2009年04月30日

人間はただ眼前の習慣に迷わされて、

『人間はただ眼前の習慣に迷わされて、
 根本の原理を忘れるものだから気をつけないと駄目だ。』
   夏目漱石

 習慣になった生活や行動を、
人はしてしまうものです。
その習慣をかえるのは、なかなか難しかったりもします。
よく、あなたの性格を簡単に変えられるとか
習慣を簡単に変えられるといった話があります。
その内容は、ほとんどが心理学からきているもので
自己暗示的な繰り返しによる心の変化の誘導です。
これは、簡単に出来る人と、なかなか出来ない人が
いたりします。
ちょうど、催眠術にかかりやすい人と
かかりにくい人がいるのと同じようなものです。
心理学的な手法は、統計による臨床データの分析と
西洋医学における脳科学の研究結果をベースに
したものです。
いってみれば、ベストプラクティスですね。
世の中にある成功ノウハウは、ほぼ全てが
ベストプラクティスを、いろんな形であつかったものです。
ただ、そうは言っていないだけであったり、
そうはおもっていないだけであったりするだけです。
ゆえに、既に知っていたりするものもあったりします。
これらは、いってみれば、良い結果を生みだした習慣を
なぞっているだけともいえるでしょう。
では、その習慣が、なぜ良いのでしょうか。
なぜ、いろんな成功ノウハウが有効なのでしょうか、
そして、どうして、そうすることが必要なのでしょう。
物事の根本の原理についてまで、
考えることはあまりないのではないでしょうか。
もちろん、根本の原理を知らなくても生きていくのに
問題ないかもしれません。
成功ノウハウの裏にある原理を知らなくても
ノウハウは使えます。
でも、何か応用するときに、誤った方向に
進まないようにするためには、根本の原理について
知っておかないと危険であるともいえるでしょう。
世の中にある成功ノウハウは、手段です。
ヒットラーのように使うこともできるのです。
間違った方向に利用すれば、人を傷つけることも
できるでしょう。
多くの人に有効なノウハウほど、危険なことも
あったりするものです。
すべて、この世のことは、最終的な根本となる
ものがあったりします。
多くの人が、それを知ることなく生きていくでしょう。
でも、知ることができるなら、知った方が
よいともいえるでしょう。
世の中の成功ノウハウは、原理というものを語っているように
みえるものも多いですが、実はそこまで至っていない
ものが、殆どであったりします。
三層構造の二層までしか言及できていないのですが
しかし、この世においてはそれで充分であるとも
いえることは確かです。
ただし、悠久なる魂の成長の旅のなかでは、
真の根本となる原理を知ることが必要になる時が
訪れることでしょう。
神の叡智として
悠久の時間にわたり口伝されている原理を。
posted by 清水の伏竜. at 14:47| 静岡 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月29日

明確な目標を定めたあとは、執念だ。

『明確な目標を定めたあとは、執念だ。
 ひらめきも執念から生まれる。』
   安藤百福

 執念というと、なんとなく、
引いてしまう人もいるかもしれません。
執念深いという言葉は、あまり良いイメージでは
受け取られていないのではないでしょうか。
しかし、何か成功している人は、
みなさん、強い執念をもっておられます。
目標に対して、どんなことをしても成し遂げるという
強い気持ちは、まさに執念といえるでしょう。
それが無ければ、やはり途中で挫折してしまう
可能性が高くなっていくことは間違いないとおもいます。
といっても、なかなか執念といえるほど
気持ちを高めるのは大変であったりします。
そのために、自己暗示を含めた、いろんな手法を
利用していたりします。
 コーチングやカウンセリング、メンターなども
そんな手法のひとつであるといえるでしょう。
いかに自分にあった効果的な手法をみつけて
活用できるのかは、成功するか否かを分ける
大きな要因になっているといえます。
その意味からも、いろんな手法を試してみるというのは
とても有効なことであるといえるでしょう。
 ぜったに出来ると確信し、その信念を執念として
突き進むことが出来れば、どんなことでも達成できる
可能性が出てきます。
 もちろん、どんなに強い執念をもっていても
目標に到達できないこともあります。
しかし、その過程で得られるものは、
人生にとって大きな意味を持つことでしょう。
 執念といえるほどの信念と目標を持てたら
本当に幸せなことであるといえます。
多くの人が、それを持てずに苦労しているのが
社会の現実であったりします。
そして、それを持てない人は、何故持てないのかも
わからないものです。
そこから脱するためには、やはり、学びと出会いしか
ないのだとうろ思います。
だから、多くの学びと、多くの出会いを
求めていくことが、大切なことだといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 03:18| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月28日

時間はあなたの人生の貨幣である。

『時間はあなたの人生の貨幣である。
 あなたが所有する唯一の貨幣であり、
 それをどう使うかを決められるのはあなただけだ。』
   サンドバーグ

 時は金なり、ということを、
多くのひとが語っている言葉のひとつです。
時間は止められないものとして、
常に流れ続けています。
人生の貨幣は、常に減っているということです。
使い方は、まさに人生の生き方そのものと
なるわけです。
とうぜん、自分の人生であり、生き方ですから
自分自身で、決めてきたことになります。
人生の貨幣は、生まれたときに
持ってきたものしかありません。
ゆえに、使い方は、人生の価値、豊かさ、
充足感、そのものに通じるということに
なるでしょう。
人生の貨幣は、増えません。
再発行もされません。
だからこそ、大切に使っていくことに
大きな意味があるのだといえるでしょう。
 どうせ使っていくなら、
より良く、充実したものを感じられるように
使っていきたいものです。
posted by 清水の伏竜. at 08:01| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月27日

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり

『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』
  武田信玄

 甲斐の名将は、民と共にあったということを
よく表す言葉です。
現在の日本社会において、就労に関わる問題が
多く取り上げられるなか、
この言葉の意味を、もっといろんな人が考えてみることが
求められているといえるのかもしれません。
 家庭も、地域も、国も、社会も、企業も、組織も、
結局は、人によって成り立っているのです。
人がいなければ成り立たないものであるのです。
それなのに、人をないがしろにするという愚行を
行うリーダがいます。
多くの場合、目先のリスクを排除するためであったり
保身の為であったり、組織の為であったりするわけですが
人なくして、何の組織なのでしょうか、
そのことについて、もっと言及してもよいということを
日本の過去の偉人は、教えてくれています。
 内定取り消し、派遣切り、育休切り、出産切り、
介護切り、リストラと、人を切り捨てることで、
仇を生み、憎しみを生み、不幸を産み出しているわけです。
その負の遺産は、いずれ跳ね返ってくることになるでしょう。
でも、そのときには自分は、関係なくなっているから
構わないと思っているリーダも多いようですし、
実際にそうなってもいたりするようです。
 社会の安心は、信頼によって成り立ちます。
信頼とは、人と人との絆に他なりません。
それを、強くするのも、切ってしまうのも、
責任ある立場の人間の判断ひとつであるということでしょう。
人の上に立つことの責任と義務を、
もういちど見直すべき時代なのかもしれません。
 民に信頼されたリーダたちに学ぶことも
必要なのだといえるでしょう。
小さな仲間のなかでも、家庭のなかでも、
地域のなかでも、人が集まれば、それぞれの立場が
うまれてきます、そしてお互いの関係性も出てきます。
そのなかで、コミュニケーションと相互理解を
どのように築いていくのか、
その為に必要なスキルを、小さいときから学んでおくことが
よい未来へと繋がっていくのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 20:58| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月26日

ひとを信じなくても生きられるかもしれない

『ひとを信じなくても生きられるかもしれない
 だけど、信じる気持ちが無くなったら
 心はカラカラになちゃうよ」
  あむ 〜 アニメ しゅごキャラどきっ
    「第80話 信じるキモチ!プラチナハート!」より

「誰かが自分を信じてくれたとき、人は強くなれる
 信じる事は必要ないことじゃない」(たかせ)
「人を信じる気持ちは、心をつよくする」(あむ)
「人を信じる気持ちは、心を優しくする」(たかせ)
「人を信じる気持ちは、大切できれいな宝物」(あむ)

 エンブリオ、願いが叶う不思議なたまご、
それを求める大人に、翻弄されるこどもたち、
何かを求めるとき、手段を問わない大人の醜さに
子どもたちの純粋な想いは、輝いています。

 心のたまご

この物語の中心にあるものは、
夢であるといえるでしょう。
成りたい自分の姿が、心のたまごとして
人のなかに宿っている。
心のたまごは、誰もがもっているもの。
そのたまごからうまれてきたものが
しゅごキャラ。
まさに、守護天使といった感じの存在です。
応援してくれる精霊、妖精、エンテティといった
ところでしょうか。

人と人との絆、その素敵さ、素晴らしさ、
大切さを、物語のなかで、描いてくれてます。
気持ちのすれ違い、
言いたくてもいえない心、気持ち、
迷い、悩むことも、あるものです。
でも、本当に大切な相手であるなら
信じて信じて信じ切る
そう出来るように心を強くしていくことが
大事だと感じることのできるとき
自分のしたこと、自分の言葉が
相手を傷つけてしまうこともあると気づき
自分の弱さ、自分を守りたいきもち、
正直になれない心を、みつめ、みとめ、
反省する。振り返ってみることで、
今をみつめ、未来をみつめる。
そんなことの必要さが、伝わってきます。

信じることは、強くなければできないこと
でも、誰もが出来ること
ちょっと勇気が必要かもしれないけど、
疑うことをやめ信じることにしたときに
何か、変化があるかもしれません。
自分が信じて欲しいとおもうのなら、
自分も信じることが大切だということ
それを素直に感じ取れる子どもたちで
あって欲しいとおもいます。
posted by 清水の伏竜. at 13:53| 静岡 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月25日

学び続けることは、どんな分野においても

『学び続けることは、どんな分野においても、
 成功するための最低条件だ。』
   デニス・ウェイトリー

 多くの人が、学ぶことの大切さを
伝えてくれています。
人は、生まれた瞬間から、
それ以前の母胎の中にいるときから、
学び続けているといえるでしょう。
学ぶことで、成長しているといってよいでしょう。
だから、何をするのにも、
何かを成すためにも
学ぶことが必ずあるのです。
一生、学び続けているといってよいでしょう。
だから、学ぶのをやめるということは
成長をやめるということだともいえるでしょう。
学んでいるから、行動できるともいえます。
成功するためには、
必要なことを学ぶ必要があります。
歩みながらであっても、
ちょっと休んでみても、
いろんなものから、
いろんなところから、
いろんなことを
学んでいくことで、きっと、新しい世界が
見えてくることでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 09:00| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

○活

 “○活”という言葉が
流行っているようです。活動することを
目的別に短縮していう言葉です。
日本人は、短縮や略が大好きですので、
こんな言葉も流行していきます。
正式な言葉が、忘れ去られてしまうことも
あったりしますね。

 さて、不況のなかでも、この“○活”は、
ビジネスになってます。
結構美味しいビジネスのようです。

 その代表的なのが、婚活というものです。
そして、本人ではなく、親が活動するものを
代理婚活というようです。
 代理婚活は、いってみれば、親の楽しみの
ようなものですね。
子どもの幸せのためという事を親はいいますが
実は、子どものためというよりも、
親の自分自身の願いを成就するためで
あったりするのです。
 親も、子どもで楽しむしかないと
いったところでしょうか、
本来は、孫に対象が向かうものが、
孫がいないとばれば、子に向かうのも
しかたのないところでしょう。
 代理婚活に付き合うのは、
子どもにとっては、親孝行の一環であり
義務のようなものだともいえるかもしれません。

 他にも、就活というのもありますが、
それなら、転活というのもあるのでしょうか、
婚活に対して離活というのもあるらしいですね。

 そういえば、昔からある言葉に、自活というのがあります。
ちょっと意味が違うかなといったところでしょうか。

 私も、婚活している?ことになるのかな・・・。
posted by 清水の伏竜. at 08:53| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月24日

人生を愛せば、人生が愛を

『人生を愛せば、人生が愛を
 返してくれるということを私は知っている。』
   ルービンシュタイン

 人生とは何でしょう、愛とは何でしょう。
人生を愛するということは、
生きていることに感謝し大切にするということ
だといえるでしょう。
生きていることに感謝することで、
生きていることが素晴らしい、
生きているだけで素晴らしい、
生きていられることに価値があることを
感じ取ることができ、
生きていくことが素敵におもえるように
なるかもしれません。
そうなったら、まさに人生が愛を返して
くれているということになるでしょう。
 愛とは、厳しいものです。
人生には、苦労が多いものです。
乗り越えなければならない試練もあり、
困難もあれば、障壁もあります。
それは、カルマの解消のために与えられた
チャンスでもあったりします。
まさに、神に愛されている人生であるという
ことであるといえるでしょう。
きつい、苦しい、痛い、哀しい、辛い、
そんな事象が現象となって生じるときは、
それを乗り越えて、成長しなさいという
ことだといえます。そうおもえることが
人生を愛するということだとも
いえるでしょう。
そうすれば、人生が愛してくれることでしょう。
そして、変化を感じることが
できるかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 07:18| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月23日

心に残るのは千の忠告より一つの行為だ。

『心に残るのは千の忠告より一つの行為だ。』
   イプセン

 忠告も、行為のひとつです。
どんな行為が、心にのこるでしょうか、
言葉よりも、実利の方が心に残るとは限りません。
何度も行為をしても、たった一言の言葉の方が
心に残ることもあるでしょう。
どんなことが、心に残るのか、
それは、形ではなく、心と心の触れ合いにより
共感できるときではないでしょうか。
忠告も、行為も、相手に対する想いがなければ
いくつであっても心には響かないといえるでしょう。
しかし、相手に対する深い想いがあったなら
行為でも、忠告でも、心に残るものになるでしょう。
欧米では、行為でしか伝わらないことでも
和の文化のなかでは、行為がなくても
伝わるものがあったりします。
その深さや良さを、日本人はもっともっと
大事にしていくべきではないかと想います。
posted by 清水の伏竜. at 02:24| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月22日

未来に対する最上の準備は、

『未来に対する最上の準備は、
 現在をしっかり見つめること、
 なさねばならぬ義務を果たすことである。』
   ジョージ・マクドナルド

 未来は、今の瞬間の連続の先にあるものです。
今の瞬間のほんの先も未来であるし、ずっと先も未来です。
時間という数直線において、現在とは点でしかありません。
一瞬で過ぎていってしまうポイントです。
流れのなかで、生きているのが人であり、
宇宙の変化であるといえるでしょう。
 さて、未来に対する準備があるとしたら、
まさに今の瞬間における行動と意志と想いであると
いえるのかもしれません。
そして、行動のなかには義務を果たすというものもあります。
自由も権利も、すべて義務を果たした上で
行使できるものだといえるでしょう。
どんな自由に対して、どんな義務があるのか、
どんな権利に対して、どんな義務があるのか、
それは、その内容、立場、人によって、異なっています。
すなわち、自分にとっての義務は、自分だけのものだとも
いえるわけです。
未来は、誰のためでもなく、まず自分の為のものであったりします。
そして、そのための行動も自分が行うものであり、
行使する権利も、自由も、自分のものであるのです。
果たすべき義務も当然、自分のものであるわけです。
 どんなに世界のことをおもっても、
世界のために祈っても、結局は、自分自身が出来る範囲のこと
影響を及ぼせる範囲のことしか出来ないのです。
それ以上のことを願うのは傲慢であるといえるかもしれません。
自分の置かれた立場、環境、そして時間について
しっかりと見つめることが、現在を見つめることであると
いえるでしょう。
現在をみつめるなかで、未来のために何を成すべきかが
見えてくることでしょう。
そして、自分の出来ること、出来る範囲で、全ては考えるべきだと
いえるでしょう。
もちろん、自分の出来る範囲、出来ることを拡大したいという
想いを持つのは自由です。そう思うのであれば、その為に
今、何をなすべきか、どこに向かって進むべきかを
考えることが必要であるよいえるでしょう。
 サラリーマンでしかない私に、出来ることなど知れています。
願いや希望は、身の丈にあったものでなければ傲慢になって
しまいます。傲慢にならないように、自分を成長させて
いかなければダメだということです。
未来への希望や夢は、大きくても構いません、
でも、そこに向かうために、現在を知り、自分を知り、
まず、何をすべきなのかを知ることが重要であると
いえるでしょう。
 その視点が、もし出来たなら、自分の魂の求めに
応じたものとなっていたら幸いです。
神の英知をもって、自分の歩む道を、判断できたなら
魂の成長、カルマの解消に結びついていくことでしょう。
しかし、なかなか心や体に影響され出来ないものです。

 死神が南よりお迎えにくるまでに、
何を成すことができるのか、出来るだけ悔い無きように
生きることができたならよいなとおもいます。
posted by 清水の伏竜. at 07:24| 静岡 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月21日

考え方に全然共通性のないところに敵対はありえない。

『考え方に全然共通性のないところに敵対はありえない。
 そこには無関心な冷淡さがあるのみである。
 考え方が同じで、感じ方が異なる場合にのみ、
 敵対が生じ、憎悪が育つ。』
   トーマス・マン

 人の社会には、協調や共感もあれあ、敵対や憎悪もあります。
なぜ、敵対や憎悪があるのでしょう。
それは、この世における人が、未熟であるからだといえるでしょう。
この世に生まれるということは、成長するためであるわけです。
すなわち、訓練を受ける、試練を受ける、困難に遭遇すると
いったことは、当たり前のことだということになります。
未熟であるがゆえに、人は感情で動いてしまいますし
感情によって強い影響を受けてしまいます。
判断を理性的に行うことが出来れば、論理によって理解しうるのに
感情によって理性的であることを忘れてしまうために
理解出来なくなってしまうわけです。
根本となる英知を学び、その基準で理性的、論理的に判断すれば
よいことなのに、それを出来ないところに、
様々な問題や敵対、憎悪が生まれてしまうということです。
人が感情で動かされてしまうために、
感情をコントロールするための教えが必要となり、
一部の宗教や、セラピーなどが生まれてきました。
しかし、それはあくまでも感情を穏やかにするだけであり
本質としては、理性的、論理的に考えることができる
しっかりとした基軸をもっていることが必要になります。
考え方に共通性のなりところに敵対はないというのは、
その通りでもあり、その通りでもないというものです。
無関心や冷淡さは、ほんのちょっとの力で敵対となり得ます。
少なくとも影響を受けることにはなるのです。
政治む無関心であっても、政治の影響は受けるということです。
考え方が同じではない場合も、感じ方が違ってくるので
敵対を生む可能性があります。
共産主義と資本主義、考え方が違うのに敵対を生みました。
それは、考え方の違いが、感じ方の違いになるからです。
敵対は、無知からくるともいえるでしょう。
考え方が同じでも違っていても、考え方の根本を知らなければ
それは、感情によって流されてしまい、敵対し憎悪することが
ありえるでしょう。
英知を学び、この宇宙すべてを司る定義を知ることによって
それにもとづき考えていき、論理的に判断するならば、
敵対などあり得ないでしょう。
しかし、論理的な判断が出来ずに、感情的な判断をすれば
それは、敵対する可能性があるでしょう。
人は、論理的な判断をしたようにみえるものでも
よくよく分析すると感情的な判断になっていることが
よくあります。
企業における査定の殆どは、論理的であるよりも
感情的であるといえるでしょう。
査定をする人の主観によって決定付けられているのですから。
論理的ということは、人の主観は入る余地がないのです。
客観的にすべてが構成され説明されているということです。
しかし、世の中の多くの判断は、主観によってなされています。
当然、その判断に対して、対立が生まれてくることに
なるでしょう。なぜなら、人それぞれに主観をもっていて、
感じ方も考え方も違っているからです。

争いや憎悪、敵対が生まれるのは、
結局は、人が未熟であり、この社会が未熟であるからであり、
そして、この世において、社会が成熟することは、
おそらく、ずっと先のことになるでしょう。
永遠にないかもしれません。
未熟な社会のなかで、それなりにより良い社会にしていく
生きるために必要なことを成していく、
そんな積み重ねを繰り返していくなかで、
人は、成長していけるのだといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 07:15| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月20日

他人に興味を持つことによって自分自身を忘れよう。

『他人に興味を持つことによって自分自身を忘れよう。
 毎日、誰かの顔に喜びの微笑が浮かぶような善行を心がけよう。』
    D・カーネギー

 人が、生きていくと、疲れることもあったりします。
辛くなったりもします。
自分のことが嫌いになったり、嫌になったりもします。
自分のことが嫌になったとき、
そこから脱するために、
他人に興味をもって、素敵な人の笑顔を思い出したり
他人のために、善行をしたり、
外に向かって、気持ちをもっていくことが
リフレッシュになったり、自分のことを見直す
きっかけになったりするかもしれません。
でも、善行って何でしょうか。
何が善で、何が善でないのか、この基準は
非常に曖昧で、私的なものであることが多いです。
それは、基準が人や社会によって定められて
いるからだといえるでしょう。
もし、絶対的な基準があるとしたら、
それは、神による英知によって与えられた
ものでしかないでしょう。
それは、一部の人にとっては、厳しいもので
あるかもしれません。
辛いものかもしれません。
しかし、永き魂の旅路のなかでは、
それしかないというものであったりします。
自分自身を見つめられないとき、
他人を見つめることもよいかもしれませんが
この世に残された英知を求めてみるのも
よいかもしれません。
それによって、曇った人としての目が
少しはきれいになるかもしれません。
英知は、自分ではつくれません。
学ぶしかないものです。
学ぶ機会に出会えたら幸いです。
posted by 清水の伏竜. at 00:16| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月19日

強い人が勝つとは限らない。

『強い人が勝つとは限らない。
 すばらしい人が勝つとも限らない。
 私はできる、と考えている人が結局は勝つのだ。』
    ナポレオン・ヒル

 勝つことに意味があるのか?

そんな問いがあったりします。
でも、多くの人は勝ちたいとおもうものです。
負けるよりも勝った方がよいのではと。

では、勝つためには何が必要なのでしょう。

強さでしょうか
すばらしさでしょうか
それとも、富や権力でしょうか

成功の方程式をビジネスにしている方の言葉では

私にはできる

と考えることだといっています。
つまり、自分を信じること、勝利を信じること、
それが出来る人が、勝つことができるというのです。

何かを成し遂げようとするときに
もっとも重要なことは、
成し遂げようとしていることは
自分が出来ることであると確信して揺るがないこと
だというわけです。
自分が出来ると思えないことが、
出来るはずもないということでしょう。

ただし、ここには罠もあります。
それは、自信が、傲慢になってしまっている
ことがあるということです。
自分が出来ないことを出来ると信じることは
傲慢であるといえるでしょう。
過信ともいえます。
もし、そうなっていたら、失敗するでしょうし
勝つことも出来ないでしょう。

自分には出来ると信じることができるためには
自分自身の技量や立場、経験を、
客観的に認識できることが必要であるということです。
その上で、出来るといえるようでなければ
本当の意味で、確信できているとは
いえないでしょう。

あなたの自信は、どこから生まれているのですか?

そう問われたとき、その理由を明確に回答できるか
どうかが、その自信が本物か偽物かを
判断するひとつの基準であるといえるでしょう。

自信をもつこと、自分を信じることは大切です
しかし、それが何の根拠もないものであれば
それはリスクであり危険となってしまいます。
そうならない為に、必要なことを
行っておくことが大切であるということでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 14:37| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月18日

自信は大事業を行なうための一番の必要条件である。

『自信は大事業を行なうための一番の必要条件である。』
   サミュエル・ジョンソン

 自信がありますか?

こんな問いを受けたことがあるでしょうか
その時に、みなさんは、どう答えたでしょう。

 はい、もちろん、自信があります。

 いいえ、少し、自信がありません。

どちらの答えも、本心であったりします。
きっと、だれもが、自信がなければ、言い出さないし
やろうとは思わないでしょう。
そして、誰もが、絶対的な自信をもてずに、
どこかに不安な気持ちをもっていることでしょう。
どちらの答えを口に出すのかは、
そのときの雰囲気や、答える相手や、体調や気分で
変わってしまうことがあるのではないでしょうか。
もちろん、相手に認めてもらう必要があるときに
自信がないと答える人はいないでしょう。
相手が信用できて、安心できる人であれば
自信のない部分、不安な部分を言うことができると
いえるでしょう。

大事業でなくても、何かを行うときには、
それに対して、必ず、自信はもっているものです。
その自信の程度には差があっても。
自信は、行動するときの必要条件なのですから。
でも、本音の部分で、不安も持っていたりします。
絶対の自信は、なかなか持てるものではありません。
でも、そんな自信を持ちたいとおもうし、
持ってみせるとおもっているのではないでしょうか
そんな自分自身を信じる思いが、
とても重要であったりします。
自信を持ちたいと思えることが、大切だということ
であるでしょう。
だから、不安をぬぐい去り、自分をもっと
信じてあげて下さい。
そうすることで、きっと何かが得られるのだと
おもいます。
posted by 清水の伏竜. at 08:17| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月17日

誰にでもできるという甘い誘いの罠

「誰にでもできるという甘い誘いの罠」

 言葉には、罠が仕掛けられていたりするものです。
広告宣伝の文言は、人の深層心理につけ込み、
その人を誘導する目的が潜んでいたりします。
コピーライティングでは、心理学を利用して、
人の心につけ込んでいるという言い方もできるでしょう。
サブミリナル効果というものが、問題になったことがありました。
キャッチコピーも似たような効果を持たせているとも
いえるでしょう。
だからこそ、誘い文句に即決はリスクありとも
いえるかもしれません。
みなさんは、「誰にでも出来る」という言葉を
聞いたり読んだりしたことがあるのではないでしょうか。
多くのノウハウ本や、成功者のバイブルといわれる本などで
必ずといって良いほど出てくることばです。
さて、みなさんは、本当に「誰にでも出来る」ことが
語られていたり、書かれていると思いますか?
もし、そうだとしたら、多くの人が、
成功していることでしょう。
でも、実際はどうでしょうか。
10万部売れた本の内容で、10万人が出来たということって
聞いたことありますか?
おそらくないのではないでしょうか。
そうです、「誰にでも出来る」というのは、
お誘い文句でしかないということなのです。
本当は、「誰にでも出来るわけがない」ということで
あったりするのです。
でも、もし「誰にでも出来るわけがない」という本があったとして
さて、みなさんは手に取るでしょうか。
もしかしたら、アンチテーゼで注目浴びるかもしれませんね。
さて、では世の中の成功者の話や教材やノウハウ本は、
役に立たないのでしょうか。
成功者の皆さんのノウハウやサクセスストーリーは、
まねなど出来ないものばかりです。
同じように成功するためには、同じような歩みをしなければ
ならないでしょうが、実際にそんなことは不可能です。
成功者のみなさんは、
私は特別なことをしたわけではないとおっしゃってます。
それは、ご本人にしてみれば確かにその通りなのですが
それは成功者である人だからこそ言い切れる言葉でも
あったりします。
他人からみたら、実は凄いことをしているのです。
でも、本人はそうは思わない、そこが実はまた凄いところで
あったりするのですが、そして多くの人は、
成功者のご本人が思っているようには、実行できないし
成し遂げられないのです。
これは、ある意味、当たり前のことであったりします。
なぜなら、全ての人は、違う人間であり、
異なる人生を歩んでいるのですから、
同じになれるはずなど最初からないのです。
「誰にでも出来る」というのは、幻想でしかない、
それが人生の多様性であり実態であったりすると
いえるのかもしれません。
しかし、共通要素が少なくてすむような本当に簡単なことであれば
近いことは出来るので、似たような成功を収めることが
出来たりすることもあります。
10万人の読者がいて、100人出来たといったら、
きっと、ほら誰にでもできるでしょうという事例紹介と
なることでしょう。
でも、10万人のなかの100人って、
1万分の1の確率ということですから、
誰にでもできるというよりも、特定の人しかできないと
いった方が正しいでしょう。
でも、成功者の事例を学び、やってみることは、
意味があることであったりもします。
それは、自分だけの成功方式を見いだすための訓練であると
いえるからです。
もしかしたら、多少似た人の成功事例のなかに
あなたの成功方式のヒントがあるかもしれないのです。
1000年の成功者の言うことを実践してみれば、
そのなかの少しづつが蓄積していって、
自分の成功の方程式を身につけられるかもしれません。
まったく同じではない、その人だけの成功の方程式を
見つけるためには、やはり学ぶことが大切であり、
実践してみることが大切であったりするのです。
ノウハウ本や教材をかってやってみたけど、
うまくいかなかったとしたら、
それは、自分の成功の方程式とは違うものであったという
だけのことです。そして、それを知る事が出来たという
成果が得られたともいえるのです。
大成功するものに「誰にでも出来る」なんてものはありません。
すべては、「彼だからできる」であったり、
「私だからできる」であったりするものです。
大きな成功を収めたようなものほど、その要素が強くなります。
小さな成果を出せばよいもの、単純作業のようなものであれば
誰にでも出来るものはあるでしょう。
でも、人と違う大きな成功を成すことは、誰にでも出来るはずなど
ないのです。だからこそ、目立つのであり、数が少ないのですから、
だから、大成功したいとおもって、誰にでも出来るという話を
学んでも、出来ないという結果になるのは当たり前といえるでしょう。
しかし、そんな誰でもできるお話を試してみることは、
自分の中にある成功の方程式を呼び覚ますための
刺激となることも、間違いないといえるでしょう。
成功者のノウハウをまねしても、絶対に同じようには
成功できません。でも、まねすることから、自分だけの
自分にあった成功の方法を見つけることが出来るかもしれません。
または、出会うことが出来るかもしれません。
人は、それぞれに、おかれた環境も、経験も、知識も、
肉体も精神も心も違うものです。
この世に唯一無二の存在であるのです。
当然、同じことをして同じ結果が得られることは、
簡単なこと以外ではあり得ません。
特に社会的な要素の強い事象に関しては、同じになることは
少なくなっていくでしょう。
自然科学に関連することであっても、誰にも無関係に起こる事象は
同じ答えが出ますが、人に関わる事象となると、
結果が違ってくることがあったりするのです。
余命半年といわれた人が9年も生きることが可能なのです。
医学的に直らないといわれた病気が、直ってしまうこともあるのです。
人には、多くの可能性が秘められています。
それは、それぞれひとりひとり異なるものです。
だから、人は素晴らしい存在であるともいえるのです。
魂の成長の旅路のなかの一時を、この世で過ごすのが人生です。
その人生で、得たいものは、人生が始まったときに
魂の求めたものであったりします。
その人生での目標は、実は生まれた瞬間に決まっていたりするのです。
それに気付くのが早いと、早く目的を達することが出来るし、
気付くのが遅いと、ゆっくりと目的に達していくことになるでしょう。
魂が求める目的、それは、魂によって異なります。
あなたの魂は、何を求めて、今回生まれてきたのでしょうか。
今回の人生は、何を得ることが必要なのでしょう。
それを知るには、自分自身の心の奥深くに目を向けることが
必要なのかもしれません。
多くの人は、肉体の欲求、精神の欲求を感じますが、
その背後にある魂の欲求に気付けずに過ごしていたりします。
それでも、人生は生きていけますし、生まれてきた目的は、
それなりに果たすことになっていきます。
でも、より大きく成長したいとしたらな、
魂の欲求を感じることができるように、何かを成す必要が
あるといえるのかもしれません。
それを、知りたいと感じる人には、知る機会が与えられることでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 19:52| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

経済的な自由なくして自由は存在しない。

『経済的な自由なくして自由は存在しない。
 −飢え死にしかけている人間を自由だと呼ぶのは、
 すなわち、彼を軽蔑することだ。』
   ネール

 失業者のための村が、いくつかできました。
派遣切りにあって、路頭に迷う人に対して、
それは、自由でしょうという人は、いませんでしたか。
まさに、それは、飢え死にしかけている人を自由と
いうのと同じことでしょう。
 内定取消で、路頭にまよってしまった若者たちに
それはあなたの自由といえる人はいないでしょう。
 日本の社会は、実は不自由な社会であったということ
なのかもしれません。
なぜなら、飢え死にするひとが出たりするのですから。
 フリーターやニート、日雇い労働者、派遣、パートの
みなさんを、自由だという人がいます。
本当に自由でしょうか、
自分が経済的に不自由でない状況であるから
言えるだけではないでしょうか。
もし、フリーターやニートといった皆さんのことを
自由だと言い放ちたいのであれば、
まず自ら経済的に不自由な状態になった上で言って欲しい
という気がします。
全財産を寄付して、無一文となって、路上に迷うことになった
あとで、言えるのであれば、本物でしょう。
でも、きっと言えないでしょう。
 人は、自分と違う立場にある人に対しても
自分と同じ立場の視点からしか、評価出来なかったりすることが
多いようです。特に、想像力が乏しい人には、自分と違う立場に
仮想的に立つこともできないのでしょう。
だから、酷いことや無責任なことを当たり前のように
口にしてしまうのかもしれません。
 自分の語った言葉は、自分自身に返ってくるということを
忘れてはいけないとおもいます。
自分の語った言葉を最初に聞くのは、
自分自身であるのです。
つまり、自分の心にまず最初に届くことになっているのです。
それが、自分に対する言葉ではなくても、
心にとっては、自分に対して言っているのと同等であると
いえるかもしれません。
だから、言葉を語ることは、とても気を遣うべきことで
あるといえます。
 他人に語るとき、自分に語るように、語れることが
実は、とても必要であり、大切であるのかもしれません。
だから、優しい言葉や、感謝の言葉は、心地よいとも
いえるでしょう。
 彼を軽蔑することは、自分を軽蔑することになる、
ネールの言葉に、こう続けたいとおもいます。
posted by 清水の伏竜. at 19:49| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月16日

われわれは後世に遺すものは何もなくとも、

『われわれは後世に遺すものは何もなくとも、
 われわれに後世の人にこれぞというて
 覚えられるべきものはなにもなくとも、
 アノ人はこの世の中に活きているあいだは
 真面目なる生涯を送った人であると
 いわれるだけのことを
 後世の人に遺したいと思います。』
    内村鑑三

 人生を生きるにあたって
どのようなものであればいいのかに
関して語られたものです。
後世に、名声や物を残さなくても
真面目に生きたということだけで
充分に素晴らしいことであると
いうことです。
生きていた証は、関わった人の心に
残れば充分であるということです。
だから、無理せず、地道に生きていくことも
充分に素晴らしいと思うべきだと
いえるでしょう。
後世になにを残すのか
それは生きているときにもった絆によって
残るものがあれば、それで充分だということ
でもあるといえるでしょう。
誰もが、誰かと、絆を結び生きていく
その絆に、残す物は必ずあるということ
すなわち、名声や発明がなくても
後世に残すことになるものは
既にあるということでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 07:38| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月15日

自由とは責任を意味する。

『自由とは責任を意味する。
 これが、たいていの人間が自由を恐れる理由である。』
   バーナード・ショー

 自由という言葉は、民主主義、人権という言葉と
ともに、現代社会において、重要なものとして
使われています。
自由は、何をしても良いとか、何でも出来るという
ことではなかったりします。
公共の福祉や人権の擁護などとペアで存在しうるものであり
それゆえに、自由は、責任や義務というものと
同時にしか存在しえないものになっています。
責任や義務を果たせないとき、
人は、自由を主張できなくなっていくと
いえるでしょう。
そこが、面倒だとか、大変だとかと感じる人が
自由を恐れるのかもしれません。
権利を主張するのと、自由を主張するのは、
よく似ているといえるかもしれません。
義務や責任を果たしていなければ、
正当に主張できないものということを
しっかりと認識したうえで、
結局は、社会のなか、人と人との関わりのなかで
生まれてきたものであり、
意味をなすものであるということも
しっかりと考えておかなければならないと
いうことでしょう。
そんな考え方を、教育の場で学ぶことが
とても重要なことであるともいえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 06:43| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月14日

終わりというものはない。始まりというものもない。

『終わりというものはない。始まりというものもない。
 人生には無限の情熱があるだけだ。
 始まりと思うのも自分、もう終わりと思うのも自分。』
   フェデリコ・フェリーニ

 人生の長さって、時間で計れるものでは
ないのかもしれません。
それこそ、生きている密度とでもいうのか、
充実感や幸福感の重みというものこそが重要であると
いうことなのでしょう。
始まりと終わり、
何事にも、それを決めるのは、決める人がいるから
そして、自分に関することについては
すべて、自分が決めているということでしょう。
どうおもうのか、どうかんじるのか、
すべて、自分の心しだいということに
なってしまうということかもしれません。
だとしたら、自分の人生をより豊かにするべく
決めればよいし、思えばよいということに
なるでしょう。
だから、信じること、おもうことが、
とても重要であり、大切であるということなのですね。
 苦労も、苦痛も、喜びも、満足も、
すべて、物事をどうとらえるか、
どう思えるかの違いに過ぎないのかもしれません。
出来る限り、前向きに、幸せに、希望をもって
夢を抱いて、どんなことも捉え、感じ、おもっていく
そうしていけるように生きていけたら
きっと、素敵な人生になるのかもしれません。
それが、ひとりでは大変であるなら、
絆と結ぶことのできる友人や伴侶や家族を
持つことで、かなえることができるのでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 03:09| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月13日

人生においては何事も偶然である。

『人生においては何事も偶然である。
 しかしまた人生においては何事も必然である。
 このような人生を我々は運命と称している。
    三木清

 偶然と必然、それは、人生において
表裏一体のものといえるのかもしれません。
運命という言葉は、命を運ぶということです。
命とは、人としてこの世で存在していることを
意味しています。それは、生から死まで、
時空のなかを運ばれていくものです。
その運ばれるなかで、
どれだけ、自分の意志で、進みゆくのか
必然を多くつくりだし、偶然を少なくしていくのか
それは、まさに自分の選択と決断、そして行動に
よって、変化していくのだといえるでしょう。
人の寿命は生まれる前から定められていると
いわれます。しかし、その寿命も、全うできるとは
限らなかったりするわけです。
また、もっと長く生きることが出来るように
なったりすることもあるでしょう。
死の扉をいつ開くのか、それも必然であったり
偶然であったりするのだということです。
ただ、いつ死の扉を開くことになっても、
後悔することのないように、
日々を生きていくことが、大切なことだと
いうことになるでしょう。
日々を生きること、精一杯生きること、
自分を愛し、自分を信じ、
そして、他人を愛し、他人を信じて、
安らかに過ごす。
困難や苦労、障壁に出会っても、
それを前向きに乗り越えていけるように
生きていけるよう、
絆を築き、心と体を健やかにしていくことが
必要になるということでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 07:41| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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