2010年10月31日

世界で価値のあるただ一つのものは、能動的な魂です。

『世界で価値のあるただ一つのものは、能動的な魂です。
 あらゆる人は、この魂を持つ権利を与えられています。
 あらゆる人は、この魂を自らのうちに蔵しています。』
  エマソン

 この世界で価値のあるものは何か、
それは、魂であるというのは、真理であると
いえるでしょう。
しかし、能動的な魂でなくても、価値ある存在です。
人が、魂を持つ権利を与えられているのではなく、
人は、この世における魂の器として存在していると
いうことです。
人というこの世の刹那な存在を基準に考えた場合の
魂の捉え方を語った言葉といえるのかもしれません。
人は、魂をもっています。
この世の動物は、魂の成長のために存在しているものだと
いえるでしょう。
その為に神が創造したものであり、
神の目的、願いは、魂の成長にあるということです。
ゆえに、魂は、成長するために、この世の器に宿り、
成長して、この世から逝くというわけです。
人に入ることができるまでの成長過程では、
他の動物に宿って成長していくことになります。
魂の宿った生き物を殺すことは、
魂の成長を妨げること、故に許されないことであり
カルマとなるということなのです。
聖者がなぜ、ベジタリアンなのか、
それは、殺生をしないため、
すなわち、魂の宿る生き物を殺して、
神の目的や願いを妨げることをしないためだと
いうわけです。
この世には、魂を宿していない生き物もいます。
それが植物です。
ゆえに、植物を食べても、神の願いを妨げることには
ならないということになるので許されるわけです。
人に宿ることになった魂は、
動物に宿って成長してきた魂であるので、
動物時代のことを前世の記憶としてもっている
ということになるわけです。
人に宿れるようになってからも、
何度も生まれ逝くのを繰り返し魂は成長して
いきます。
それが、輪廻転生ということなわけです。
この世は魂の成長のためにあると
いってよいでしょう。
そして、人という存在は、この世での魂の
成長の最終段階ということであり、
故に、徳分やカルマというものが、
その歩みのなかで生まれるし、魂の影響も大きく
また歩みにも、自由度が高くなっていると
いうことになります。
魂の求める声に耳を傾けることが、
もっとも良き人生を歩むことに繋がると
いうことになるでしょう。
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2010年10月30日

どの道を行くかは、あなたがどこに行きたいかによります。

『どの道を行くかは、あなたがどこに行きたいかによります。』
  ルイス・キャロル

 今の日本政府に、問われているかのような言葉です。
そして、その日本政府を構成する国会議員を
投票で選択している国民に対して問われている
言葉ともいえるのかもしれません。
 日本は、これからどこに向かっていくのか、
それは、結局は、国民の選択ということになるわけです。
しかし、個々の個人の行く末を決める場合と
異なっていて、自分自身が直接きめることが
出来なかったりします。
 自分自身のことであれば、どこに行きたいのかを
決めるのは自分自身が道を選ぶことしかない
ということですが、
 国や市町村の行く末は、国民や市民が、
どこに向かいたいのかということに基づいて
代表を選んで、その代表が決めていくことに
なるわけです。
 外交問題で、最近、失敗の多い日本のトップたち
相手の感情や国情を読みとって、発言するないようを
考慮することくらい出来ないと、困りものなのですが
出来ていないようです・・・。
 せめて、民間の交流では、もっと上手に
お付き合いしていくことが必要であるといえるでしょう。
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2010年10月29日

阿呆はいつも、自分以外のものを阿呆だと信じている。

『阿呆はいつも、自分以外のものを阿呆だと信じている。』
  芥川龍之介

 自分のことを自覚できていないものは
他人のことも知りえないということのひとつです。
他人のことを馬鹿だと思っていたり、
阿呆だと思っている人は、
自分自身も、そう思われていることを
認識できていない人であるということだとも
いえるでしょう。
 自分が最高であるという自負を持つことは、
ときに大切なことでもあったりしますが、
それは、過信や傲慢になってしまってはいけません。
自分以外の人を見下すことは、まさに傲慢になっていると
いうことであるといえるでしょう。
 ときに、子どもの方が、ものごとを正しく
見定めていることもあるのです。
 聖人や賢者は、子どもの言葉にも素直に耳を
傾けることのできる人であるということです。
 阿呆は、裸の王様のように、
真実をみることが出来なくなってしまうと
いうことでもあるでしょう。
 謙虚であることは、人生をより豊かなものに
するために、大切なことであるといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 08:33| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月28日

身ぶりを訓練すること、これは礼節そのものである。

『身ぶりを訓練すること、これは礼節そのものである。』
  アラン

 身ぶりというものは、礼をあらわすものであると
いうことです。
つまり、挨拶にしろ、マナーにしと、その文化ごとに
定まった形があり、その形に従うことが、
礼を尽くすことになるということなわけです。
 日本でも、宮廷における礼節の作法もあれば、
武家における礼節の作法もあるわけで、
一般的な礼節についても、道として、流派があり、
それぞれに、継承し、伝承しています。
 そして、礼節というものは、学ばなければだめであるし
訓練しなければ、身につかないものでもあるわけです。
 まさしく、それは、身ぶりを訓練することであり
その訓練が、そのまま礼節へと繋がっているということです。
 日本の小中学校においても、きちんと礼儀作法について
学ぶ時間を設けるべきであるといえるでしょう。
外国語を学ぶよりも、ずっと重要であり、
大切なことであるとおもいます。
 観光立国を目指すのであれば、
自国の文化や礼儀作法などについて、
すべての国民がきちんと一定水準で学び心得ておける
ようにすることも、政府のすべきことであるようにおもいます。
それは、義務教育のなかで行われるべきであると
いえるでしょう。
 
posted by 清水の伏竜. at 21:33| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月27日

人間はなににでもなれる動物であり、どんなことにも慣れる存在である。

『人間はなににでもなれる動物であり、どんなことにも慣れる存在である。』
  ドストエフスキー

 人間という存在は、この地球上で、もっとも特異な存在であり、
他の生物とは、異なる存在であることは間違いない事実である。
そんな人間は、どんなものにでもなれるし、
どんなことにも、慣れることができる。
それは、知恵をもっているからであり、適応するために
何が必要なのかを考え、生み出すことができるからである。
人間のほかに、そのようなことを自発的に出来る存在は
この地球上にはない。
 賢いといわれる動物であっても、自然の流れに身を任せて
生きているだけであり、自らの力で変化をもたらすような
行動はしないし、何か新しい物を生み出すこともない。
 それは、人が、この地球を上手に扱っていくことが
できる能力を与えられているからであり、
さらには、地球の外でも、生きていくことのできる力を
与えられているからである。
そのために必要なものを生み出していく能力は人にはあると
いうことである。
 しかし、その力も、間違った方向に向かってしまったなら
自滅への道が待っているのかもしれないことを
注意するべきだといえるだろう。
警告はいろんな形で、行われてきており、
残されてきているのだから・・・・・・・・・・・。
posted by 清水の伏竜. at 19:11| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月26日

常に心を変化に向けて開いておこう。

『常に心を変化に向けて開いておこう。
 変化を歓迎しよう。もてなそう。
 自分の意見や考えを何度も検討し直して、
 初めて人間は成長できるものだ。』
   デール・カーネギー

 変化することを恐れてはいけないということです。
変化していくことは、成長していくことでも
あるのですから。
自分の考えられることなど、たかが知れているもので
そんな範囲で、固まってしまっていては、
いつまでも、ひとつのところに留まるだけで、
何かに向かって歩み進むことなど
できないということです。
 変化をよく捉えて、認識し、受け入れ、
自分のものとしていくことにより、
より大きな広がりをもって、生きていくことが
出来るということでしょうか。
 何度も、何度も、考え直し、試み、
繰り返すなかで、人は成長していくのですから。

 もちろん、何でも変化すればよいということでも
ありません。文化や伝統など、守り伝えていく部分も
大切であったりします。
守り伝えるものに、また新しいものを積み上げることも
変化のひとつであるといえるでしょう。
 まず、きちんと守り、継承すること、多くの技術や
伝統や、文化などは、その最初の基本が重要であったり
するものです。そこが出来ずしては先にはすすめないとも
いえるでしょう。
それが出来て、はじめて、ひとり立ちすることが
可能になり、そして、ひとりで歩みだしたあとに、
新しいものを創造していくことが出来るようになる
そのステップを、守・破・離というのだといえるかも
しれません。
posted by 清水の伏竜. at 17:46| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月25日

聖人はため込むことなし、ことごとくもって人のためにして、

『聖人はため込むことなし、
ことごとくもって人のためにして、
 己れいよいよ有し、ことごとくもって人に与えて、
己れいよいよ多し。』
   老子

 聖人と呼ばれるひとは、
何かをためこむということはしないということです。
いわゆるこの世のもの、富や名声や地位といったものを
持つことを良しとせず、すべてを人の為に、与えてしまい
物に執着することがないのです。
衣食住も、与えられたものを感謝して使い休みいただくわけです。
もちろん、譲らないこともあります。
それは、神や仏との誓約であり、神を哀しませるような行為を
行わないことであり、神を喜ばせる行為を行うということです。
その点においては、どんな権力や力の前を前にしても
屈することはありません。
 しかし、与えることを旨として生きていると
結局、多くが与えられることになるということでもあります。
神や仏の前に誠実に行動し、他人に与えるものは与え、
只管に神・仏のために生きる道を歩んでいるならば、
必要なものは与えられることになるので、生きるということに
おいて何ら不足することはないというわけです。
しかし、この道を歩むのは、なかなか難しいことでもあります。
多くの人が、魂がまだまだ未熟であり、
この世に生まれて、この世の欲に囚われてしまっているのです。
そして、そのとらわれからは、逃げ出すことができないで
いるのが実際のところであるといえるでしょう。
それは、生活の基本である衣食住においても明らかです。
完全なるビーガンな生活をするというだけでも、
なかなか出来ない人が多いのですから。
しかし、ビーガンな生活などは、聖人の初歩であり、
入門以前の話でしかないのです。
その先に進むためには、出家して、この世の社会から解脱することが
必要になるでしょう。
お釈迦様やイエス様がそうであったように。
でも、そんな生活に望んで進むことのできる人は、
実際には、まずいません。それこそ千年にひとりかといったレベル
であるでしょう。
 では、何も出来ないのかといえば、
今の自分自身の魂のレベルのなかで、一歩先のレベルに向けて
出来ることを成せばよいということなのです。
予定された人生よりも、一歩先のレベルに進めたなら
大きな価値があることであり、大きな飛躍であるといえるでしょう。
それを成すだけでも、なかなか大変なことであったりするのですから。
(もっとも、身近なことであれば、禁酒、菜食生活をおくることに
 なるでしょうか)
posted by 清水の伏竜. at 18:49| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月24日

人間が宗教の始めであり、

『人間が宗教の始めであり、
 人間が宗教の中心であり、
 人間が宗教の終焉である。』
   フォイエルバッハ

 宗教とはなにか、実は、よく多くの人が
間違っていることに、宗教と信仰の違いというものが
あったりします。
 この言葉は、宗教が、人により生まれ、
人により行われ、人により終わるということを
語りながら、宗教とは人が作り出したものであると
いうことを伝えているようにも聞こえてきます。
 確かに宗教は、人が作り出したものです。
神が創ったものではありません。
神は、人と、この世界を創造しただけであるのですから。
 人が神を求めるのは、子どもが親を求めるのと
同じことであり、自然なことであるといえます。
そして、人は、神の分魂であるのですから、
生み出されたもとである親、即ち神に向かって
成長していくということでもあったりします。
 宗教はこの世からなくなっても何の問題もありません。
そして、なくなることもあるでしょう。
しかし、人がいなくなることはないでしょうし、
信仰もなくなることはないでしょう。
 この世界の創造の目的が、神による魂の成長である以上、
魂の成長を妨げることなき環境であれば、それを無に帰す
必要はないということです。
 人とは、魂を成長させるために、この世に生まれた
器であるのですから。
人生とは、魂の成長のための修行の旅であるというわけです。
生きていることが、即ち霊性修行であるということです。
 子どもは、親をもとめ、親は子どもの成長を願います。
人は神をもとめ、神は人の(魂)の成長を願います。
そこでは、神と人は、常に1対1の関係なのです。
宗教として集団になる必要など何もないということです。
 お釈迦様もイエス様も宗教を創ろうとはしていません。
そして、その教えは、常に、人と神、仏との関係であり、
人の集団と神、仏との関係ではありませんでした。
宗教を創ったのは、お釈迦様やイエス様の弟子たちであり
彼らは、恐れから集団を形成したといえるでしょう。
何の恐れかといえば、教えを失うこと、教え通りに
行動できないことへの恐れであったのかなと感じます。
 お釈迦様やイエス様の教えの根本は、
神、仏の叡智であり、魂の成長のための道筋であり
それは、ヴェーダの叡智と同じものであるといえます。
信仰により、求めるのであれば、宗教など無関係に
神の叡智へと辿り着くということなのだともいえるでしょう。
 宗教は争いを生むけれども、信仰は争いを生みません。
なぜなら信仰は常に自分自身の中のものであり、
この世の外界とは無関係なものであるからです。
ただ、神と私、ひとりの神の子としての自分を、
神の愛のもとで、成長させていくこと、
そして神に感謝と喜びを与えるために、
成すべきことをなすことでしかないのですから。
posted by 清水の伏竜. at 17:25| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月23日

だれかがひっくりかえさないと、この世界のものごとはひっくりかえらない。

『だれかがひっくりかえさないと、この世界のものごとはひっくりかえらない。』
   ジェームズ・A・ガーフィールド

 変化を呼び込むために、
停滞する社会、問題のある世界、世の中の矛盾、
何かを変化させていくためには、
誰かが、行動を起こさなければ、変わることはない
そんな当たり前のことですが、
人は、保守的な面が強く、自分がやらなくても
誰かがやってくれるだろうと思い込み、
自分が行動しないことを肯定して、
自分自身を納得させることが多かったりします。
不満を持ちながらも、変わって欲しいと思いながらも
でも、自ら何かを成すことには恐れがある
多くの人が、そんな感じで、行動出来ずにいるの
かもしれません。
しかし、誰かがひっくりかえさないとならない
その誰かは、きっと、あなたなのかもしれない
そう、そうなのかもしれないのです・・・・。
posted by 清水の伏竜. at 07:16| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月22日

貪欲はいっさいを得ようとして、いっさいを失う。

『貪欲はいっさいを得ようとして、いっさいを失う。』
   ラ・フォンテーヌ

 清貧という言葉があるように、
人は欲望に塗れてしまうと、人としてダメに
なっていってしまうのでしょう。
貪欲なことは、一見すると良いように思えるかも
しれません。しかし、いっさいを得ようとすれば
いっさいを失うことになるというのは、
昔から、言われてきたことであったりします。
この言葉は、まさに過去の事実のなかから
出てきたものでもあるといえるでしょう。
欲望にも、レベルと種類があり、どんな欲望に
ついても貪欲であるということは、正しい道ではなく
それがゆえに、すべてを失ってしまうことに
なっていってしまうといえるでしょう。
 人生の意味を理解し、この世に生まれてきた
理由を理解したとき、人は、欲望のなかでも、
より深い理性に根ざしたものだけに、
関心を持つようになり、いわゆる快楽や一時の至福の
ための欲望を捨てるようになっていくということの
ようです。これまで聖者とか聖人と言われた人は、
誰もが、私欲を捨て、衣食住といったものへの
執着もすてさり、心の成長と、神・仏への帰依を
願い歩んでいっているということです。
だれもが、そんな歩みを出来るわけではありません。
魂の成長が、そのレベルに達するには、
長く厳しい成長の歩みがあってのことなのですから、
ただし、聖者の生き様を見習うことは、
魂の成長のためには、良いことであるといえるでしょう。
 自分自身の魂が成長するために、
今のこの世にて、この環境で、この親のもとに、
この時代に生まれてきたのですから、
その与えられた人生のなかで、自分の出来ることを
一生懸命に行って生き抜くことが、まずは必要なことで
あるといえるでしょう。
そのなかで、清貧なる歩みを出来るのであれば
良いですが、出来なくとも、自分自身で、出来るだけ
欲望をコントロールして生きていくことが、
魂をより成長させることに繋がっていくのだと
いえるのでしょう。
 与えたものはかえってくるといいます。
求めるものは失われるといいます。
ただ、求めるだけでは、何も得られないということ
なのでしょう。求めるものに見合うことを成すことが
重要であるということですね。
posted by 清水の伏竜. at 12:53| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月21日

自分の強さを実感している人は、謙虚になる。

『自分の強さを実感している人は、謙虚になる。』
  セザンヌ

 強い人ほど、謙虚であるということです。
強さを知るということは、弱さを知っていることでも
あったりします。そして、強さの本質を知り、
それを実感していると、驕りの愚かさを認識することに
なるということでしょう、
ゆえに、謙虚になるということです。
本当に強い人は、その強さを誇示することはありません。
あくまで謙虚に、常に自分のなかの弱さを感じて、
更なる成長に努力している人であるといえるでしょう。
 強さがよりわかりやすい世界、アスリートやプロスポーツの
世界においては、まさに本当に強い人、超一流と呼ばれる人ほど
謙虚さを兼ね備えています。
 逆にいえば、謙虚さをもっていないものが、
本当の意味での強さを得ることは出来ないという
ことであるのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 18:45| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月20日

人生は砂時計のようなものだ。

『人生は砂時計のようなものだ。
 砂時計の二つの瓶はごく細い首でつながっていて、
 一度に砂粒一つしか通り抜けられない。』
   ジェームズ・ゴードン・ギルキー

 変化は、結局、少しずつしか起こらない、
未来の砂は、過去の砂となるのに、現在という細い首を通るしか
ないということです。
砂時計の首は、まさに未来と過去を繋いでいる今であると
いえるでしょう。
 人生の砂時計が、産声を上げたときに神の手によって
ひっくり返されて、未来の砂が、過去へと落ちていくことになり
今という瞬間が、ひと粒ずつ、過ぎていくというわけです。
やがて、未来の砂が尽きるとき、この世から逝くことに
なるといえるでしょう。
 どんなに急ごうとおもっていても、
砂は、沢山落とせないということなのです。
人生は、確実に、一歩一歩歩んでいくしかないというわけです。
もちろん、その首のサイズも、砂時計の大きさも、
人によって様々であり、異なることでしょう。
しかし、自分の砂時計は、ひとつしかないということなのです。
他人の砂時計をみて、悩んだりすることには、何の意味も価値も
ないということなのです。
 自分自身の人生は、決して他人と同じになることはなく
他人のように歩めるわけでもないということです。
この世に、たったひとつ、唯一無二の砂時計なのですから。
posted by 清水の伏竜. at 08:26| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月19日

人生はつくるものだ。必然の姿などというものはない。

『人生はつくるものだ。必然の姿などというものはない。』
  坂口安吾

 人は、人生を創るものだと思いたいものです。
そして、確かに人生は、創るべきものでも
あるでしょう。
しかし、人生の流れは、生まれたときに、
ある程度定められているのも確かなことで
あったりします。
 それは、人種、環境、両親(家系)、仕事など、
この世で、魂が成長するために、カルマを解消するために
もっとも必要なことが出来るところを選んで
生まれてきているからです。
この世に生まれるということは、魂として成長することが
必要であり、またカルマを解消することが必要であるからで
あって、そのために生まれてくるのですから、
最低限の成長を成すことができる人生を考えた上で
生まれを選んできているわけです。
もちろん、生まれたときには、その記憶は封印されて
しまいます。魂との繋がりは、肉体と精神=霊体により
なされ、この世においては、肉体と精神が、赤ちゃんより
成長していくわけです。即ち魂はゼロからの出発ではないけども
心と体は、ゼロからの出発であるということです。
したがって、今世の心と体は、まさに人生として歩みだした
ときから創っていくものであるわけです。
その意味では、必然の姿はないといえるでしょう。
しかし、魂は、成長過程であり、なんども転生して
この世の人生を歩んできているので、
必然といえるべきものも含んでいることも確かなのです。
 どんなに頑張っても、報われない人は、カルマの解消が
沢山必要な人であるといえるでしょうし、
とくに頑張らなくても、なぜか豊かという人は、
前世までの徳分をつかっているからであるといえるでしょう。
 人生においては、回避できない業というものも
間違いなく存在しているということなのです。
魂の成長が、もう最終段階であれば、カルマをつくることのない
環境に生まれてくるものです。
即ち、両親は禁酒ベジタリアンであり、環境的にも、
殺生することなく、ベジタリアンとして生活できるような
ところに生まれてきます。お釈迦さまやイエスさまが
そうであったように。
 今世で出来ることは、今世でしか出来ません。
ゆえに、この人生は重要であり、また生き抜くことが
大切であり、価値あることでもあるということになります。
そして、この世での運命のなかで、予定よりもより充実した
ものにすることも可能です。
または、予定を達成できないような人生にしてしまうことも
出来たりします。
その場合には、神は非常時には審判を下すことも
あるでしょう。それは、それ以上酷いことにならないために
行われる神の愛であったりするわけです。
posted by 清水の伏竜. at 12:21| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月18日

改造すべきは単に世界だけではなく、人間だ。

『改造すべきは単に世界だけではなく、人間だ。
 その新しい人間はどこから現れるのか?
 それは外部からではけっしてない。
 友よ、それをお前自身のうちに見出すことを知れ。』
   A・ジイド

 世界を変えるためには、何が変わらなければならないのか
その答えをこの言葉は伝えています。
すなわち、人が変わることであるというわけです。
では、その人とは誰なのか、それは他人ではなく、
まず自分自身であるということです。
自分が変わらなければ、世界も変わらないというわけです。
 社会に対して、不満や文句をいっていても、
世界が変わる必要があると思っていても、
自分自身が、変わっていかなければ、それは成しえないと
いうことになるわけです。
決して、他人が変われば、誰かが変われば、世界が変わる
わけではないというわけです。
 今、日本は変革のときを迎えているといわれます。
平成維新のときというわけです。
しかし、その変化は、市民ひとりひとりが、
自分自身の中から、変化していかなければならないものだと
いうことであるわけです。
傍観者ではいられない時代であるということです。
 そのために、何をなすべきなのか、
それは、ひとりひとり異なっていることでしょう。
そして、その何かを知ることができるのは、
自分自身だけであるということなのです。
 もちろん、その変化を後押ししてくれるものは
外部にあるでしょうし、手助けしてくれるものも
あるでしょう。
でも、それを活かすのも自分自身しかないということです。
 世界が、日本が、未来に向かって、
どう変わっていけるのか、それは、市民一人ひとりが
どう変わっていくのかに懸かっているというわけです。
posted by 清水の伏竜. at 12:43| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月17日

青年は、未来があるというだけでも幸福である。

『青年は、未来があるというだけでも幸福である。』
   ゴーゴリー

 若さというものは、それだけで価値があると
いうことですね。
未来の可能性が大きいほど、幸せであるというわけです。
しかしながら、その重要さ、大切さに
青年は気がついていなかったりするわけです。
そして、過ぎ去ったあとに、後悔することに
なってしまうわけです。
 そうならないために、どんなチャンスに対しても
貪欲にアプローチして、出来る機会があれば、
何でもやってみるという探究心と行動力とが、
大切になってくるということなのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 17:16| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月16日

学問そのものはみずからの使用法を教えないのだ。

『学問そのものはみずからの使用法を教えないのだ。』
  F・ベーコン

 勉強するということは、とても大切なことです。
とくに若い時代においては、学ぶことが生きることだと
いってもよいでしょう。
学問をまなぶなかで、何を得るのか、わからない若者が
多いようですが、学ぶときには、とにかく学ぶという
ことでも構わないといえるかもしれません。
その後で、その使用方法を学ぶというのもありでしょう。
ただし、学問そのものは、その使用方法を教えてくれない
ということです。
なぜなら、学問の使用方法は、ひとつではないからです。
いろんな使用方法があり、いろんな活用方法があると
いうことなのです。
どんな方法で使用するのか、それは人それぞれです。
その使用方法は、学問以外のことから学ぶ必要があると
いうことになります。
だから、学問も重要であり、経験や体験といった学習が
重要であるということになるわけです。
posted by 清水の伏竜. at 06:44| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月15日

一番大事なことは、どんな環境が必要かということではなく、

『一番大事なことは、どんな環境が必要かということではなく、
 どんな考えで毎日生活しているか、
 どんな理想を追い求めているか、ということなのです。』
   ヘレン・ケラー

 人にとって、日々を生きていく
生活していくにあたって、何が大切なのか
それは、環境ではなく、姿勢であり想いであると
いうことなのです。
どんな考えをもって生活しているのか
どんな夢を持って生活しているのか
どんな目標、夢に向かって歩んでいるのか
それが重要であり、大切であるということ
だから、日々の生活や、人生のなかで、
想いは必要であり、夢や目標が必要であると
いうことであるわけです。
 それがないということは、
日々がとても淋しく哀しいものと
なっているといえるでしょう。
だから、そんな夢、理想がないなら、
それを求めて環境を変えることも必要となると
いえるかもしれません。
 何がもっとも重要なのか、
その重要なもののために、どうするのか、
すべては、そこからはじまると
いうことになるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 07:21| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月14日

国家主義は幼児である。それは人類のハシカである。

『国家主義は幼児である。それは人類のハシカである。』
  アインシュタイン

 国家主義とは何か、それをどう捉えるのか
アインシュタイン博士にとっては、
国家主義は、幼児であり、ハシカであるので、
いずれ無くなるものだという捉え方をされていた
ということです。
それは、ユダヤ人として歩んだ人生のなかで、
国家と対したときに経験してきたことから
出ている言葉だといえるでしょう。

経済的および社会的な目標達成のための国家権力を
支持する政治運動や傾向をさす用語が、国家主義だそうですが、
経済的な目標や、社会的な目標のために
国家権力を必要としない社会こそが理想なのだと
考えたなら、そこに価値はないということになります。

 国家は、ひとつの器でしかないということ
なのかもしれません。
器を主義にすることに意味はないというわけです。
もちろん器は大事にすべきです、
でも、主義というものは、内容によるものですから、
国家というものは内容を必ずしも伴う必要がないと
考えたなら、主義にすることの価値のないものだと
いえるのかもしれません。
大切なのは、国民であり、その国の文化や歴史といった
歩みそのものであるということもいえるでしょう。
 結局、人の集まり、コミュニティが中心となって
支えて伝えていくものにこそ、意味があり、価値があると
いうことになるのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 20:13| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月13日

われわれの主張や思考のすべてに、

『われわれの主張や思考のすべてに、
 ひそかな反抗が混ざりこんでいなければならぬ。』
   ジョレス

 何かに対するアンチテーゼ、
異なる視点、異なる価値観、・・・・
主張や思考には、かならず、何かに対して、
反抗する部分が存在しているというわけです。
それが、なければ、主張ではないし、思考でもない、
同意であり、迎合であり、追従であり、
無思考であるというわけです。
確かに、そんな見方もできるのかなという気がします。
 あるものに対して、ある見解や意見があったとき
それに対抗するものがあってこそ、
深く理解することもできるし、本質をとらえることも
できるのだということなのかもしれません。
 もちろん、結果として同意となることも
あるでしょう。しかし、アプローチとしては、
多彩なものをもっているべきといえるでしょう。
 いろんな見方や考え方、とらえ方をするなかで
本質に向かっていく、そのためには、より多くの経験や
知識が必要となることは間違いないでしょう。
だから、人は学び続けるのだともいえるかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 21:13| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月12日

満足した豚になるよりも不満足な人間となるほうがいい。

『満足した豚になるよりも不満足な人間となるほうがいい。
 満足した愚者よりも不満足なソクラテスとなるほうがいい。』
   J・S・ミル

 この言葉は、人のあり方を問う言葉として、
有名な言葉となっています。
満足してしまっては、人には進歩も成長もなということです。
満足というのは、現状に安住することであると
いってもよいでしょう。
変化があるからこそ、日々新しい気持ちで生きていける
その変化は非常に些細なものでもよいのです。
天候や季節の草花、風景、想い、子供の成長、
自分の成長、・・・・
その日々、異なることに対して、どう感じて、
なにを思うのかが、大切であるといえるでしょう。

 引き篭もっている人には、成長はありません。
もちろん、引き篭もる理由は、それぞれにあるでしょう
その理由について、それぞれに対応していくことも
大切ですし、心の病であれば、無理もできません。
しかし、ほんの小さな変化と行動が、少しづつでも
あることが大切です。そして、最後は本人の小さな勇気、
小さな決断が、すべてを決めることになるでしょう。
どんなに周囲が気を使っても、結局は本人が変わりたい
何かしたいと思うことがなければ、何もはじまりません。
満足した豚でいたい人を、人間にすることは出来ないということです。
満足した愚者でいたい人を、ソクラテスには出来ないということです。
 もちろん、本人に自覚の機会を与えることは出来ます。
ときには、厳しいことも必要でしょう。
追い詰めることが必要なこともあるでしょう。
それは、まさに人によって異なるものであり
この方法で誰でもいけるといった回答などは、
本当の意味では、存在していません。
多様性への対応ができるようなアプローチが必要であると
いえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 07:32| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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