2009年03月31日

ある人たちは私欲に目がくらむが、

『ある人たちは私欲に目がくらむが、
 ある人たちはそれに啓発される。』
   ラ・ロシュフコー

 私利私欲という言葉は、悪いイメージで
使用されています。自分の欲望のために、
自分の利益のために、何かを行っていくのは
ある意味で、あたりまえの部分もあったりします。
しかし、何もかもが、自分の為となると
まさに私欲に目がくらんだといった状況なのかも
しれません。
その様子をみて、啓発されて、違ったおもいや
行動を出来るようになる人もいることでしょう
まさに反面教師という感じではないでしょうか。
 夢や希望も、いってみれば、自分の欲であるわけです。
その意味では、私欲であるといえるでしょう。
しかし、単なる私欲で終わってしまうような
夢であったり、希望であったりしないからこそ
多くの人に共感をもたらし、感動を与えることが
可能なわけです。
他人はどうでも良い、他人を犠牲にしてもよい、
不幸になるひとはなればいい、
そんな欲であると、私欲として蔑まれることに
なるのだといえるでしょう。
そして、私欲というと、自分だけが良ければよい欲と
感じられることが多いので、
悪いイメージがつきまとうともいえるでしょう。
人には、欲求があります。
肉体の欲求もあれば、
精神の欲求もあれば、
魂の欲求もあります。
そして、その欲求の内容も、
生存のため、成長のため、認められたいため、
愛されたいため、存在を認知してほしいため、
感動したいため、理由を知りたいため、
カルマ解消のため、・・・・
様々な目的のもとにあったりします。
そして、人は、人だけに与えられた欲求があり、
また欲求をコントロールするすべを与えられています。
それは、他の生き物とは違っている点であり、
人間だけに与えられたものであったりするわけです。
それ故に、人にとって、欲求をどう扱うのかは
重要な意味を持っているといえるでしょう。
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人生が終わってしまうことを恐れてはいけません。

『人生が終わってしまうことを恐れてはいけません。
 人生がいつまでも始まらないことが怖いのです。』
    グレース・ハンセン

 人生をこの世で生きている期間だとしたら、
人生はいつか終わりを迎えるものです。
人生の始まりは、母親の胎内から外に出て産声をあげたときが
ひとつです。それは、魂が精神と肉体を得た瞬間でも
あったりするようです。
しかし、本当の意味で、自分の人生が始まるのは、
自分の意志で行動することが出来るようになったときからだとも
いえるかもしれません。
人生が始まらないのが恐ろしいとは、
自分が生きていることを自覚し、生きているからこそ出来る
そんな行動をはじめられずにいる状態が続いていると
いうことなのかもしれません。
自立という言葉があります。
これは、肉体的なことであったり、精神的なことであったり
それぞれの人の環境によって異なっている部分が
あったりするものですが、まさに人生のはじまりを
告げる言葉であるといえるのではないでしょうか。
自らの意志で歩み出すこと、それは自分自身を愛し、
他人を愛せるようになってこそ出来ることなのかもしれません。
人生はやがて終わります。
そのときに、どれだけの充実感があるのかで
この人生の成果が問われることになるかもしれません。
少しでも何かを得られたと感じられるような
人生をおくりたいものではありませんか。
 一人っきりでは難しいことも
誰かと一緒に歩めば可能になったりします。
人にとって、自立と共に重要なのは絆であると
いえるでしょう。
人生のはじまりには、そんな絆も必要であるように
感じられます。
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2009年03月30日

悲しむことはない。いまの状態で何ができるかを考えて、

『悲しむことはない。いまの状態で何ができるかを考えて、
 ベストを尽くすことだ。』
   ジャン・ポール・サルトル

 壁にぶつかって、立ち止まること
失敗して、後悔すること
うまくいかずに、悩むこと
生きていると、なかなか思い通りにならないことが
多くあるものです。
そんなとき、どうすればいいのか、
やはり、悲しみにくれ、思い悩み、呆然としている
そんな状況のままでいても、
何にもならないということでしょう。
どんな状態においても、何かしら出来ることが
あるはずです。それを見出すべく、考えて
そして、出来ることを行っていく
自分の今のベストを尽くすことが
とても大切であるということでしょう。
そうすることで、きっと何かがかわっていく
良い方向に展開していく
そうに違いないと信じていくことで
それは、本当に変わっていくことに
なるのだということでしょう。
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2009年03月29日

心配や憂いは新しいものを考え出す一つの転機。

『心配や憂いは新しいものを考え出す一つの転機。
 正々堂々とこれに取り組めば新たな道が開けてくる。』
   松下幸之助

 ものごとをどのようにとらえるのか、
どのようにとらえることができるのか
この差は、とても大きなものであるということです。
この世のさまざまな出来事や情報は、
すべて、いろんな見方や解釈が可能であったり
するものです。
 心配も憂いも、見方をかえれば、
悩みや不安ではなく、転機やチャンスとなると
いうことです。
そして、心配や憂いから逃げずに
正々堂々と取り組んでいくことで
新たに大きなものを得ることができる
成長することができるということです。
それは、もしかしたら簡単なことではない
かもしれません。難しいことなのかも
しれません。
でも、まずは考え方、捉え方だけでも
変えてみることからはじめてみる
それからすべてが動いていくと
いうことでもあったりするでしょう。
 より良い方向に、より成長していく
ことの出来る見方を、どんなことに
対してもしていくことが
大切なことだといえるのでは
ないでしょうか。
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2009年03月28日

人間は他との比較をやめて、

『人間は他との比較をやめて、
 ひたすら自己の職務に専念すれば、
 おのずからそこに一小天地が開けてくるものです。』
    森信三

 人生が開かれる、天地が開き、未来がみえてくる。
充実した日々、幸せな日々、生きている実感、
そんな時を過ごせるかどうかは、
やはり、自分自身の心がけ、歩みに大きく関連している
ということでしょう。
他の比較して、一喜一憂しても、何も変わらないし
かえってわるくなってしまうかもしれません。
問題があっても苦労があってもそんな負の遺産は
なし崩しにしていって、いつかは良き方向に向かうと
信じていることが大切なのでしょう
(なし崩しの正しい意味は、実は知られていないと
 教育テレビの番組でいってました、なし崩しとは、
 良い意味のことばで、少しずつかえしていくこと
 つまり着実に、小さくても完済するという意味だそうです)

 自分のやりたいこと、自分がすべきことに
とにかく取り組んでいく、他と比較せず、自分と比較して
進歩していけば良いのであるということです。
だって、自分の人生なのですから・・・。
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2009年03月27日

われわれの魂は、堕落したくないのであれば、

『われわれの魂は、堕落したくないのであれば、
 毎日その下着を取り換えなければなりません。』
   ケラー

 下着を取り替えるということを
比喩につかって人生において、良く生きるためには
大切なことがあるということを
伝えている言葉です。
 見えない部分について、見えないから構わないと
そのままの状況のままで過ごしていくということは
実は、魂の堕落に繋がっていくということです。
他人に知られていないから、
他人からは見えないからといって、
どんなことをしてもよいし、
どんな状態でもほおっておいて構わないということでは
そこから、ダメになっていくものだということでしょう。
常に、新鮮な状態におくこと、
リフレッシュした状態であること、
正しいと思う行いをしていること、
見えてないくても、神はみているし知っていると
いうことをわすれずに、罪を償い、業を解消していく
そんな行動を人知れず心がけていくことが
とても重要であり、大切であるということでしょう。
 しかし、人はなかなか、それが出来なかったりします。
人がみていないから、気にしないと
ゴミをポイ捨てしたり、たばこの灰を落としたり、
公衆道徳に反するような行いをしていることは
ないでしょうか。
 人が入ってこないからというので、
部屋のなかが散らかっていることはないでしょうか。
私も、自室を片付けなければと思っているのに
なかなか片づくことができずにいたりします。
自分へのいいわけを考えてしまうということも
出来ない要因であろうといえるでしょう。
そういったことも、ひとりではなく、
誰かの一緒に歩むのであれば、
互いに支え合い、注意し合い、気遣いしながら
成していけるということなのかもしれません。
人は、ひとりでいるときよりも
複数でいるときの方が、より素敵な行動が
とれるということなのかもしれませんね。
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2009年03月26日

この素晴らしい世界では、遊ぶということほど

『この素晴らしい世界では、遊ぶということほど
 分別のあることはできませんよ。
 わたしには人生全体が一つの遊びのように思えます。』
   イプセン

 人生をどう生きるのか、
これは、多くの人が問いかけてきた命題です。
その問いに、多くの人が、答えのような言葉を
残しています。
この世界において、生きること、人生を歩むことは
どんなことでしょう。
素晴らしいことであるに違いないと
そして、それは、遊びのように感じられるものであると
いうことを語っています。
人生全体が、大きな遊びのようなもの、
ひとつのゲームのようなもの、
そんなふうに感じて生きている人も
いらっしゃるのではないでしょうか。
その遊びやゲームが、楽しいかどうかは
別なのかもしれませんが、
 時には、遊びやゲームのように
ちょっと気を楽にして生きてみることも
必要なことなのかもしれません。
まじめに、一生懸命に生きていると、
時にはつかれて、心も体もまいってしまうような
こともあるでしょう。
リラックスすること、遊び感覚とは、
そんなことなのかもしれませんね。
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2009年03月25日

肉体は、人間の精神が認識するための、

『肉体は、人間の精神が認識するための、
 一つの器具にすぎない。』
  シャンカラ

 肉体と精神は、切手も切り離せない人の一部です。
肉体は、人にとってのこの世界での器です。
行動し、活動していくためのベースとなるものであると
いえるでしょう。
もちろん、精神により認識されていなければ、
意味を持ちません。
肉体の障害には、精神により認識できないといった為に
うまく動作しないというものもあったりするわけです。
精神は、肉体からの影響も受けます。
肉体は、精神からの影響も受けます。
外界とのインタフェースとして、肉体は存在しており、
その維持のために、飲食、睡眠を人は取るわけです。
 精神もまた、この世における活動のための器です。
魂とのインタフェースを取るために存在しているわけです。
魂の欲求は、精神に伝わり、肉体へ伝わっていきます。
違和感を感じるときは、欲求と状況がミスマッチしていると
いえるのかもしれません。
魂は、この世では、直接感じることが難しい存在に
なっています。肉体と精神の占める部分が大きいからです。
しかし、この世をさるときには、肉体と精神という器を
捨て去り、魂という本来の存在に戻ることになり、
そのものをしっかりと認識することになります。
この世で、何を得たのかが明確になる瞬間であるとも
いえるでしょう。
 魂が求めるものは高次元の欲求です。
神の求めるものであるともいえるでしょう。
しかし、精神や肉体は、魂の求めるものではない
欲求をもっています。
人が試されるのは、まさに、この世の器に入ったときに
器の欲求に流されずに、魂の欲求にどれだけ答えることが
できるのかということであるわけです。
精神の欲求や肉体の欲求は、科学や社会学、一部の宗教などに
よって、解き明かされつつあります。
心理学や倫理などで定義されるような欲求は、
精神や肉体の欲求であったりします。
魂の欲求は、一部の宗教により、神との契約という名の
信仰によって語られているのみです。
それを理解できるかどうかも、魂の成長の状況によって
左右されてしまうことが多かったりします。
精神的な欲求や肉体的な欲求は、理解しやすいものです。
社会的、経済的、家庭的、道徳的、倫理的、法的、
物質的、感性的、・・・、多くのものが精神的、肉体的な
ものであったりするわけです。
ときに、魂の欲求は、精神的、肉体的なものと
対立することがあります。
その時に、どの視点で行動するのかによって、
カルマ、業を増やしてしまうことになるのか、
解消し成長することになるのかが、分かれていくとも
いえるでしょう。
 あなたは、魂の欲求を感じたことがありますか?
posted by 清水の伏竜. at 19:20| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月24日

人間の値打ちというのはどこにあるのでしょうか。

『人間の値打ちというのはどこにあるのでしょうか。
 それは、ほかに似た人がいないということです。
 何をしたから値打ちがあるとか、
 何かをしないから値打ちがないとかいうことではありません。
 たったひとりの自分だから値打ちがある、と考えればいい。』
    五木寛之

 似た人、姿形だけならいるかもしれません。
「黒神」というアニメ作品では、3人のそっくりさんがいて、
ひとりがマスタールートで、あと2人がサブ、
出会うとサブが命を落として、マスタールートがその運を
吸収して運気が増すといった設定での物語が展開してたりします。
ドッペルゲンガーのお話を上手に設定に利用しています。
 さて、物語の世界は別にして、
確かに、世の中にはそっくりさんはいるようです。
でも、まったくの別人です。
同姓同名も結構いますね。
私も、ネットが立ち上がってきたころに検索したときは
同姓同名の人が見あたりませんでしたが、
最近は、何人かの同姓同名の方が検索されます。
ネットの普及を感じることでもあったりします。
同姓同名であっても、まったく違った人生を歩んでいる
まあ、あたりまえですが、
 人間の値打ちは、まさに存在しているということ
そのものにあったりするものです。
この世に生まれたことが既に価値をもっていると
いうことですね。だから、何をしたからとか、
何もしなかったからとかで、値打ちが変わることも
なかったりするということです。
与えられた今の人生は、一度だけのものです。
どんな生き様となるのかは、それぞれに異なりますが
とにかく、定められた死のときまで、
精一杯生き抜くことが、最低限必要なことであったりします。
その上で、更に何ができるのか、
それは、人それぞれということになるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 20:34| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月23日

歴史を持たぬ国民がもっとも幸福だ。

『歴史を持たぬ国民がもっとも幸福だ。』
   マハトマ・ガンディー

 国には、それぞれに歴史があります。
歴史を持たぬ国とは、どんな国なのか、
歴史は、今も創られています。
積み上がられていっているともいえるでしょう。
歴史を持つ不幸とは、歴史がある不幸ではないと
いうことです。
 ガンディーの言葉は、歴史を持ち、
その歴史に縛られてしまっている国民は
不幸であるということです。
つまり、身動きの出来ない国民は不幸だということです。
歴史があって、伝統があっても、自由に身動きでき
新しい創造を積み上げていけるのであれば
幸福であるということです。
そのようなときには、良き歴史を持つことは
素晴らしい財産であるといえるでしょう。
 インドの歴史は、何十万年もの昔からの歴史で
あったりします。神々が、肉体をもち、地上で人と
暮らしていた時代からの歴史がある国であるのですから。
近年の英国植民地時代に、歴史が書き換えられて
しまって、欧州の史観にもとづき解釈されて
まとめられてしまった歴史に引きずられることは
不幸なことです。口伝により引き継がれた
インドの歴史のなかにある神との契約と真理に
立ち戻って、人生における死生観や価値観を
構築していけることが望ましいといえるのでしょう。
 歴史は、編纂するものの主観が入ってしまって
必ずしも正しいとは限らなかったりします。
その意味では、誤った歴史をもってしまった国民は
不幸であるといえるでしょう。
正しい(可能な限り)歴史を知り、その歴史のなかで
学ぶべきものは学び、反省すべきものは反省し、
未来に向かって、より良き歩みをするために
縛られることなく、大切にすることが、
出来る国民であることが、必要だということなのでは
ないでしょうか。
 過去に固執することは、不幸なことであると
言い直すことができるのかもしれません。
不幸な歴史に縛られ恩讐に未来を紡ぐことの不幸を
ガンディーは言っているのではいかと感じます。
過去を引きずることなく、未来を築くことが
大切であるということでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 19:38| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月22日

善処させていただきます

『善処させていただきます』

 日本語は、もともと曖昧な表現の多い言語であったりします。
白黒をはっきりさせないですますという文化があるからだと
いえるのかもしれません。
阿吽の呼吸とか、以心伝心とか、察するとか、伺うとか、
みんなの、公共の、世間の、といった感じの言葉には、
明確ではないものの、わかるよねって感じの世界があったりします。
 顧客から、いわれたことが自分では判断できないようなとき
わかりませんとは答えずに、善処させていただきます。
というと良いともいわれます。
つまり、出来るかどうかは、ちょっと待って下さい。
出来ないかもしれませんが、その時にはご容赦下さいという
意味合いを含んでしまっていたりするわけです。
 便利な言葉ですが、曖昧な答えでもあったりします。
そして、白黒はっきりさせるのが文化である欧米とのやりとりでは
日本の対応は、理解できないということになってしまうわけです。
文化の違いは、コミュニケーションにおいても大きな違いを
産み出すということでしょう。
 狩猟民族と農耕民族の違いというのは、DNAの中に
しっかりと刻まれているのかもしれません。

 日本の社会問題の多くは、責任の所在が曖昧であることから
起こっているともいえるようです。
また、日本人の意識の根底に流れている、公というものへの感覚も
問題のひとつであるようです。
次のような質問が、ある講演で、講演者よりありました。

 市役所の駐車場にいったとき、公用と書いてあるところに
 あなたは車を止めますか?。

 公園に入るときに、役所に許可を申請しますか?

さて、この2つの問いに、どう答えるでしょう。
おそらく、ほとんどの人は、
最初の問いには、止めないと答えるでしょうし、
後の問いには申請しないと答えるでしょう。
同じ公がついても、自然に対応が変化していたりするのです。
日本人における公共は、単純にパブリックという意味ではない
ということなのです。
御上のことを敬うという感覚が、どこかにあるために、
公用の場所には、車止められないし、議員のことを先生と呼ぶわけです。
このあたりの市民感覚を、変えていけるのか、
公共サービスのありかたも含めて、
考えていくべきことなのかなとおもいます。
posted by 清水の伏竜. at 20:48| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月21日

働きかけをあきらめることも、

『働きかけをあきらめることも、
 場合によっては働きかけそのものと
 まったく同様の効果をあげるものである。』
   モンテーニュ

 コミュニケーションの難しさ、
やる気を出させることの難しさが、
この言葉にも表現されているといえるでしょう。
あいてに、働きかけることが、
ときには逆効果になり得たりするわけです。
いわゆる無視する、放置する、といったことが
かえって相手を動かすことになったり
することもあるのが、人の関わりの不思議なところです。
人との関わり方についてのテクニックに
関しては、心理学や精神医療の分野などから
派生して生まれたカリキュラムが沢山あります。
結構高価な講座が多いです。
もともとのテクニックを使って
お金儲けをしているともいえるかもしれません。
しかし、どれも結局万能ではないのも事実です。
万能の様に宣伝はしていますが、
それはまあ広告ですからしょうがありません。
広告の殆どは真実ではなく虚構ですから、
結局、人と人との関係は、オンリーワンであって
全て異なるものであり、似た部分で共通なところを
抽出して、一般化した技術でフォローできるものの
すべては無理だということを、
忘れていると、よかれが逆の効果になってしまう
そんなこともあるということです。
実は、学ぶことなど必要なく、素敵な接し方の
出来る人もいたりします。
コミュニケーションのテクニックは、
天性の部分でもあったりするということです。
いろんな手法もテクニックも
結局は、TPOで使い分けなければ
ダメなものであったりするということでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 01:39| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月20日

人間たちの嫉妬は、彼らがいかに自らを

『人間たちの嫉妬は、彼らがいかに自らを
 不幸と感じているかの証しであり、
 彼らが絶えず他人のすることなすことに
 注意をしているというのは、
 彼らがいかに退屈しているかの証しである。』
   ショーペンハウアー

 人間たちと、自らもそのなかのひとりであるのに
客観視して、みつめ語った言葉は、自己のなかの
姿をかえりみて感じたことなのかもしれません。
嫉妬というのは、誰もが知らずに持ってしまう業と
いうべきものなのかもしれません。
 羨ましい。いいな。私も。欲しいな。
いろんな言葉の裏には、実は嫉妬が隠れていると
いえるのかもしれません。
嫉妬しやすいのは、退屈しているから。
これは、確かにその通りなのかもしれません。
何かに熱中し、何かに真剣に取り組んでいる人は、
他人に嫉妬する暇などないということでしょう。
 人生は、カルマの解消のための旅であり、
しかし、同時に、カルマを増やすリスクを背負う
旅でもあるわけです。
解消するカルマよりも、多くのカルマを
増やさないことが、より良い人生であったと
いえることになるのかもしれません。
その意味でも、嫉妬はしないことに
こしたことはないといえるでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 22:32| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月19日

成功は結果であって、目的であってはならない。

『成功は結果であって、目的であってはならない。』
   フローベル

 何が目的なのと聞かれたときに、
成功することが目的です。と答える人がいます。
そんな人に対してのアンチテーゼをこの言葉は
提示しています。
 何かのビジョンや夢に向かって、
前進していったとき、その結果は、必ずしも
輝かしい成功とは限りません。
苦労ばかりがまっているかもしれません。
失敗の連続であるかもしれません。
でも、ビジョンや夢に、近づいていっていると
いうことです。
 成功を目的としたとき、失敗したときに
挫折してしまって、そこでおしまいになってしまう
そのことが心配であるということでしょう。
成功しなかったからダメという考えは捨てて
そこに残った結果を、どのように感じ取るのか
それが前向きに捉えられれば、
失敗であっても成功であっても関係ないということでしょう。
目的は、手段でも、結果でもないということです。
ビジョンであり夢であるということです。
 そんな夢を持てたら幸せだと思います。
posted by 清水の伏竜. at 21:22| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月18日

偉人も小人も、同じ偶然、同じ不快、同じ情熱にみまわれる。

『偉人も小人も、同じ偶然、同じ不快、同じ情熱にみまわれる。
 だが一方が車輪の端にいるのに対し、
 一歩は車輪の中心近くにいるから、
 同じ動きでもふりまわされることが少ないのである。』
   パスカル

 物事が何かおこるときに、その物事の規模が
大きいほど、およぼす影響の範囲も大きくなっていきます。
そして、そんな出来事に、振り回されるのは
その中心にいる人ではなく、周囲にいる一般市民であり
消費者であったりするということです。
 世界同時金融不況といわれていても、
その原因の中核にいる人たちは、お金に不自由することもなく
贅沢な生活を送っていて、
結局、それに振り回されているのは、
権力も財力もない市民であり、労働者であるわけです。
派遣切りされて、リストラされて、路頭に迷い
自殺してしまう人がいる一方で、何千万もの報酬をもらって
自分の責任はないように、人件費削減といって
給与を下げ、リストラを指示する人がいるわけです。
その矛盾を感じている人は、多いでしょうが、
当事者には、意識は薄いといえそうです。
仕方がないと言い訳して保身に走って贅沢している
そんな人に憎しみを感じるような人が出てきてしまうのも
哀しいけれども避けられないのかもしれません。
 富を得た人には、それに見合った責務が
与えられているということに気付けるか否かで
その人生の是非が最後のときに大きく変わってしまう
実は、富は永久の魂の旅路のなかでは、
リスクになることの方が多かったりするようなのです。
 聖者や賢者に、物質的な富を得た人が
皆無なのは、それを示唆しているのだという
ことでしょう。
 変化の流れのなかにあったら、
その中心に向かうことが、影響が少ないという
ことなのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 01:31| 静岡 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月17日

歴史を読んだ者ならだれでもそう思うことだが、

『歴史を読んだ者ならだれでもそう思うことだが、
 不従順は人間の根源的な美徳である。
 進歩は不従順によって達成された。
 不従順によって、反逆によって、達成されたのだ。』
   オスカー・ワイルド

 歴史観にも、いろんなものがあります。
この言葉は、ひとつの歴史観を示しているもので
あるといえるでしょう。
納得するひともいれば、納得できない人もいるのでは
ないでしょうか。
 従順である方が美徳ではないのか。
そう思う人もいると思いますし、その意見ももっともで
あるといえるでしょう。
進歩は、何も不従順でなくれも達成されていると
いう人もいるのではないでしょうか。
 言葉とは不思議なもので、同じ言葉であっても
受け取る側によって、違う意味になってしまうことが
あったりします。言葉は符号であり、形式であり、
象徴であって、本質とは異なる次元のものであると
いえるのかもしれません。
 さて、歴史を読むといったとき、皆さんが目にするものは
何でしょうか、教科書、小説、記録文書、映画、ドラマ、
いろいろあるかとおもいます。
しかし、それはすべてが伝聞情報であったりします。
つまり、リアルに感じることのできる歴史は、
今、生きているこの瞬間であり、自分の周辺だけであったり
するわけです。当然、伝聞情報には、脚色があり、欠陥があり
ねつ造があるものです。関わった人の主観がどうしても
入り込んでしまいます。ゆえに多様な歴史の解釈が
生まれてしまうことが多々あるわけです。
 さて、人類の進歩は、不従順と反逆によって
達成されたのか、不従順は美徳なのか。
それは、不従順とは何か、反逆とは何か、美徳とは何か
という問いでもあるのかなという気がします。
不従順や反逆を、個性であり、主張することであると
捉えるなら美徳かもしれません。
しかし、裏切りであり、騙しであり、欺瞞であるとしたら
とても美徳とはいえないでしょう。
 どちらの解釈も可能であったりするのが、
言葉や文字の難しいところであったりするのかもしれません。
人が言葉を使うときに、言葉には意味が出てくる
言葉そのものの存在というより、人の使う言葉ということで
意味があるのだといえるでしょう。
従って、使う人の想いが、言葉にはかかわってくると
いうことではないでしょうか。
誰がいった言葉だから、
そう意味が捉えられる、そんなものでもあるように感じます。
posted by 清水の伏竜. at 12:53| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月16日

立派な目標は立派な手段を必要とする。

『立派な目標は立派な手段を必要とする。
 というのは、非難の余地のある手段は、
 しばしば眼中にある目標を曇らせるからだ。』
   ネール

 手段を選ばないという人に対する
警告の言葉ともいえるかもしれません。
目標に向かって、歩んでいくときに
さまざまな方法や手段があるなかで、
何を選択するのかは、その人の品性や知性、
倫理観や社会性に関わってくるといえるでしょう。
汚い手段でなし得たものは、
やはり汚いものでしかない。
そこに未来はないのかもしれません。
ゆえに、目的のための手段もまた
大切なものになってくるということでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 01:58| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月15日

宗教が人間をではなく、人間が宗教をつくるように、

『宗教が人間をではなく、人間が宗教をつくるように、
 憲法が民衆をではなく、民衆が憲法をつくるのである。』
   カール・マルクス

 宗教という概念は、確かに人のつくりだしたもの
憲法もまた、人のつくりだしたもの。
宗教に恩讐をもっていたマルクスにとっては、
宗教も憲法もおなじものであったのでしょう。
唯物主義においては、肉体が全て、精神は肉体の従属物に
過ぎないゆえに、暴力革命を肯定し、粛正もありと
なっていったともいえるでしょう。
ユダヤ教に裏切られ、キリスト教にも裏切られた
マルクスにとって、宗教は、人をつくるものではなく
人のつくりだした幻想に過ぎなかったといえるでしょう。
憲法もまたおなじように人のつくるものであるという
ことなのだということになるわけです。
人は、肉体的存在であり、精神的存在であり、
魂の存在であるなかで、マルクスの哲学は肉体的存在の部分に
強くフォーカスしたものとしてみるとわかりやすいのかなと
感じます。しかし、人は単に肉体的な存在に過ぎないわけでは
ありません。一神教の多くが精神的な存在の部分に
フォーカスそたものになっています。
憲法も、宗教も、人が、この世に生みだしたものです。
それは、この世の社会が、崩壊しないために、
生み出されたものだといってもよいかもしれません。
信仰と宗教とは、おなじではありません。
今の宗教という組織的なものでなくても、宗教がなくても
信仰はあるし、神も存在し、その真理も存在するのですから。
 未成熟であり、弱い、人が、その生活や社会を
維持するために、求め、つくってきたものが
宗教であり、憲法であるといえるでしょう。
何のためにあるのか、その本質を見失うと
どちらも誤った存在になっていってしまうことでしょう。
そうならないために、理想や夢は大切であり、
神の真理への希求も大切なのだといえるのでは
ないでしょうか。
posted by 清水の伏竜. at 11:18| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月14日

計画だけでは何もはかどりません。

『計画だけでは何もはかどりません。
 早まっていた種は芽ばえもしません。
 それにひきかえ忍耐と仕事は現実のもので、
 一瞬一瞬をパンに変えることができるのです。』
   リルケ

 行動することの重要さを伝えることばは
数多くあります。そんな中のひとつがこのことばだと
いえるでしょう。
計画倒れとなってしまうものは、
意外と多く存在していたりするようです。
もちろん計画は大切ですが、
計画に固執することほど無意味なものはないと
いったこともあったりします。
とくに長期の計画に、変更が利かないことで
多大な迷惑をおよぼしているものが
行政の事業には多かったりもします。
変更すること、中止することも、
重要であるということが受け入れられないような
計画や実施管理であれば行う意味はないと
いえるのかもしれません。

実際に作業し行動していくなかで、
忍耐と、仕事は、現実にあり、それは、
日々の生活に関わるものであり、
衣食住を支えていくものであるということでしょう。
計画などなくても、成せることはあるし
出来ることもあるのも
また事実であり、現実であることを
認めることも必要であるのだということ
ではないでしょうか。
posted by 清水の伏竜. at 09:24| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月13日

狡猾な人間が賢明だと見なされることほど、

『狡猾な人間が賢明だと見なされることほど、
 国家の害になるものはない。』
   フランシス・ベーコン

 狡猾さを、賢明さに、見せてしまうこと
それは、メディアのもつリスクなのかもしれません。
また、その逆もありえるでしょう。
人の正しい姿が、見えないことは、
いろんな問題を生むことになるのかもしれません。
この言葉のもっとも当てはまる人物が
ヒットラーなのだといえるかもしれません。
そして、その結果は歴史が語る通りです。
 日本の舵取りを担っている人々の
正しい姿を、国民はどれだけ知っているのでしょうか
国民の情報リテラシーの向上は、
国家の発展において、とても重要なことであると
いえるでしょう。
教育の現場においても、もっと情報リテラシーを
育むカリキュラムに力を入れることが
必要であるように感じます。
posted by 清水の伏竜. at 07:44| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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