるといってもよいかも
しれません。
それは、大変なことではありますが
本当に子どもを愛するのであれば
子どもの成長のために、自ら耐えて
試練を与えることこそが、親の愛であると
いうことなのです。
それは、まさに神の愛と同じであると
いえるでしょう。
神の愛は、優しくはなく、
魂の成長のために、必要な試練を与え
ただ見守るだけなのですから。
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2010年11月22日

人生はまさにブーメランだ。

『人生はまさにブーメランだ。
 人に与えたものは手元に返ってくる。』
   デール・カーネギー

 人の社会の因果律を語っていることばです。
人生において、他人との関係は、
いろんな形で存在しています。
そのなかで、誰かに何かを与えることがあるでしょう。
その何かは、物かもしれないし、情報かもしれないし
知識かもしれません。
体育、知育、徳育といった教育の基本となるべき
ものであるかもしれません。
そんな、誰かに与えたものは、
いつか、何らかの形で、自分のところに
戻ってくるということなのです。
良いことだけでなく、悪いことでも同じです。
誰かを傷つけたり、騙したり、誰かから奪ったり、
それは、マイナスの与えるということであるわけです。
そして、それもまた、いつか何らかの形で
自分のところに戻ってくるということなのです。
何も与えなければよいではないかと
いうのも、また間違いです。
もし、何らかの関係をもってしまったなら、
何も与えないということも、そんな状況を与えていると
いうことになるからです。
それは、与えないことで相手に影響を与えているのですから、
人は、誰かとかかわりにあった瞬間から、
その人に、何らかの影響を与えていて、
それは、自分自身に、何らかの形で戻ってくると
いうことなのです。
だからこそ、他人とのかかわりにおいて、
常に、相手にとって、何が大切なのか、
相手にとって何が為になることなのかを
考えて、接して、必要なものを与えるべきであるし
必要でないものは与えるべきではないということなのです。
 因果応報というように、
善であれ悪であれ、何かの縁が繋がったなら、
そこから、かえってくるものがあるということです。
そして、相手にとって何が必要なのかを考えるとき
何を基準にして、考えるのかが、人によって異なり
そして、その結果がもたらすものも異なってきます。
聖者といわれる人の基準は神であり、神の叡智です。
しかし、その基準で相手のことを考えて判断すると
この世的には、不親切と思われてしまうこともあります。
なぜなら人の多くが神の基準ではなく、自分の基準で
社会という人のつくった基準で動いているからです。
聖者のように判断し行動できなかったとしたら、
せめて、この世的にでも良いと思われていることを
基準にした行動が取れるようにすることが
大切なのかもしれません。
しかし、それでは甘やかすだけとなり
相手の成長を阻害し為にならないこともあったりします。
厳しさをいう行動は、自分自身にとっても
厳しくなければ出来ません。
でも、それが必要なこともおおくあります。
とくに教育においては、必須ともいえるものであると
いえるでしょう。
教育において、相手の自由にさせるということは
何もしないということであるからです。
自分が楽をしたいだけで、相手の成長など考えてはいないと
いうことです。
最近の親のなかには、子どもの自主性といって
自分が楽をしようとしている人がいるようです。
小さい子どもの知恵や経験のなかで自主性を求めても
何も成長など成しえないというのに、
何かを与え、与えられた条件の中での自主性であれば
意味はあるでしょうが、その条件をどのように与えるのか
それが出来てきない、それを放棄した親や教育現場では
子どもを成長させることなど出来ないでしょう。
そして、そんな教育をした結果は、やがて
自分自身に返ってくることになるというわけです。
posted by 清水の伏竜. at 12:37| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月21日

他人を見て何をすべきかを知る者もいれば、

『他人を見て何をすべきかを知る者もいれば、
 何をすべきでないかを知る者もいる。』
   エリック・ホッファー

 何をすべきなのか、何をすべきでないのか
それを学ぶのも、また人生であるといえるのかも
しれません。
それを学ぶのは、何か、結局、自分以外の対象から
学ぶしかないということです。
自分以外の人たち、環境、本、・・・・
周囲のいろんな情報や現象などから、
学んでいくということです。
だから、他人をみて、そこからいろんな事を
学ぶということです。
何をすべきなのかを学ぶ人もいれば、
何をすべきでないかを学ぶ人もいる
学ぶとは、知るということであり、
そして、知った上で、それを活かすということです。
知ることは、第一歩でしかないということも
理解しておく必要があるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 08:38| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月20日

生きる、ということは徐々に生まれることである。

『生きる、ということは徐々に生まれることである。』
   サン・テグジュペリ

 人は、常に変化している。
肉体を構成する細胞は、毎年別なものになっている。
死に生まれ入れ替わっている。
だから、昨年の自分と今の自分は、全くの別人と
いうこともできるだろう。
生きているということは、
生物的には、徐々に生まれ変わっているという
ことに他ならないのである。
 そんな肉体の変化を、人が意識することは
あまりないのかもしれません。
そして、精神=心もまた、日々、新たなものを
生み出しながら成長しているといえるでしょう。
今、この瞬間の自分という存在は、
まさに、この瞬間のみに存在するものであると
いえるでしょう。
一瞬一瞬が、貴重な瞬間であり、
生きているということであると
より、充実した人生は、まさに今を精一杯、
生きることからはじまるということでしょう。
 生きるなかで成長し、日々新しい自分が
生まれいでてくるということ・・・。
posted by 清水の伏竜. at 07:25| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月19日

理想はわれわれ自身の中にある。

『理想はわれわれ自身の中にある。
 同時に、理想の達成をはばむもろもろの障害もまた、
 われわれ自身の中にある。』
   T・カーライル

 理想というものは何なのか、
何に対する理想なのか、
そんなことを考えてみたとき、
その本質は、結局は、自分自身の中にあり
その理想に対する姿勢や取り組みについても
その障害となるものは自分自身の中にあるもので
しかないということなのかなと
いったところでしょうか。
 自分自身の描けるものでなければ、
達成することなの出来るわけもなく、
夢にしろ、理想にしろ、結局は、自分自身の中で
想像し創造できるものでしかないということです。
だからこそ、より素晴らしい夢や理想を
思い描くことが出来るように、
自分自身を成長させていくことが
重要であるということでしょう。
 描けるものは、自分の経験と知識から生み出せる
ものでしかないということなのです。
子どもの夢が抽象的であったり、身近なもので
あるのは、子どもには、それだけの経験しかないし
知識しかないからに他なりません。
 理想にしろ、夢にしろ、自分自身の中から
出てくるものであるということなのですから、
自分自身をいかに成長させていくべきか、
それが若い人ほど、重要なテーマとなると
いえるのではないでしょうか。
posted by 清水の伏竜. at 12:56| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月18日

あらゆる出来事は、もしそれが意味を持つとすれば、

『あらゆる出来事は、もしそれが意味を持つとすれば、
 矛盾を含んでいるからである。』
   H・ミラー

 出来事の意味とは何か、
そして意味を持つとはどういうことなのか、
その回答として、ミラーは、矛盾を含むことだと
語っています。
 矛盾を含むとはどういうことでしょう。
それは、素直に相反するものを含んでいるということ
だと捉えることもできます。
矛盾を包括するような存在を内包しているのだと
みることもできるのかもしれません。
 矛盾を含むとはどういうことでしょうか。
それは、さまざまな出来事のなかには、
それをすすめようとする力ととどめようとする力が
あるからなのかもしれません。
意味のある出来事であるならば、
何かを生み出すものであるはずだということで、
何かを生み出すときには、正と反とが合一して
成しえるのであるといった哲学的思考から、
いっているのかもしれません。
 出来事というものは、ある意味不思議なものです。
この世の存在自体が、不思議なものであると
いえるように。
 生きていくなかで、いろんな出来事と出会い、
そして、そこから何かを得て、成長している。
そして、定められた歩みを終えるまで、
魂の成長のための霊性修行を続けていく、
それを望もうと望まなくとも、
人のこの世での生涯には、必然としての生と
必然としての死が、必ず備わっているのですから。
 精一杯より善く生きること。
予定よりもおおく魂を成長させて、
来世においては、もうひとつ確実にステップアップした
霊性修行にのぞめるようにすること
それが、創造主たる神の願いなのですから・・・。
posted by 清水の伏竜. at 13:17| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月17日

善悪をつくるもの、幸不幸をつくるもの、貧富をつくるもの、

『善悪をつくるもの、
 幸不幸をつくるもの、
 貧富をつくるもの、
 それは、人の心である。』
  エドマンド・スペンサー

 この世の中にある差というものが、なぜ存在しているのか
そんなことに関しての考えを語った言葉です。
ひとつの見方として、とらえることができるでしょう。
善と悪、幸福と不幸、貧と富、・・・
他にも、格差という言葉で表現されたりすることが
いろいろあったりします。
そういったものの存在は、結局は、人の心がつくりだした
ものであるというわけです。
人の心次第で、変わるということを意味すると
いえるのかもしれません。
はっきりしているのは、この2つの対比は、
基準が不明瞭であるということです。
こっから先が善で、こっからは悪、
ここまでは幸福で、ここからは不幸、
ここまでは貧困で、ここからは富豪、
その線引きは、実は決まっていなかったりします。
というよりも、人によって違っているというべきでしょうか。
そう、すべてが主観的なものであって、
普遍的ではないということなのです。
何をもって善とし、何をもって悪とするのか、
何をもって幸福とし、何をもって不幸とするのか、
何をもって貧乏であるとし、何をもって豊かであるとするのか、
まさに、人それぞれの価値観によって
違ってしまいます。
 ある場で、年収1千2百万をもらっているという息子さんの
話をされている親御さんがいました。
その方によると、息子は不幸で差別されているというのです。
こんな少しの給与では満たされていないといわれて、
もっと給与を上げてもらわなければダメだというのです。
ちなみに、息子さんは国家公務員だそうでした。
それを聞いていた、別の方は、年収400万でも充分に
暮らしていけるのにといっていました。
つまり、どんな世界観の中で生きているのか、
どんな世界のなかで過ごしているのかによって、
善悪も幸不幸も貧富も違ってきてしまうということです。
まさに、人の心のあるようによって、
変わってしまうものだといえるでしょう。

 しかし、本当に絶対的な基準はないのでしょうか。
人の心が、千差万別であるように、
ひとつに定まることはないのでしょうか。
もし、定まるものがあるとしたら、それは人を超えた存在に
より定められたものであるといえるかもしれません。
すなわち、神による基準です。
 実際、神による基準は存在しており、
それは魂が感じ取っているのですが、
この世において魂の記憶は表面には出てきません。
肉体の精神(スピリッツ)の殻の底に繋がっていて
経験や体験、霊的な影響は、魂に届いていて、
それが、魂の成長や徳分やカルマとなっているわけですが、
魂から、肉体や精神へと何かが届くということは
非常に稀であり、かなり成長された魂でなければ
有り得ないことであったりします。
ただ、魂の記憶を呼び起こせなくても、
この世では、神の基準を知ることは可能であったりします。
それは、聖者と呼ばれる人により伝えられている言葉であり
教えであるわけです。
すなわち、神の叡智といわれる記録です。
その本質は聖者レベルの魂をもった人に口伝されているものであり
一般の人が触れる機会は殆どないものですが、
ときより、口伝の内容が文字情報として残されることも
あったりします。しかし、残念ながら、
多くが正しい解釈抜きとなっているようです。
神の基準は、人の世の基準とはまったく異なるものと
なっています。ゆえに、聖者は皆世捨て人となっているわけです。
神の基準で、この世において生きることは、
非常に難しく、大変なことであるということです。
いずれ、それが出来るレベルに魂が成長すれば、
その道をこの世にて歩むことになるでしょうが、
多くの魂は、そのレベルに達するまでには、
まだ、何度となく転生して、この世における霊性修行を
繰り返していかなければならないでしょう。
この世は、魂の霊性修行の場として創造されたものなのですから。

 それは、人の心である。』
  エドマンド・スペンサー

 この世の中にある差というものが、なぜ存在しているのか
そんなことに関しての考えを語った言葉です。
ひとつの見方として、とらえることができるでしょう。
善と悪、幸福と不幸、貧と富、・・・
他にも、格差という言葉で表現されたりすることが
いろいろあったりします。
そういったものの存在は、結局は、人の心がつくりだした
ものであるというわけです。
人の心次第で、変わるということを意味すると
いえるのかもしれません。
はっきりしているのは、この2つの対比は、
基準が不明瞭であるということです。
こっから先が善で、こっからは悪、
ここまでは幸福で、ここからは不幸、
ここまでは貧困で、ここからは富豪、
その線引きは、実は決まっていなかったりします。
というよりも、人によって違っているというべきでしょうか。
そう、すべてが主観的なものであって、
普遍的ではないということなのです。
何をもって善とし、何をもって悪とするのか、
何をもって幸福とし、何をもって不幸とするのか、
何をもって貧乏であるとし、何をもって豊かであるとするのか、
まさに、人それぞれの価値観によって
違ってしまいます。
 ある場で、年収1千2百万をもらっているという息子さんの
話をされている親御さんがいました。
その方によると、息子は不幸で差別されているというのです。
こんな少しの給与では満たされていないといわれて、
もっと給与を上げてもらわなければダメだというのです。
ちなみに、息子さんは国家公務員だそうでした。
それを聞いていた、別の方は、年収400万でも充分に
暮らしていけるのにといっていました。
つまり、どんな世界観の中で生きているのか、
どんな世界のなかで過ごしているのかによって、
善悪も幸不幸も貧富も違ってきてしまうということです。
まさに、人の心のあるようによって、
変わってしまうものだといえるでしょう。

 しかし、本当に絶対的な基準はないのでしょうか。
人の心が、千差万別であるように、
ひとつに定まることはないのでしょうか。
もし、定まるものがあるとしたら、それは人を超えた存在に
より定められたものであるといえるかもしれません。
すなわち、神による基準です。
 実際、神による基準は存在しており、
それは魂が感じ取っているのですが、
この世において魂の記憶は表面には出てきません。
肉体の精神(スピリッツ)の殻の底に繋がっていて
経験や体験、霊的な影響は、魂に届いていて、
それが、魂の成長や徳分やカルマとなっているわけですが、
魂から、肉体や精神へと何かが届くということは
非常に稀であり、かなり成長された魂でなければ
有り得ないことであったりします。
ただ、魂の記憶を呼び起こせなくても、
この世では、神の基準を知ることは可能であったりします。
それは、聖者と呼ばれる人により伝えられている言葉であり
教えであるわけです。
すなわち、神の叡智といわれる記録です。
その本質は聖者レベルの魂をもった人に口伝されているものであり
一般の人が触れる機会は殆どないものですが、
ときより、口伝の内容が文字情報として残されることも
あったりします。しかし、残念ながら、
多くが正しい解釈抜きとなっているようです。
神の基準は、人の世の基準とはまったく異なるものと
なっています。ゆえに、聖者は皆世捨て人となっているわけです。
神の基準で、この世において生きることは、
非常に難しく、大変なことであるということです。
いずれ、それが出来るレベルに魂が成長すれば、
その道をこの世にて歩むことになるでしょうが、
多くの魂は、そのレベルに達するまでには、
まだ、何度となく転生して、この世における霊性修行を
繰り返していかなければならないでしょう。
この世は、魂の霊性修行の場として創造されたものなのですから。
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2010年11月16日

やりたいことをやるのは子ども、やらなければならないことをやるのが大人

『やりたいことをやるのは子ども、
 やならなければならないことをやるのが大人』
    スワミ

 子どもに、大人と子どもは何が違うのかという
問いかけをしたとき、子どもからは、
いろんな答えが返ってくることでしょう。
そんなとき、子どもに正解を答えるとしたら
どんな言葉を紡ぐでしょうか。
その答えのひとつが、この言葉です。
そして、子どもたちに、大人になるということに
ついて、学ぶことの大切さを教える言葉でも
あったりします。
子どもは、この世に生まれたときには、
この世の存在としては、何も知らない無垢な存在で
あるわけです。
そして、その子どもを教え導くことが、
大人に与えられた義務であり、権利であるということに
なります。
 子どもたちは、まだ何の経験もなく、
何の知恵もありません。
したがって、自分で判断するといったことは
出来ないのが当たり前なわけです。
 子どもの自主性に任せるという言葉は、
一見正しいように思えますが、それは大人が自分の
責任や義務を果たしたくない言い訳でしかありません。
子どもが自主的に何かを判断できるような経験や知識を
もっているでしょうか。
もし、子どもに自主的に何かしなさいといえば
やりたいことを好きなようにやるでしょう。
しかし、それは社会のルールやモラルに反するような
ことばかりになってしまうかもしれません。
身体に悪いものばかりを食べるようになるかもしれません。
 子どもに必要なことは、大人の言うことを
素直に聞き、実践するということであるのです。
そして、大人が、子どもたちを、正しく成長するために
導いていくということが必要であるということになるわけです。
 教育には、知育、体育、徳育という3つの基本があり
それぞれにバランスよく、学ぶ機会を与えることが必要です。
そのバランスが悪くなれば、問題が多くなっていくと
いえるでしょう。
まさに、日本の戦後教育は、このバランスが悪かったのだ
ということです。知育ばかりに偏重してしまった結果が
今の社会の問題をもたらしたともいえるのかもしれません。
徳育の重要さ、言葉では語られるものの教育現場では
何の実践もされていないのが現実であるようです。
徳育に関するカリキュラムは、まったく充実されていないのが
現在の学校の問題であるといえるでしょう。
英語を小学生に教える前に、徳育の充実を図ることが
優先事項であるはずだといえるでしょう。
日本が、国際的にも信頼される国になるために、
やはり徳育の充実は不可欠であるといえるでしょう。
モラルやマナー、多様性への配慮な認識など、
その基本はすべて徳育のなかにあるのですから。
 そして、やならければならないことを
責任をもって実践できる大人に、育てていくことが
大切であるということです。
posted by 清水の伏竜. at 09:25| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月15日

賢者は自分に与えられるより多くの機会を作る。

『賢者は自分に与えられるより多くの機会を作る。』
   フランシス・ベーコン

 賢い人というものは、
運命で与えられる機会以上の機会を
自ら創りだし、つかんでいくものであると
いうことのようです。
 チャンスは確かに与えられるもので
あるといえるでしょう。
しかし、自ら行動し、自ら考えて活動することで
より多くのチャンスを導くことが出来たりも
するということです。
賢者であれば、当然のように、より多くの
チャンスを導くべく、活動していくものであると
いうことですね。
 なかなか、賢者になるのは
大変であったりするものですが、
自らできることを行っていくことが、
機会を逃さないことであり、
また次の機会を生み出すことに繋がっていく
ということは、間違いないといえるでしょう。
行動してみる、やってみる。
まずはそこからなのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 12:11| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月14日

人間はなににでもなれる動物であり、

『人間はなににでもなれる動物であり、
 どんなことにも慣れる存在である。』
   ドストエフスキー

 人の可能性と人の順応性、
それはまさに地球上で類い希なるもので
あるといえるでしょう。
想像力と創造力によって、人は自らを
何にでもすることができ、
そして、成った気分になるだけでなく、
実際にそうなってもしまえたりするわけです。
順応力と適応力により、与えられた環境の
なかで、生き抜くことも出来たりします。
まさに、この言葉の通りであると
いえるでしょう。
そんな力を与えられているということの
意味を考えて生きていくということが
実は必要であるということなのかも
しれませんね。
posted by 清水の伏竜. at 02:38| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月13日

いくらかの犠牲なしには救いもなく、

『いくらかの犠牲なしには救いもなく、
 自ら勝ち取ろうとする努力なしには
 完全な国民的自由もまた、ない。』
   M・ブロック

 さて、この言葉は、どこに注目するかで
異なるイメージをもつかもしれません。
努力に注目すると、自由や救いには
国民ひとりひとりの努力なくしては
なし得ない、維持できないということ
なのでしょうし、
犠牲に注目すると、どんなことにも
犠牲はつきものであり、犠牲なくしては
何もなし得ないということであるように
感じられます。
 いくらかな犠牲は必ず必要なのか
この言葉が語る自由を得るために
この犠牲についても、何なのかが
問われるといえるでしょう。
誰か一部の人に対する犠牲なのが、
全員が、自分にとって少しの犠牲を担いあい
犠牲を分け合うのか、
どちらともとれる言葉です。
犠牲なくして、目的をなし得ることが
最善であることは間違いありません。
しかし、犠牲が必要であるとしたら、
どのように、その犠牲を考えるのか
実はその部分が大きな問題であり、
大きな差となるといえるように感じます。
posted by 清水の伏竜. at 08:47| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月12日

自分のことを賢明と考えている人間は、

『自分のことを賢明と考えている人間は、
 まことにとんでもない馬鹿者である。』
  ヴォルテール

 自分自身のことを賢明な人間だと言う人に
本当に賢明な人はいないということですね。
本当に賢明な人は、そんな言葉を語る必要はないし
行動でそれを示しているでしょう。
賢明な行動のできない人、まさに馬鹿者というべき人が
自分を弁護して言い訳するために
自分のことを懸命だと考え、懸命だと言うのだと
いうことでしょう。
 まだまだ不足、足りないところあるという
謙虚な心こそが、賢明な行動を生むのだと
いうことなのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 19:51| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月11日

宣言を取り消す事が恥辱ではない。

『宣言を取り消す事が恥辱ではない。
 僕等は宣言をなし得ぬ事を恥辱とせねばならぬ。』
   有島武郎

 今の国会議員に対しての言葉であるような
気がします。国民に対して将来の日本おあり方に
関するビジョンを明確に宣言することが出来ないで
いる様子は、まさにこの言葉の言っていることの
通りに、恥じ入るべきであるといえるでしょう。
 出来なくなって宣言をとりけすことが
辱ではなく、チャレンジもせずに、宣言もしないで
何もせず逃げることの方が恥であるということです。
 でも、最近の日本の社会は、恥という考えも
なくなっているのかもしれません。
また、歪んだ方向に流れてしまっているのかも
しれません。
 そのあたりの感性の問題は、まさに教育の問題で
あったといえるでしょう。
知育ばかりに重点をおき、徳育を疎かにしてきた
ことが、日本社会から国民の活力を弱めてきたの
かもしれないなと感じるしだいです。
posted by 清水の伏竜. at 20:05| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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