2010年06月30日

人間は、裸でこの世に生まれ出たので、

『人間は、裸でこの世に生まれ出たので、
 裸でこの世から去っていく。』
   イソップ

 人間は、あの世で、魂の成長のために、
もっとも適した環境とカルマの解消にマッチした
人生とを選択して、生まれる場所と時間、両親、
人種や国などを決められて、いつ戻ってくるのか、
この世で、どこまで成長するのかを、定めた神の
愛を受けて、生まれ出でてくる。
母親の胎内で育っている肉体と精神の殻に、
どのような人生を歩むのかを定めた運命に従って
産声と共に魂は宿り、その人生の逝くときまで
この世における霊性修行の歩みを始めることになる。
 そして、人によっては、あらかじめ定められた
だけの霊性修行を終えて、逝くことになるし、
人によっては、酷いカルマをつくってしまい
修行にならないと早く逝くことになってしまうこともあり
積極的に予定以上の霊性修行を行うことで、
もっと成長できるということで、予定以上にながく
この世に留まることになる人もいたりする。
どの場合においても、最後に逝くときには、
肉体と精神の殻を脱ぎ捨てて、生まれたときと同じ
魂だけとなって、この世から去っていく。
 それは、どんな人にとっても同様なことであり
避けられないことである。
そのことを理解して、より良き人生を
歩むのか、それとも、駄目な人生を歩むのかは
それぞれの個人の責任によってなされるものであり
誰のせいでもない。
 だから、人生は、貴重であり、また大変でもある。
神の願いは、唯、魂の成長だけであり、
成長できるような環境を与えたのであるから、
あとは、普通は、何も干渉することなどなく、
見守ることもない。それは、その必要がないからであり
子どもを信じて旅に送り出したからでもある。
しかし、子どもが、神を求め、呼び出し、
喜ばせるなら、神は答えてくれるだろう、
ただし、その正しい方法を知るものは少ない。
この世の宗教の殆どが、神に通じていないからで
あったりする。神の嫌うこと、神の悲しむことを
行っている宗教家に、神は振り返ることなどないのだから、
最低限の神の禁忌、酒と肉、これを飲食するものに
神が答えることなどありえないということ。
多くは、神ではなく、物の怪や精霊が答えているだけに
過ぎない。
 その真理に矛盾なく、信じるか否かは、
人それぞれに委ねられている。
信仰とは、集団で意味のあるものではなく、
1人の人間と神との間の関係性であるのだから。
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2010年06月29日

人の見のこしたものを見るようにせよ。

『人の見のこしたものを見るようにせよ。
 その中にいつも大事なものがあるはずだ。
 あせることはない。
 自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。』
  宮本常一

 注意深く、何事においても、真剣に、
そうしていると、他人が見落としているものが
見えてくるかもしれません。
そして、その見えてきたもののなかに、
自分にとって、大切なものが見出せるかもしれません。
 大切なもの、大事なものは、
いつも、見えているのに、それを見ようとしていない
見えていないだけであることが多いようです。
あせってしまって、見落としたり、
自分を卑下して、見間違えたり、
そんなことほど、もったいないことはないでしょう。
 自分の人生であるのだから、
自分の選んだ生き方であるのだから、
その道を、しっかりと、あせらずに
歩んでいくこと、そのなかで、大事なこと
大事なものを、見過ごさずに、
自分のものにしていけばよいということです。
 他人が、早く進んでいるからとか、
世の中が、こうだからとか、そんなことを気にしても
実は、あまり意味がなかったりします。
結局は、自分の人生は、自分自身だけのものであって
他人とは異なるものであるのですから、
そして、他人と同じ人生など、歩める人など
誰もいないのですから、
 この世界で、唯一無二の存在であるということを
忘れてはいけないということです。
そう、だれもが、この世で、たったひとつの
存在であって、同じ人は、まったくいないのだと
いうことなのです。
 世界中にたったひとつしかない、
そんな存在が、あなたなのです。
 人は、ひとりひとりが、この世において、
たったひとつの貴重な存在であるということを
しっかりと見つめることが、大切なのだといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 13:12| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月28日

自己満足しない人間の多くは、

『自己満足しない人間の多くは、
 永遠に前進し、永遠に希望をもつ。』
   魯迅

 自己満足してしまっては、
そこで、とまってしまい、希望も持てなく
なってしまうということです。
人は、逝くときまで、自己満足することなく
生きていくべきなのだということなのかも
しれません。
 自己満足して、そのあと何を糧に
生きていくのか、それは果たして幸福と
いえるのか、そんな問いかけでもあると
いえるのではないでしょうか。
人生は、生まれたときから逝くときまで、
修行であり、学びであるということです。
そこに真の意味でのゴールはなく、
常に希望と夢をもち、追いかけ続けるもので
あるということなのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 12:27| 静岡 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月27日

他人の生きた経験をそのまま拠り所とするわけにはいかぬ。

『他人の生きた経験をそのまま拠り所とするわけにはいかぬ。
 先ず自分自らがほんとうに社会を生きて見なければならぬ。』
    島木健作

 他人に経験から学ぶことは確かにある
しかし、それは結局は他人のものであって、
自分のものではないということ、
自分の生きた人生、自分が行っていくことしか
自分のありどころににはならない
つまり、世の中にあふれている、
成功者に学ぶセミナーとか。ノウハウとかは
結局は、他人の生きた経験できかなく
それを自分のものにできることなど
殆どないということなのです。
同じことができる人など、ほぼ皆無であって、
実は、そんな学びの投資は、さほど役には
たたないということであるわけです。
そして、多くの人は、学んだあとになって
そのことに気づくわけです。
でも、自ら痛い目になって、学ばなければ
信じることもできないし、
過ちに気づくこともできないと
いうことでしょう。
その意味では、無駄なことは、何もないと
いうこともできます。
そう、役に立つことも殆どないけれど
無駄になることは何もないということ
ですね。
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2010年06月26日

くわばら、くわばら

「桑原、桑原」

 6月26日は、930年に、平安京で、
清涼殿に落雷があって、運悪く居合わせた
大納言の藤原清貴が亡くなったそうです。
この落雷は、太宰府へ政略によって
左遷された菅原道真の祟りだといわれたそうです。
落雷が、道真の屋敷があった桑原の地には
落雷しなかったことから、
落雷よけに、唱えられるようになったそうです。
それで、雷記念日だそうですね。
 世の中にある言葉、おまじないや合い言葉の
ようなものには、いろんな裏話があったりして
面白いものであったりします。
言葉は、その言葉自体には、力も意味も
無いけれども、その言葉と関連づけられた
背後にあるものに、力や意味があったりすると
いうことです。
 言霊というのは、その言葉に霊が宿っている
わけではなく、その言葉の背後に霊との関係性が
隠されているということでもあったりします。
本質を見抜くには、表面だけを知っていても
ダメだということであったりするわけです。
posted by 清水の伏竜. at 22:46| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

他人もまた同じ悲しみに悩んでいると思えば、

『他人もまた同じ悲しみに悩んでいると思えば、
 心の傷は癒されなくとも、気は楽になる。』
   シェークスピア

 他人の不幸をみて安心する人の業ともいえる
ものだといえるでしょう。
日本のメディアも、視聴率を稼ぐために、
他人の不幸を数多く、放送しています。
それは、観る人がいるからに他なりません。
メディアのレベルは、それを視聴する視聴者の
レベルであるということであるわけです。
視聴者がもっと賢くなって、メディアの馬鹿な
目論見通りに動かなくなれば、
メディアも変わらざる得なくなるとも
いえるでしょう。
 心の傷が癒されなくても、気が楽になる
しかも他人の不幸や悩みをみて、そう思ってしまう
それは実に卑しく情け無く哀れなことだと
いえるでしょう。
そんな人間の愚かなる業を乗り越えることこそ
人の成長に求められていることだと
いえるでしょう。
 他人が、同じ悲しみに悩んでいないことを
嬉しく思えるような強い心をもてるように
学び成長していくことが大切であるということ
ですね。
posted by 清水の伏竜. at 19:10| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月25日

ほほえみ、ふれあいを忘れた人がいます。

『ほほえみ、ふれあいを忘れた人がいます。
 これはとても大きな貧困です。』
  マザー・テレサ

 何がもっとも大切なのか、
そのことを教えてくれる言葉のひとつです。
貧困といったとき、もっとも酷いのは
物質的な貧困ではなく、
心や絆の貧困であるということです。
どんな環境にあっても、どんな状況にあっても
ほほえみを忘れずにいられるなら、
人とのふれあいを大切にしていけるなら
それは、本当の意味では、貧困ではないと
いうことなのかもしれません。
逆に、どんなにお金をもっていても
どんなに贅沢な暮らしをしていても
ほほえみを忘れていたり、
ふれあいを忘れているようなら、
その人は、貧困なのだということです。
 政治がすべきことは、
実は、そんな貧困をなくすことであって、
不幸を減らすことではないということ
なのではないかと思います。
 現場のことをもっとよく知ることが
議員にも公務員にも必要なのだと
いうことでしょう。
現場をしらない公務員は、リストラして、
現場を知る苦労を経験させるべきなのだとも
いえるかもしれません。
そして、現場を知っている人を
どんどん中途採用できるような公務員制度に
改革していくべきでしょう。
なぜなか公務員は、税金という国民からの
お金で生活をする立場の人間であるからです。
国民という顧客に、最大の効率で最高のサービスを
提供できる人材は、現場を知らずしては
育たないということでしょう。
また、税金を無駄に消費しないためにも
必要なとき必要な人が必要なことを提供し
実施できるような仕組みであることの方が
効率的であるように感じます。
posted by 清水の伏竜. at 18:34| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「ありがとう」言う方は何気なくても

『「ありがとう」言う方は何気なくても
 言われた方はうれしい。
 「ありがとう」これをもっと素直に言い合おう。』
   松下 幸之助

 感謝することは、とても大切なことであり、
心を暖かくすることのできることである。
感謝の言葉だけを覚えておけば、
きっと、暖かい交流ができるかもしれない。
 サンキュー、メルシー、ダンケシェン、
グラッチェ、グラッシャス、ありがとう、・・・
 感謝のことばは、何気なくいわれても
いわれたら、気持ちが悪くなるものではない。
ちょっとしたことについても、感謝の気持ちを
もっていられる心でありたいもの。
 そして、感謝の言葉は、ときに人を勇気付け
ときに人を元気付けることもある。

 「ありがとう」がちょっとはずかしくって
 「ありがトン」と言ってみる。
 そんな優しい気持ちで、
生きていることが素敵なこと、
ただいるだけで、価値のあること、
だから、どんな小さな命にも、
感謝の気持ちで、ありがとう。
 ありがトン。


(^0_0^)(^0_0^)(^0_0^)

★ありがトンカウンセリングルーム★
(6月24日オープン)
☆JR山手線日暮里駅南口徒歩4分☆
(JRか京成の南口の階段を降り、
 ガストの角を右に曲がり、
 3分ほど歩いた最初のファミリーマートが
 あるマンションの2階です)

(^0_0^)(^0_0^)(^0_0^)

2010年7月1日(木)
島根県雲南市にて、市職員向けセミナー 

2010年7月2日(金)
鳥取県倉吉市、男女共同参画センター無料
「ありがトンのさわとんがやってくる!」
〜「うつ病蔓延社会」から「うつ病円満社会」に・・・〜
http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?itemid=460748#itemid460748

2010年7月3日(土)
島根県松江市「ありがトンは魔法のことば」
http://www.arigaton.com/activity/lecture/shimane100703

2010年7月4日(日)
鳥取県日南町にて、座談会

2010年7月5日(月)
岡山県岡山市にて、講演

(^0_0^)(^0_0^)(^0_0^)

毎日 ほんわか、あったか、なごやか
『さわとんの、今日の「ありがトン」』
【PC】http://archive.mag2.com/M0088094/index.html
【携帯】http://mobile.mag2.com/mm/M0088094.html

(^0_0^)(^0_0^)(^0_0^)
posted by 清水の伏竜. at 12:58| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月24日

命長ければ辱多し。

『命長ければ辱多し。』
  兼好法師

 長生きしても良いことはない。
そんな印象を受ける言葉です。
長く生きれば生きるほど
辱を受けることが多くなるというわけです。
しかし、これは、同時に、
より多くの経験を積めるということでも
あったりします。
 成長には壁が必要であり、
困難が必要であるとしたら、
辱もまた、成長の糧であるといえるでしょう。
 人生は、成長のためにあるもの
であるなら、成長の糧は、よい多くあった方が
よいともいえるのではないでしょうか。
 生まれた瞬間から、逝くときに向かって
歩みだしている人生のなかで、
与えられた環境のなか、時間と空間のなかで
精一杯に生きていくということが、
この世における成長であり、
人生の意味であるともいえるでしょう。
 もちろん、生き方は、ひとそれぞれに
違っています、それは生きてきた場所や
血脈や役割などが違っている以上は、
当然のことであるわけです。
 逝ったあとで、よく生きれた人生で
あったと感じることが出来るような
歩みをしていくように、
努力していきたいものだと思います。
posted by 清水の伏竜. at 20:10| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月23日

なんでも変わらないものはないものだ。

『なんでも変わらないものはないものだ。
 ふるいものは倒れて新しいものが起きるのだ。
 今威張っているものがなんだ。
 すぐにそれは墓場の中へ葬られてしまうものじゃないか。』
   大杉 栄

 変化というものがあることを、
人は忘れてしまうこともあったりします。
また、今、最高だということで、もてはやされて
いたとしても、いずれは廃れてしまうかもしれません。
常に新しいものがおきて行くものだということ、
そして、それもまた、墓場へと葬られていく
それは、社会が新陳代謝しているからだと
いうことでしょう。
 しかし、一見変わっていないようにみえて
実は変わっているものもあります。
そして、そんな変化をしているからこそ
老舗という存在が、何百年もの長い期間、
存在し続けることが出来るのだといえるでしょう。
まさに、ビジネスにおける守破離であると
いえるかもしれません。
 伝統を守ることは、古いままでいることではない
その時代の流れのなかに適応するための
変化を伴って伝えられていっているのだと
いうことでしょう。
 倒れた木のあとに、新芽が出て、
新しい木となっていくように、
継承され伝承されていくものは、古きものでもあり
新しきものでもあるということですね。
posted by 清水の伏竜. at 20:07| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月22日

戦わない軍隊を持つことを誇りに出来る国民でありたい

『戦わない軍隊を持つことを誇りに出来る国民でありたい』

 久々に、アニメノチカラ第一弾として放送された
ソラノヲトの最終話を、みていたら
http://www.sorawoto.com/
なんとなく。こんな言葉が浮かんできた。

 戦う経験のない軍人、
そして、戦うことを止めるために、
戦場に向かう乙女たち、
その彼女たちを信じている町の人々、
戦うことをしなくて済むことになったとき
それを喜ぶ、兵士たち、
平和であることの尊さと、
平和であるための努力と、
それがとても貴重なことだと
感じさせてくれる・・・・
posted by 清水の伏竜. at 04:52| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月21日

成長には必ず抵抗が伴うものです。

『成長には必ず抵抗が伴うものです。
成長には必ず対抗勢力が現れるものです。
反対に、何の疑われることもなく、
何の迫害もなければ、
成長の理由そのものが存在しなくなってしまいます』
   デューイ

 成長には、何かの困難や苦労が必要であるということ
つまり、何の課題もなく、苦労もなく、困難もなく、
抵抗もなく、迫害もなく、反対もなく、疑われもしない
そんな状況では、何の成長もありえないということです。
 これは、人生において、成長するためには、
苦労があったほうがよいということを語っていると
いえるでしょう。
そして、実際に大きな成功をなした人ほど、
大きな苦労を経験しているものです。
 実は、シュタイナーなどの最近よく言われる
子どもの適正にあった教育という発想は、この言葉の反対の
ことをしているものだともいえたりします。
つまり、子どもが苦労しない道を歩ませてあげようという
試みであるという見方が出来るということなのです。
 親は、子どもを成長させてあげることが
重要であるとしたなら、子どもの好きにさせるのではなく
子どもがしたくないことをさせて苦労や困難を乗り越える
ことを学ばせることの方が重要であったりするということです。
子どものいいなりになる親は、親の責任を投げ出して
自分が楽をしたいと思っている駄目な親だということです。
子どもから嫌がられながらも尊敬される親になることが
子どもにとって最高の親であるといえるでしょう。
成長させてあげるための環境を子どもに与えるのは
親として非常に大変なことです。
子どもの苦労を共に感じていくことになるからです。
しかし、苦労や困難を経験することで、
子どもは、よき大人へと成長していくことが出来ると
いえるかもしれません。
よく親の希望を子どもに託すのは問題だみたいなことを
言う人がいますが、それは実は、間違いであり、
親は、子どもに自分の希望を託して構わないのだと
いえるかもしれません。親の希望程、大きな困難は
ないといえるからです。それを乗り越えることが出来れば
子どもは、大きく成長していけるともいえるでしょう。
家業を継がせるため、親の夢を実現してもらうため、
子どもを訓練することは、実は教育のあり方のひとつとして
正しい姿であるといえるということです。
もし、子どもの教育にあたり、自分の家業を継がせるためや
自分の夢を継がせるために、子どもに訓練を行いたいと
思う親がいたなら、それは自信と誇りをもって
実施すべきであるといえるでしょう。
子どもには、狭い世界しかなく、考える力もありません。
自分で是非を判断したり、自分で希望することを考える
ことも出来るはずはないのです。
なぜなら、判断や思考は、経験の積み重ねの結果として
育っていくものであるからです。
子どもの自由に任せるということは、子どもに楽をさせて
困難を乗り越える力を削ぐことになるともいえるということです。
創意工夫をする力を育てるだけでは、駄目であり
創意工夫の出来る環境を自ら作りだすだめに、
出来ない環境において耐えることや、我慢することを
学ぶことが必要であるということであり、
苦労や障壁を乗り越える力を身につけることが必要であると
いうことなのです。
そのためには、大人が命令したことをひたすらに我慢して
実行するという学びも必要であるということを
忘れてはならないといえるでしょう。
泣きながら親の言うことを実行する経験が、
子どもには必要であるということです。
総合的に考えてみたとき、子どもに親が、
ひとつの方向性を与えて、学ばせることは、
決して間違いではなく、ひとつの教育のあり方として
あっても良いものだといえるでしょう。
もちろん、その教育の結果、子どもが成長して、
違う道を選択したとしても、それについて親は文句を
言うべきではないことは忘れてはいけないことであると
いえるかもしれません。
 子どもにとっての最初の障壁であり対抗勢力は
親なのだということを忘れるべきではないでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 13:18| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月20日

やりたいことが何かではなく

『やりたいことが何かではなく、
やるべきことは何かである』

人は、この世で、やるべきことがあって
生まれてくる。
生まれてきた場所や両親は、
やるべきことが、やれるように選んできたもの。
決して偶然ではなく、自分が選ばなかったものではない、
自らの魂の成長のために、必要な環境を選び出し、
神の祝福と采配によって、決めたものである。
しかし、生まれた瞬間に、そのことを忘れてしまい
新たな人生を歩むなかて、この人生でやるべきことではなく
目先の欲望に負けて、
やりたいことを、やろうとしてしまう。
しかし、それは本来やるべきことではないために
魂は反発し悲しむことになる
そのために違和感を覚え、腑に落ちない感じとなる
当然、うまくいくこともなく満たされることもない
悩み迷ったなら、
何をやりたいのかではなく
何をやるべきなのかについて
生まれた環境から遡って
考えてみるべきであり、
理性や感情などの心の欲求ではなく
その奥底からの魂の欲求に耳を傾けるべきである
魂の欲求こそが、
この世にて、この人生で、
為すべきことであるといえるのだから・・・
posted by 清水の伏竜. at 02:22| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月19日

言葉の持つ力

言葉の持つ力について、
考えてみると
いろんなことが思い浮かんできます。
会話や文章の技法も、
NLPとか、コピーライティングとか、
経験則や統計情報解析などから築かれたものなど
いろんなものがあります。
その効果も、言語や人によって様々であり、
統計的、確率的なものに過ぎないものです。
もちろん、誰にでも効果のある言葉もあります。
でも、結局は、人と人との関係の中で
言葉の持つ力も効果も変わるのだと
言える気がします。
語る人があってこその言葉、
その人を知らなくても、その人を想像して
人は感じ取るものがあると
いうことですね。

もちろん、言葉には、人と神、人と精霊の間の
契約に係わるものもあるようです。
不思議な力を持つ言葉、
扱いには注意が必要のようです。

言葉の力、言葉の魅力、
これからも、いろいろと考え学んでいくこと
だと思っています。
posted by 清水の伏竜. at 10:36| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月18日

太陽は宇宙の中心であって不動であり、

『太陽は宇宙の中心であって不動であり、
 太陽の運動と見えるものは
 すべて実は地球の運動である。』
   コペルニクス

 天動説が信じられていた時代があるわけです。
そして、観測と研究の末に、
天動説が誤りであり、地動説が正しいということが
示されるようになりました。
それは、そのことを伝える言葉のひとつです。
 しかし、この変化の流れは、いっきに行われた
わけではありません。
天動説と地動説が、争っていた時代があったわけです。
そして、天動説の方が正しいとする勢力の方が
力をもっていたときもあったということです。
 今、地動説が正しいことが当たり前とされている
時代であるわけですが、
実は、この天動説と地動説と同じような争いが、
他にも起こっているのかもしれません。
 それは、これまで信じていたものを否定されることを
拒む勢力と、新しいものを受け入れていくべきだと
考える勢力の対立であるともいえるでしょう。
 現代科学万能主義や、現代経済学万能主義に
陥っている科学者や経済学者は、まさに天動説を
信じて疑わずに地動説を弾圧したものたちと同じことを
しているのかもしれません。
でも、その是非について、渦中にいるときには
気がつかない人の方が多かったりするのです。
そうならないために、やはり柔軟な発想や、
多様な視点、視野で、ものごとを考えることが出来る
発想力や想像力を、もっていることが
大切なのではないでしょうか。

 「非科学的だ」=「未来の科学的だ」

であるかもしれないということです。
posted by 清水の伏竜. at 13:42| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月17日

色受想行識−五蘊

『色受想行識−五蘊』

 仏教における人とは何かと説く教えを表すものとされて
いるものです。

 五蘊(paJca-skandha パンチャスカンダ)とは

 色蘊 人体、物質。
 受蘊(vedanaa) - 感受作用
 想蘊(saMjJaa) - 表象作用
 行蘊(saMskaara)- 意志作用
 識蘊(vijJaana) - 認識作用

という人の肉体と心のありようが、融合したものが
人という存在を構成しているのだという、
それが人の本質であるとしたなら、
人を育てるときに、マネジメントとして、何を注意すればよいのか
どのように心がけるとよいのか、
最近、リバイバルヒット中のドラッガーを引用したりして
解説しているコラム記事が、

人材育成コラム“人財”育成のツボ
ITスキル研究フォーラム 人財育成コンサルタント,
PSマネジメントコンサルティング 代表 安藤良治氏
(連載 第13回)「想う心」が大切な時代
http://www.isrf.jp/home/column/ando/13_20100615.asp

であったりします。
5つのなかの、精神の状況を示す4つの要素の部分について
このコラムでは、以下のように説明しています。

 受:受けとめる心
   「あるがままを受けとめる」「現状を知る」
 想:想う心
   「この状態(現状)をどうしたら良いかと想う」
   「あるべき姿(目標)を描く」
 行:行う心
   「今の状態からあるべき姿に向かって行う」
   「目標に向かって実行する」
 識:認識する心
   「どこまでできただろうかと振り返る」
   「目標の達成状況を確認する」

なかなか、面白い解釈のしかたであり、
育成におけるポイントにうまく繋げています。
実際には少し違うかもしれませんが、
言葉は、人にどう伝えたいことをうまく
表現できるのかということでもありますから、
なかなか良いつなげ方であると感じました。
さて、4つの精神要素とは、

 受:外界からの知識や知恵を受け取り感じるもの
   五感からの刺激を受け取る部分ともいえる。
 想:心の中かわ湧き上がってくるもの欲であり
   イメージであり、それが表に出てくる。
 行:意識を生み出す意思の力であり、
   信念に通じるものだといえる。
 識:他の精神状態を把握し捉えそれを一つのものと
   して認識するもの。

人を構成するものとして、心と身体をあげていて
身体の部分を色として表現し、色は物質であり、
この世における物理的な存在であるということ、
そして、精神の部分を4つの要素にて表現している
まず、外界からの情報を受け取り取り込む受の部分、
心の中で描き、湧き出てくる想の部分、
受と想から、自分の考えとしての意思を生み出す
行の部分、そして、受、想、行から出るものを
ひとつに捉え、纏め上げ、認識する識の部分で
人の精神は成り立っているというわけです。
想は、感情や欲望の発露とも捉えることが出来るでしょうし
受は、情報をどう捉えるのか、取り込むのかと
いったことを示すものだといえるでしょう。
行は、意思の力であり、信念を構成するものですね。
そして、全体をまとめる機能として、識があり、
精神としての調和を持つようになっていると
いうわけです。

 したがって、心が病む、精神が病むというとき
苦労する苦が訪れるという場面についても、
肉体的なものとしての色への影響と、
精神的な4つの影響があると説明することが出来ます。
苦をつければ、まさにこの世の苦業ともいえる
ものとなるわけです。

 受:ストレス、嫌悪感、虐め、対人や対物から
   受ける苦痛を感じ取る、幻聴幻影幻嗅幻覚。
 想:欲求不満、心のなかから湧き上がる欲望が
   満たされない、飢えた状態からくる苦痛。
 行:何もやる気がおきない、やっても駄目だと
   思う、暴れたくなる、何か外に向かって
   吐き出したくなる。
 識:心がバラバラな状態、バランスが取れない、
   まとまりがつかない、不安定になる、
   自分が認識できない。

五蘊を整え調和させていくことで、
無我の境地に達することが出来るというわけです。
そうすれば、思い悩むこともなく、
悟りへとたどりつけるということだともいえるでしょう。

 仏教における教えは、釈尊の教えから来ていると
言われるわけですが、釈尊は何も残していません。
その弟子たちが、残した記録があるだけです。
しかも、当時の時代背景からいって、インドで残されたもの
ですから、漢字ではないわけです。
お経は、言葉の音を、当て字で表したものでしかないとも
言われます。つまり、文字の意味をおいかけても
そこには真理は見えてこないというわけです。
本来の音を聞きわけて、釈尊の話していた言語での
意味を知らなければ、何も得られないというわけです。
おそらく意味を翻訳して、記述した経典もあるでしょうが、
そのあたりははっきりしないのが現実であるようです。
後付解釈や、後世の僧侶たちが、自分たちの思想で、
解釈を追加していったものだとも言えるでしょう。
釈尊が学んだであろうものを、学ぶ方が、
真理に近づく早道であるかもしれません。
それは、インドの教えの源泉である
ヴェーダの叡智に学ぶということになるのでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 19:53| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

借りものの概念と、教育で植え付けられた偏見をもとにして、

『借りものの概念と、教育で植え付けられた偏見をもとにして、
 ありきたりの筋道に合った話をする大人の議論よりも、
 子どもたちの予期しない質問から
 教えられるところが多いと思われます。』
   ロック

 大人の議論には、どうしても、その人ごとに
学んできたこと、経験してきたことを中心にして
考える範囲でのみ、展開されてしまうことが多い。
自分が正しいと信じて疑わず、相手の言葉を
聞こうともしない人もいるし、
自分の意見と対立する意見については、
その存在すら認めたがらない人もいる。
硬直した議論、平行線の議論、そんなもので
終わってしまうことも多かったりする。
 子どもは、素直な心で、直感的に、感じたことを
言葉にする。そこから出てくる疑問や質問には、
まさに、邪念のない真理をつくものがあったりする。
 大人が裸の王様にならないように、
子どもの言葉にも素直に耳を傾けることができる
心の余裕をもっていたいものだといえるでしょう。
子どもの言葉を邪険に扱う大人は、おそらく、
人のいうことを本当の意味で聞くことのできない
大人なのだといえるでしょう。
そんな大人にはなりたくないものです。
posted by 清水の伏竜. at 12:33| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月16日

一日一日を、たっぷりと生きて行くより他は無い。

『一日一日を、たっぷりと生きて行くより他は無い。
 明日のことを思い煩うな。
 明日は明日みずから思い煩わん。
 今日一日を、よろこび、努め、
 人には優しくして暮したい。』
   太宰 治

 今日を生きることが大切だということ。
明日のころを、思い悩んでも、
明日は、明日になってみなければ、
どうなるのかわからないものだということ。
だから、今を、精一杯に生きること、
そして、生きることは、喜び、努め、
優しくすることで、より心地よくなると
いうこと。そんな感じの言葉です。
 時とは何か、生きているとは何か、
この一瞬のみが、現実であり、
ほんの少し前は、すでに取り戻せない過去であり
ほんの少し後は、まだ来ない未来であるという、
長い、過去と未来の狭間にある瞬間、
刹那の時間が、現在であり、その現在を
積み重ねて生きているということですね。
 この世の理を、理解するということは、
この世の存在と価値とを理解することに
通じるかもしれません。
人は、なぜ存在しているのか、
地球は、なぜ存在しているのか、
その問いへの答えとして、
何を信じるのか、
 個人的には、神の叡智、精霊の叡智、
そして、人の歴史から学び、そこにある真理の
扉のなかにあるものを信じていると
いったところでしょうか。
その信じるものが、正しいか否かは、
逝くときになれば自明なものとして
確認できることでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 19:14| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月15日

守・破・離 〜 何をおもうのか・・・

「守・破・離」

 芸事の道で、一人前になって、独立できるまでの
歩むべき道を示す言葉として、日本で言われてきている
ものです。
 まず、守から入るということです。
これは、伝統、基本を学び、それを守っていくということ
教えを受け、その通りに実行し、それが確実に出来るように
なるまで、修行することです。
 伝統芸能の世界では、この守の段階をこえるだけでも
何年もかかるものであったりします。
師匠と同じように出来るようになるまで、
それを訓練していくことが求められるということです。
それが出来るようになって、初めて、伝統や基本ではない
ものに、取り組むことが出来るということです。
 違う芸事を学んだり、基本から外れた試みをしたり
破というのは、殻を破るということです。
基本以外の試み、自分が学び守りしてきたものではない
別なものからの試みなど、それによって、
新しい芸を、築いていくということになります。
そのような道を歩んだ先に、離、ようやく独り立ち
していけるようになり、新しい芸の道を歩み出すことが
出来るということになるわけです。
 いきなり、破や、離の段階にたどり着けはしないと
いうことでもあります。
まさに、温故知新・温故創新ということですね。
このようにして、日本の伝統芸能は、伝統を守りながらも
新しいものを取り入れて、発展してきたのだと
いうことなのです。

 最近、昔、学生時代に学んだカントの話にふれる
ことがあって、当時、一緒に学んだヘーゲルのことを
思い出したりしました。ヘーゲルの弁証法のことを
思い出したとき、この守・破・離に、似たものを
感じたといったところでしょうか。
 正−反−合 という段階を経て、
物事は発展していくという考えかたが、
ヘーゲルの弁証法の基本ですが、
まさしく、正=守、反=破、合=離、として、
考えてみると、芸の発展というものが、弁証法的に
マッチして説明できるなと、感じたのでした。
 この世の中の、発展は、基本的には、
似たような流れをもっていて、それを感じ取り
その流れに従って、歩むなかで、何かを得ていく
そんなこともあるのかなとおもいます。
そのこの世のなかの基本となっているものが、
真理というものであり、その根本は、神の叡智から
流れ出しているものだということで
あったりするわけです。
 この世の根本への飽くなき追及心は、
人の存在している意味と不可分なものであったりも
します。先人の知恵のなかや、教えのなかには、
そんな本質の扉を開かせてくれるヒントが、
数多く、散りばめられているといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 13:45| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月14日

水を流そうと思うなら、流そうと思う方を、

『水を流そうと思うなら、流そうと思う方を、
 水の在る場所より低く掘らねばならぬ。
「流れよ!」と云っただけでは、水は流れはしない。』
  山本 周五郎

 水を流そうと思うなら、水を流したい方向を
低くしなければ流れない。流れよといっても、
水は言うことを聞くわけは無い。
 これは、世の中に対して、何か変化をさせないとか
自分が、こうなりたい、こうしたいとか、
思ったときに、ただ、こうなればよいと発言したり
主張したりするだけでは、何も変わるわけではないと
いうことを伝えてくれている言葉です。
 流すためには、流れるようにしなければダメだと
いうことです。
それは、変化させたいと思うのなら、変化するように
しなければダメだということです。
 水をある方向に流したいのであれば、
その流したい方向を低く掘ればよいというように
変えたいもの、動かしたいものが、どんな特質や
特徴、本質をもっていて、どの様にすれば、
変化したり移動したりするのかを、きちんと把握した上で
その対象が、変化できるように、移動できるように
環境を整えてあげればよいということです。
ただ、変われといっても、変わるわけはないと
いうことです。
 これは、教育においてもいえることでしょう。
また、政治においてもいえることでしょう。
何かのプロジェクトを成し遂げるときにも
いえることでしょう。
 まず、現状を知り、現場を知り、
そして、それが変わるために必要なものを見出し、
整えていく、そうすれば、自然に、変化していくと
いうことです。
 もちろん、人を動かすときは、水とは違って
言葉が響けば、動くことでしょう。
相手を動かすような言葉を紡ぐためには、
言葉を伝える人が、信じさせることのできる
ものをもっていることが必要になります。
それは行動で示すものであることが多いでしょう。
 水を流すためには、そのための行動を
起こすことが必要であるということですね。
posted by 清水の伏竜. at 12:42| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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