2010年09月30日

人間の偉大さは、不運に対して

『人間の偉大さは、不運に対して
 どのように耐えるかによって、決まるものだ。』
   プルターク

 人生には、不運はつきものです。
常に幸運に恵まれる人などいないといって
よいでしょう。
 そして、不運は、人に試練を与え、鍛えてくれます。
不運にであったとき、どのように耐え、
どのように乗り越えていくのか、
それは、人によってさまざまであるといえるでしょう。
その対応の仕方に、その人の成長の度合いや
人としての度量や深さが、現れてくると
いえるかもしれません。
まさに、偉大さは、不運にあったときに、
見えてくるということでしょうか。
 人には、その人が耐えられる、乗り越えられる
試練や不運しか訪れないといわれます。
どんな状況においても、何とかならないことは
ないということです。
 あきらめずに、対応していくこと、
じっと我慢するのもよし、立ち向かっていくのもよし
自分に出来ることで、対応していけば、
いずれは、乗り越えていけるものだということです。
そして、その体験を経て、人は成長していくと
いうことなのでしょう。
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2010年09月29日

何事かを試みて失敗する者と、

『何事かを試みて失敗する者と、
 何事も試みないで成功する者との間には、
 計り知れない相違がある。』
   ロイド・ジョーンズ

 試みること、その結果が失敗であっても
成功であっても、試みないものよりも
ずっと優れているということですね。
 何もせず成功した者は、徳分を消費して
いるだけで、実は何の実りも得ていないという
ことなのだといえるでしょう。
 何か行ってみて失敗した者は、
その行いのなかで、実は実りを得ていると
いうことなのです。
 人が成長していくためには、
結局のところ、何事かを試みていくことの
繰り返ししかないということなのですね。
 行動としての結果、そのなかで初めて
成長というステップをあがっていけるわけです。
 だから、何事かを試みて失敗した人と
何事も試みないで成功した人との間には、
外面的には、成功した人の方が良いように見えるのに
内面的には、大きな成長の差が生まれていると
いうことになります。この間には、
まさに計り知れない相違があるということです。
人生にとっては、何事かを試みて失敗した方が
良かったりします。
なぜなら、人生の根底にある目的は魂の成長で
あるのですから。
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2010年09月28日

人生のどんな状況にあっても、自分自身と対話し、

『人生のどんな状況にあっても、自分自身と対話し、
 この対話によってどれだけ得るところがあるか
 自問することを忘れないことだ。』
   エピクテートス

 人生におけるあゆみのなかで、
何かあったとき、周りに相談できる人が
いなかったり、悩みを打ち明ける相手がいなかったり
質問できる相手がいなかったり、
愚痴を聴いてくれる相手がいなかったり、
そんなこともあるでしょう。
 そんなとき、自分自身との対話という方法が
残されていたりします。
自分のなかの誰かに、問いかけることによって
その問いかけの内容を整理していくことが
出来るかもしれません。
なぜ、自分が、その問いをしているのか、
その悩みを抱いているのか、
何が辛いのか、哀しいのか、苦しいのか、
自問自答するなかで、原因を探っていくことが
出来るかもしれません。
 自問することは、もっとも簡単な、対話の
ひとつです。
もちろん、答えが得られないかもしれません。
それでも、問いの内容がどんな意味なのか
おかしくないのか、変ではないのか、
そんな整理をつけていくことは出来るでしょう。
また、自分自身との対話のなかで、
落ち着かせていくことによって、
より冷静に、客観的に、考えていくことが
出来るようになるかもしれません。
 どんな状況になっても、どんな環境におかれても
自分自身との対話は可能です。
この方法を上手に活用していくことが、
人生をより豊かなものにする一助となるかもしれません。
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2010年09月27日

敵を許し、さっぱり忘れるためには、

『敵を許し、さっぱり忘れるためには、
 自分自身より無限に大きいものに
 心を打ち込むことである。』
  デール・カーネギー

 汝の敵を愛せよ、そういわれる言葉を
信仰者として守るのであれば、敵を許すことは
必要なことになります。
富を築いた人物にとって、敵を許すには、
より大きなものに心を打ち込むことが必要で
あったということです。
その自分自身より大きいものとはなにでしょうか。
おそらく、それは、神でありキリストであったの
かもしれませんね。
信仰に心を打ち込むことによって、
敵を許し、さっぱり忘れることが出来ると
いうことなのかもしれません。
 自分自身が、いかに小さいものでしかなく
弱く、幼いものであるのかを認識できたなら、
敵という存在もまた同様であると気付くことができ
そんな幼子同士の争いなど、無意味であることを
感じることになるのかもしれません。
 自分自身より無限に大きいもの、
神や仏、キリストや聖者たちといったもの以外に
何かあるでしょうか。
宇宙ということかもしれません。
でも、宇宙もまた、
神の手の上にあるものに過ぎなかったりします。

 よく、宗教と信仰とを同じものだと誤解している
人がいらっしゃいます。
宗教がなくても信仰は残りますが、
信仰がなければ宗教は残りません。
それは、大きな違いなのです。
宗教などに入信する必要など実はまったくありません。
ただ、信仰を持つことは大切なことであったりします。
なぜなら、信仰は魂の成長において、非常に重要な
役割を果たすものであるからです。
また、敵を許し愛すことのできる根源でも
あるからです。
 無宗教という人が日本には増えています。
でも、正月に初詣にいき、お盆にお墓を参り、
クリスマスにパティーをしているのです。
実は、無宗教という人のほとんどが、宗教と信仰を
混在していたり、それらの本質を知らない無知であると
いうことを告白しているようなものであったりします。
人が、心の本質に向かっていくならば、
必ず神というべき存在を感じることになるし、
そこには、畏怖や敬愛といった感情が出てくるものです。
それは、信仰へと繋がるものであり、
誰もが、信仰心というものを持っているもので
あったりするのです。
ただ、気が付いていないだけのことだともいえるでしょう。
今世において、逝くときまで気が付かないままの人もいます。
でも、いつか訪れる来世では、必ず信仰の道を
誰もが歩むことになるでしょう。
なぜなら、魂の成長のためには、その道は避けて通れない
ものであるのですから。
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2010年09月26日

人間の最上の財産は彼の足元にある。

『人間の最上の財産は彼の足元にある。』
   ホーソン

 人の価値、人の持っている宝は、
結局、その人の歩んできた人生そのもの
自分自身のなかにあるものであると
いうこと。それ以上に価値のあるものは
ないということであり、
最後まで、持っていられるものも
結局は、人のなかにあるものでしか
ないということ。
 幸せの青い鳥のように、
最上の財産も、身近にあるというのに
それを見失ってしまっていて
探し惑ってしまっているという
だけだということでしょう。
 自分自身のなかにある経験、知識、
思考、そして、絆、それらこそが、
最大で最上の財産であるということ
その財産を殖やしていくことが、
とても大事なことだということで
あるのでしょう。
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2010年09月25日

物事をあるがままの姿で受け入れよ。

『物事をあるがままの姿で受け入れよ。
 起ったことを受け入れることが、
 不幸な結果を克服する第一歩である。』
   ウィリアム・ジェームズ

 何か自分にとっていやなことがあったとしても
不幸なことがあったとしても、納得できないこと
厳しいこと、不満なことがあったとしても
現実をまずは受け入れることが大切であるという
ことですね。
 どんなことであっても、まずはその事実、
その物事を受け入れること、そして受け入れた
結果から、それを克服することがはじまると
いうことです。
 受け入れなかったら、永久に克服は
出来なくなってしまうといえるでしょう。
どんなことであっても、目を背けてはダメで
しっかり認識し、分析し、解析し、その根本に
潜むものを探り当て、そこから得たものを
使って、前進していけばよいということなのだと
いえるのではないでしょうか。
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2010年09月24日

一つひとつの問題の本質を正しく掴め。

『一つひとつの問題の本質を正しく掴め。
 仕事を分割して適当に時間割りせよ。』
   ベンジャミン・フランクリン

 何か、おこなうとき、
それが仕事であっても、そうでなくても、
問題が発生したなら、きちんとその本質を
掴むようにすることが重要であり、
ものごとを進めるにあたっては、
作業分割して、時間を考えて、計画を練り
実行することがのぞましいということですね。

 まあ、よく言われることです。
しかし、結構、出来ない人にとっては
難しいことであったりします。
よく、自分に出来ることだから、
他人にも出来ると思い込んでいる人がいます。
自分のことを過小評価していて、
自分ですら出来るのだから、他の人なら
出来て当然という気持になるようなのですが、
それは、実は間違っていることが多いです。
自分に出来るからといって、
同じように他人が出来ることの方が、
世の中には稀であるということです。
なぜなら、人は、ひとりひとり、個性があり
能力も考え方も経験も価値観も行動力も
すべて異なっているからです。
 自分にとって簡単なことであっても
他人には難しいこともあるという意識を
もっていることは、教育者とか指導者といった
他人を束ねたり、育てたりする人にとっては
重要なことであるといえるかもしれません。
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2010年09月23日

いつまでも無知のままでいたければ、

『いつまでも無知のままでいたければ、
 きわめて簡単で効果のある方法がある。
 自分の取るに足らぬ意見と知識に満足しておればよい。』
   エルバート・ハバード

 満足してしまうことが、進歩を妨げるということ
無知でいるということは、進歩していないということ
自分の殻に閉じこもって、そこから出ようとしないで
いるのであれば、結局は何も得ることもなく
何の変化もなく、進歩も成長もないことになる。
無知であることの自覚から、知への欲求が生まれるとも
いわれるように、
無知であることに満足してしまっては、
意味がない、成長していくために、進歩するために
自分の意見や、知識にだけに固執するのではなく
柔軟に、外からの意見や知識を受け入れることが
大切であるということ
そこから、成長がはじまり、進歩が生まれていく
そして、無知から脱却していくことができる。
 知ることへの欲求は、人にのみ与えられた特権である
折角、与えら得たものなのに、使わないでいるのは
もったいないし、無意味であるといえるだろう。
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2010年09月22日

人生は、もっとよい世界を切り開こうと努力する場合に、

『人生は、もっとよい世界を切り開こうと努力する場合に、
 初めて生き甲斐のあるものとなる。
 将来にまったく不安がなくなれば、
 誰一人として努力しなくなり、
 人類は絶滅してしまうだろう。』
   ドワイト・アイゼンハウアー

 生き甲斐とは何か、そんな問いは多くなされて
きています。それに多くの人が答えていますが、
そんな答えのひとつといえるでしょう。
 人生において、より良い世界を目指して、
開拓すべく努力し、歩んでいくときに、
生き甲斐が生まれるというわけです。
また、人が、まったく将来に不安を感じなくなれば
誰も努力しなくなり、人類は絶滅してしまうと
大げさなことを語っています。
これは、教訓としての言葉であり、
実際に、将来に不安を感じなくなっても、
人は、努力するし、成長を求めていくでしょう。
だから、人類が絶滅することなのないと
いう事になります。
 不安を糧に、努力するのは、ある意味楽なのかも
しれません、追い詰められたとき、
人は思いがけない力を発揮するものですから、
でも、不安を感じていなくても、努力することが
出来るほうが素晴らしいといえるでしょう。
そして、人にはその力があるのです。
 人が、この世に生まれてくるのは、魂の成長のためであり
成長のために努力するのは、当たり前のことだからです。
成長の必要のなくなった魂は、この世に生まれては
こないのですから。
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2010年09月21日

人間の幸不幸は、運によるところも大きいが、

『人間の幸不幸は、運によるところも大きいが、
 その人の気質によるところも、これに劣らず大きい。』
   ラ・ロシュフコー

 幸福か不幸か、人の状態を、その2つに分類するのは
なかなかやっかいであるといえるでしょう。
幸福でもないけど、不幸でもない、
そんな答えをしたくなる人の方が多いのではないでしょうか
人が、幸福になれるか、不幸になるのか、
その要因について、この言葉は、運というものと
気質というものをあげています。
 運とは何なのでしょうか、
運とは、運命ということだとしたなら、
それは、この世に生まれてくるときに定まっているもので
あって、今回の人生の歩みのなかで、カルマを解消し、
徳を積み、魂を成長させるために、必要なことが、
用意されているというだけです。
そして、人の気質というものも、実は、生まれてくるとき
その生まれてくる環境によって定まっていたりします。
家系というものの流れのなかで構築されている肉体と
社会的な条件、両親の資質、それらによって、
精神と肉体は、条件付けられているといえるのです。
つまり、この世にて得るものについては、
生まれてくるときに、既に神と自らの魂の選択によって
決定されているというわけです。
 だから、与えられた人生を、最後まで生き抜けば
最低限の魂の成長は成しえることになってます。
そのために用意された人生であるのですから、
ただし、人生の歩みのなかで、自らの行為によって、
余分なカルマを持ってしまうこともあれば、
多くの徳分を積むこともあり、
予定以上に、魂が成長することもあるわけです。
予定よりも魂が成長できなくなる場合において、
それがあまりに酷いと、神はその権利であるポアを
行使することもあるようです。
その魂の為に、その魂を愛するがゆえに。

 人生は、結局のところ、この世のレベルにおいて
幸福と感じるのか、不幸と感じるのかは、
その人の心次第であり、環境も資質も実はあまり関係ないと
いえるのかもしれません。
なぜなら、幸福も不幸も、他人が決めることではなく
自分自身が決めることであるのですから。
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2010年09月20日

多年にわたり社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日

「多年にわたり社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」

 「としよりの日」から、「敬老の日」に、
9月15日から、第3月曜日に、変化してきた祝日です。
今の社会は、先人の努力と生活があって、存在している
そのことを、忘れてはいけないということです。
丁度今年は、雑節のひとつ、彼岸の入りでもあったりします。
まさに、先祖、先人に、感謝する日ということで
あるといえるでしょう。
 今、自分がこの世に存在しているのは、
両親がいるからであり、その両親も、それぞれの両親が
いたから存在しているのであり、そのまた両親も・・・・
そう、先祖の存在なくしては、今の自分はあり得ないのです。
家系やルーツというものが、何故大切なのかといえば
それは、自分という存在があり得る理由のひとつである
からだといえるでしょう。
 この世における存在は、すべてが過去からの継承の上に
成り立っているということです。
個人としての人という存在が、家系の流れのなかで
あるように、社会は、その社会の歴史の流れのなかで
存在しているということです。
歴史を学ぶということは、社会の今を確認するということであり
自分のルーツを探るということは、自分の存在を確認すると
いうことであるというわけです。
 両親に感謝し、そのまた両親に感謝し、祖先に感謝する
それは、自分という存在が今あることへ感謝すると
いうことであるわけです。
老人を敬愛するというのは、まさに社会に対する今がある
ことに関する感謝でもあるといえるでしょう。
 いろんな問題があるかもしれません、
社会の問題も、家庭の問題も、個人の問題も、
その問題は、先人のせいだとか、親のせいだとか
言う人もいるでしょう、でも、それ以前に、まず存在している
そのことがなければ問題なと考えることもなく
感じることもないということなのです。
だから、どんなに問題があったとしても、存在すること
今あることへの感謝を忘れてはならないのだといえるでしょう。

 今、あることに、ありがとう。
 今、あることに、ありがとん。

そう、いえる心を持っていたいものだと思います。
posted by 清水の伏竜. at 10:05| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月19日

人は自分の問題を環境のせいにばかりしている。

『人は自分の問題を環境のせいにばかりしている。
 私は環境など信じない。
 世間で頭角を現わす人物は、
 自分の望む環境を自ら探し求める人物であり、
 もしそれが見つからない時は、自分で創り出す人物である。』
   バーナード・ショー

 何かできないとき、自分のやりたいことに
踏み出せないとき、人はその理由を自分ではなく
まわりに求める。
それは、ある意味、自己防衛本能といえるかも
しれません。だから、普通の人にとっては
別に気にすることでもないといえるでしょう。
 でも、確かに、頭角をあらわすひと、
成功する人は、問題を環境のせいにすることなく
解決の道を探し、前進していく人だと
いえるかもしれません。
できるようであれば、問題を環境のせいに
することなく、自分自身をしっかりと
みつめていくなかで、問題に取り組み
乗り越えていければよいとおもいます。
posted by 清水の伏竜. at 23:03| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月18日

人生のどんな状況にあっても、

『人生のどんな状況にあっても、
 自分自身と対話し、この対話によって
 どれだけ得るところがあるか
 自問することを忘れないことだ。』
   エピクテートス

 人生は、何のためにあるのか、
それは、自分自身のなかにある魂の成長のため
すなわち、自分という存在が、生きていく歩みこそ
人生の価値であり意味であるということ
どんな状況にあっても、
自分自身で最後は決めなければならない
自問自答は、まさに自分との対話であり、
それは、どのような状況においても
実行できる手段として存在している、
だからこそ、有効に活用することになるし
そこから得られることもあるというもの
 この世に生まれるのは、自問自答だけでは
人は成長できないから、自分ではないものと
ふれ合うことから、いろんな刺激や情報を得て
その経験の積み重ねの中で成長していける
自分でないものとは、まさに、自然であり
生物であり、霊であり、他人であると
いえるだろう。でも、その成長の過程で、
自分以外から得たものを、自分のなかで
昇華して咀嚼し自分自身のものとして
受け入れていくためには、自分自身が
納得していくことが必要となる、
だから、自問自答することになる
 どこにも頼れなくなったとき
自分の内なる他人、すなわち経験や知識、
想い出や記憶のなかに、他人を見出すことも
可能であるということ
それが、自問自答であるのかもしれない。
posted by 清水の伏竜. at 09:32| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月17日

辛抱すればこそ、成功が得られる。

『辛抱すればこそ、成功が得られる。
 長い間大声で扉をたたき続ければ、
 必ず誰かが目を覚まして開けてくれる。』
   ロングフェロー

 成功に至る道について語られた言葉は
数多くあります。この言葉もそんな言葉の
ひとつであるといえるでしょう。
辛抱して、続けていくこと、前進していくことが
重要であり、自らの主張、行動を、
多くの人に知ってもらうこと、訴えかけることも
大切であるということです。
なかなか反応がなくても、冷たく対応されても
自らの信念をもって、必ず出来ると信じて
続けていけば、いつか伝わり、
気付いてくれる人が出てくるということです。
それが、世の中にとって、間違っていないことで
あるならば、共感してもらえる人は
必ずいるはずだということです。
まだ、出会っていないだけであり、
まだ、出会う時期ではないだけであるということ
それを疑わずに、進んでいくことが
まさに、成功への道ということなのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 07:31| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月16日

物事をあるがままの姿で受け入れよ。

『物事をあるがままの姿で受け入れよ。
 起ったことを受け入れることが、
 不幸な結果を克服する第一歩である。』
   ウィリアム・ジェームズ

 あるがままに受け入れることのできる
深い度量をもった人は、なかなかいません。
人は、どうしても自分の基準で判断し、
あるがままではなく、自分のフィルタを通して
しか受け入れられないものであるからです。
そして、そのフィルタは、人によって
様々に異なっています。
 フィルタがない人は、なかなかいないと
いえるような気がします。
フィルタがないとは、物事について、
そのままを受け入れ、嫌いなところも
好きなところも、苦手なところも、
関係なく、受け入れられるということです。
かなり厳しい条件を満たさないと
受け入れられない人のフィルタは、
狭く厚いものであるといえるでしょう。
 何かを求めるとき、何かをなしたとき、
そこに与えられるものを、どのように感じとるのか
素直に受け入れるのか、拒絶してしまうのか、
その判断の結果次第で、
その後の状況が変わってしまうということです。
不幸な方向に流されていくのか、
それとも、良き方向に向かうことが出来るのか、
受け容れずらいものであっても、
それを受け容れたなら、それを克服することも
可能になっていくということです。
受け容れられないと、永遠に克服できないと
いうことになってしまうかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 21:13| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月15日

人間は思考する努力を省きたいために、

『人間は思考する努力を省きたいために、
 ありとあらゆる方便に頼ろうとする。』
   トーマス・エジソン

 発明は、まさに思考する努力の結果として
出てくるものということかもしれません。
その努力をしたくないからといって
方便にたよっても、結局は中身が薄っぺら
なもで、見透かされてしまうことでしょう
 思考することの大切さ、重要さを
しっかりと認識しておくことが
大切だといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 06:52| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月14日

何事かを試みて失敗する者と、

『何事かを試みて失敗する者と、
 何事も試みないで成功する者との間には、
 計り知れない相違がある。』
   ロイド・ジョーンズ

 成功するにしても、失敗するにしても
何かを実行してみて、その結果として
あることであり、
何かをまず、実行してみること
チャレンジしてみることが
重要であるということですね。
何もしないでいて、でも何故か成功した人が
いたとしても、何かを実行して失敗した人の
方が、ずっと大きなものを得ており、
そこにあるものの差は、結果とは異なり
ずっと大きなものがあるということです。
生きていくなかで、人生において、
何が本質であり、重要であるのかを
説いていることばであるといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 06:33| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月13日

青春はなにもかもが実験である

『青春はなにもかもが実験である。』
  R・スチーブンソン

 秋、青春とは何か、
体育祭や文化祭などの学校でのイベント、
修学旅行や合宿、友情を育みながら、
目的に向かって歩んでいくなかで、
感じられるもの、得られるもの、
それは、人それぞれであり、さまざまであり、
まさに、人生における実験なのかもしれません。
試してみる、目的や結果を予想してみても
その通りになるかどうかはわからない。
でもわからないけどやらなければ結果はみえない
だから、トライする。チャレンジする。
何も恐れず、疑うこともなく、まっすぐに、
それこそが、青春なのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 12:52| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月12日

もし、私が私に寄せられるすべての攻撃文を読むくらいなら、

『もし、私が私に寄せられるすべての攻撃文を読むくらいなら、
 まして返事を出すくらいなら、
 この事務所を閉鎖して、
 何かほかの仕事を始めたほうがましだ。
 私は私が知っている最良を、
 私がなしうる最善を実行している。
 それを最後までやり続ける決心だ。』
   エブラハム・リンカーン

 自分の行動に信念をもっているなら
外野の忠言に耳を傾けても、
暴言や中傷、恫喝などは無視していればよい
そんなことに気をつかったり、
気をとめておくような時間があるなら、
やるべきことに注力するべきであると
いうことです。
正しいことが嫌いな人もいたりします。
利己主義、自分勝手な人にとっては、
利他心で動く人や、その行動が困ることが
あるようです。きっと魂の叫びが嫉妬になって
しまっているからなのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 10:17| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月11日

秋風や白木の弓に弦はらん

『秋風や白木の弓に弦はらん』
  向井去来

 昨日は、去来忌ということであったようです。
芭蕉の門下で、蕉門十哲とよばれた人のひとり
『去来抄』の著者、向井去来の命日だったからだそうです。
西国三十三ヶ国の俳諧奉行といわれた人が、
俳句とは何なのか、その本質を語るものとして
俳句論がまとめられたものが去来抄だそうです。
俳句を志すひとは、きっと一読されているのでしょうね。
 ということで、向井去来の詠んだ句をひとつ
紹介してみました。
 秋の風景を叙情をこめて描いた句だと
おもいます。みなさんは、この句をよんで、
どんな画面を思い描くでしょうか。
posted by 清水の伏竜. at 11:07| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする