2008年10月31日

おまえの肉体の中には

『おまえの肉体の中には、
 おまえの最良の知恵の中にあるより以上の
 理性がある。』
   ニーチェ

 肉体の中にある理性、
知恵の中にある理性よりも
大きな存在とは、
やはり神との繋がりの中での
存在としての理性ということに
なるのかもしれません。
 知恵は、そのベクトルが間違えると
理性的とは思えない行動を支えるような
ことにもなってしまいます。
普段から知性的といわれたり、
頭も良いといわれている人が、
まさかという感じの犯罪を犯すことが
あるように、知恵は必ずしも理性的とは
いえないのかもしれません。
 命の中に、その奥にある魂との
繋がりのなかにある神との関係のなかにこそ
理性的なものが存在しているのかもしれません。
 本能にも、2つあって、
人間の根元となる魂からくるものと
肉体や命などのこの世的な存在からくるもの
その違いは、神に向かうものか、
現世に留まるものか
その差であるといえるでしょう。
 殺生が悪いことであると感じるのは
魂からくるものであり、
食べたいというのは肉体からくるものであり
どちらを優先するのかが、
食生活にも影響してくるということに
なるのでしょう。
 聖者がみなベジタリアンであり禁酒者で
あったことが意味するものは明白なのだと
いえるのでしょう。
 良い人生とは何か、理性とは何か、
どこに基準をおくのかで、
変わってくるということになるのでしょう。
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2008年10月30日

人生において、一番大切なことは

『人生において、一番大切なことは
 自己を発見することである。
 そのためには、時には一人きりで
 静かに考える時間が必要だ。』
  フリチョフ・ナンセン

 自己の発見。自分自身を知る。
簡単なようでいて、とても難しいことです。
人生を歩んでいて、ふっと思うことが
何故、生きているのか、
これまでの人生って何だったのか、
これからの人生って何なのだろうか、
といった厭世的なことで
あったりします。
 毎日、朝、会社に出勤して、仕事をして
帰宅して、食事して、家事をして、寝て、
また起きて、それが週の5日間連続していて、
土曜日と日曜日は、セミナーや講演会などに
出かけるか、洗濯をして着る物を確保するか、
疲労回復のために寝ている。
そんな感じで、1年が過ぎていってしまう。
その繰り返しのなかで、
何で生きているだろうかと
疑問に思うのはしかたのかいことのように
感じます。
 静かに考える時間は、
どのくらい必要なのでしょう。
おそらく、静かに考える環境も必要であるでしょう。
どんな環境で、どのくらいの時間
考えてみたら、自己を発見することが
出来るのでしょうか。
 どうも、これまでの人生で、
そんな時間と環境を確保出来たことは
なかったように思います。
そして、今後もそんな機会が訪れることが
あるのかどうか・・・・
 休みの少ない、休みの取りにくい
日本の企業社会、労働環境のなかで、
時間を作ることは、会社を首になるとか
評価が下がるといったリスクを覚悟でしか
出来ないことであったりします。
それは、評価が、労働時間と関連しているからで
あったりするわけです。
フレックスがあっても、利用すると評価が下がる
そんな会社が多かったりするのですから・・・。
男性が、育児休暇を使えないのも当たり前です。
使えば評価が下がる可能性が限りなく大きいのが
現実であったりするからです。
 そんな日本の企業や労働環境が
改善される日が、果たして訪れるのか・・・・
今の行政や政府、法的な体制では、
難しいように感じられます。
 自分のことを考えるということだけでも
社会のありかた、自分が置かれている労働環境や
社会環境を無視することが出来ない
そんな現実があったりするのではないでしょうか。
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2008年10月29日

義務を遂行し、理性が与えた法則に従って

『義務を遂行し、理性が与えた法則に従って
 行動することよりほかに、
 神をあがめる方法は断じてありえない。』
   リヒテンベルク

 神をあがめる方法について、
その真理を正しく理解している人は、
少ないのかもしれません。
 この世に生を受けた瞬間から、
神の目的は、はじまっています。
生まれた環境そのものが、神が喜ぶように
自らの魂を成長させるために
選ばれたものであるからです。
 義務をどう考えるのか、
理性の与えた法則をどうとらえるのか
その部分で神の悲しみを導くような
ことでは、それにしたがって行動することは
神をあがめることにはなりません。
神が求めることは、魂の求めることです。
魂の求めは、命や心の求めるものではない
その奥にあるものです。
心や命の求める欲望や幸せ、楽しみは、
魂の求めるものではないことがあります。
皆が楽しんでいるのに、どこか違う、
幸せといわれるけど、どこか違う、
欲望は満たされているのに何か違う、
そんな感覚があるのは、
それが、魂の求めているものではないからに
違いありません。
 人生は、魂の成長のためにある修行の場です。
魂の成長のために、
出家し、神や仏を求め修行する人がいるのです。
祈りも、神のための祈りであれば、
神は喜び、魂も成長していきます。
行動も、神のための行動であれば、
神は喜び、魂も成長していきます。
 神をあがめるというのであれば、
禁酒、禁三肉食、物欲や性欲、食欲に
縛られることなく、神のみを求めて、
自然と調和して生きることが基本であると
いえるでしょう。
魂の成長にも段階もあり、レベルもあります。
カルマの多さも、徳の多さも、人によって
異なります。その人の魂の状態、魂の育ってきた
輪廻転生の歩みの違いによって、
今の人生で、なすべきことも違ってきます。
少なくとも、人生を全うすることが、
最低限の神の願いでしょう。
でも、もし神をあがめたい、喜ばしたいので
あるなら、神の喜ぶことを感じ取って、
生きていくことが必要なのだといえるでしょう。
それは、時には、人の世においては、
厳しいものであり、何でそんな生き方をするのと
言われるようなことであるかもしれません。
しかし、神に喜ばれるのであれば、
人からのことなどは気にしてはダメだとも
いえるのです。
お釈迦様やイエス様の生き方は、
この世的には、賛美する人は少なかったのです。
でも、神や仏にとっては、最高の生き方で
あったということです。
 みなさんの生き方は、本当に魂の求めを
満たしているでしょうか。
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2008年10月28日

朝起きて気をつかうのはただ一つ、

『朝起きて気をつかうのはただ一つ、
 健康であり続け、楽しい思いをするために、
 きょうは何をしよう、
 ということであるようにするのです。』
   ヴォルテール

 朝、おきたときに、
どんな気持ちでいるのかが、
その日の暮らしを左右するのかもしれません。
何に気を遣うのか、
そんな気遣いの心得について、
いろんな方が語られています。
そのなかのひとつの言葉といえるでしょう。
 健康でありたい、
楽しい一日でありたい、
そんな願いをもって、朝を迎えるとき
今日は何をするのか、一日の計画を立てると
よいのかもしれません。
 朝、おきたあとの時間が、一番効率が良いとも
いわれます。
その時間に、すべきことはしてしまって、
あとは、ゆったりと過ごすというのもありでしょう。
しかし、サラリーマンにとっては
出勤前のひととき、出社がいやだなと思うようなときは
辛いものであったりします。
きっと、良いことがあるだろうと信じて、
気持ちを切り替えることが必要でしょう。
そんなとき、ひとりであると、なかなか気持ちの
切り替えが難しかったりするものです。
やはり、人はひとりでは生きていきにくいもので
あるのだといえるでしょう。
お互いを成長しあえる人、
愛し合える人、
尊敬しあえる人、
そんな人が、朝起きたとき、
近くにいてくれたら、きっと、素敵な朝を
迎えることが出来るのだろうなと
思ったりします。
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2008年10月27日

人生の悲劇的な点は、有限のはしごを

『人生の悲劇的な点は、有限のはしごを
 長く伸ばすことによって
 無限にまで
 よじ登ろうとする試みのうちにある。』
   タゴール

 人の能力には、限界があるもの
その限界を超えて、何かを行おうとしたとき
それが可能性をもった限界であれば、
飛躍することもあるでしょう
しかし、本当にギリギリの限界であったとき
その先には、大きな危険が待っているだけで
あるといえるのではないでしょうか。
そこには悲劇があるだけ。
よじ登って登れるものではなく
ただ落ちることが定められている
そんな領域に、アプローチすれば、
転落してしまうことは、最初から明白で
あったりするわけです。
 しかし、それをしようとしてしまう人が
いたりするわけです。
そこには、過信や傲慢、ゆだんや準備不足、
といったことがあったりするのでしょう。
自分の能力の見極め、状況の見極め、
可能性の見極め、消極的になってはダメでも
リスクを把握し、しっかりと確認することは
どんな時でも大切なことであるということでしょう。
それには、自分の独りよがりになってしまわないように
他人の助言を聞くことのできる心を
持っていることも大切です。
忠告や諌言を聞き入れることが出来ない人は
いずれ手痛いしっぺ返しにあうことになるでしょう。
チャレンジすることと、暴走することは
違うということを、認識しているかいなか、
冒険と無謀が違うということが
わかっているかいなか、
それが命運を分けるのかもしれません。
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2008年10月26日

どうにもならない事を

『どうにもならない事を
 くどくど言うのは恥だ。』
   ヴォルテール

 なんとかしなくちゃ、
 どうにかしなくちゃ、
 なんとかしろ、どうにかしろ、
 自分で思うこともあれば、
 他人に指示されることもある
 でも、どうにもならない、
 どうしようもない、
 そんなことが、あったりします。
 そんな、どうしようもないことに
 心を砕くのは、病のもとでしかありません。
 そのことをくどくど言うのは
 よい上司でもなく、よい友人でもなく
 無責任な悪人です。
 自分のなかで、くどくどしても
 体と心や病んでいくだけです。
 すぱっと諦めて、出来ないことは
 出来ないとしてしまうことが、
 最善であるということです。
 また、出来なかったことよりも、
 それを後にひき、くどくど言ったりする方が
 恥であるということです。
 恥ずかしいことは、とっとと止めましょう。
 それが、みんなの為だし、自分の為でも
 あったりします。
 もちろん、可能性が残されていたなら
 その可能性に集中していくべきでしょう。
 でも、可能性が皆無なことは、
 忘れるしかないということでしょう。
 人生をより充実したものにするために。
posted by 清水の伏竜. at 06:58| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月25日

忙しい世の中だが、

『忙しい世の中だが、
 過去の時間や、真実、美しいものに
 没入して味わうためには
 歩いて行くのが大切である。』
   大佛次郎

 いそいで、走って、
 かけていく
 そんなふうに、忙しく
 生きていく
 でも、なにかに没頭して
 それを深く追求していく
 それには、あせらず
 じっくりと、
 歩いていきていくことの方が
 よいのかもしれません。
posted by 清水の伏竜. at 22:44| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月24日

若い頃は、勝手気ままにピアノを

『若い頃は、勝手気ままにピアノを
 弾きまくるのが喜びだった。
 だが経験を積むに従って、
 決められた枠の中で曲を弾く方が、
 想像力を総動員しないと不可能なことだと気づいた。』
   E・アラン

 自由に演奏することの方が、
決められた枠のなかで演奏することよりも
たやすく、また想像的でもないということを
実感したという言葉のなかに、
教育の本当のあり方を感じさせられます。
 よく子どもたちに自由にさせて、
伸び伸びと育てるのが良いということが
言われますが、その自由というのは、
好き勝手では、実は逆に子どもを育てることには
ならないということでもあったりすると
いえるでしょう。
 一定の決められた枠は、必ず必要であり、
その枠を守らせることも重要であることを
忘れてはならないということだといえるでしょう。
子どもに、その枠を意識させる必要はないかもしれません。
しかし、子どもを導く大人は、きちんとその枠を
意識していて、子どもたちが、その枠を
はみ出さないようにしてあげることが
重要であるといえます。
 最低限のルールは守るということだと
いっても良いかも知れません。
子どもは、世の中のことを知らない状態にあります。
自分の世界だけで発想しようとしても、
その発想は小さい世界のなかに留まってしまいます。
教え導くことで、小さい世界の枠を越えて
大きく視野が広がっていくことになります。
子どもの自主性は、しょせんは、その子どもの
小さい世界の中でのことに過ぎないということを
忘れてしまっては、子どもは育たないということです。
導き方には、いろんな方法があるといえるでしょう。
 訓練といえるような経験も時には必要であると
いえるのではないでしょうか。
我慢することや、耐えることを知らない人は
大きく成長できないでしょう。
そして、そのようなことを身につけるのは
子どものころの方が、良いといえます。
 ”鈍感力”や、”へっちゃら力”を
育むことが、子どもの未来の可能性を
大きくするのだと思います。
posted by 清水の伏竜. at 07:47| 静岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月23日

芸術の使命は、自然を模写することではない、

『芸術の使命は、自然を模写することではない、
 自然を表現することだ!』
   バルザック

 芸術、人間特有の文化的な行為ですね。
芸術は、人の心を育成し、感性を育むものでもあり
また楽しむことを体感させれくれるものであり
考えさせられるものでもあったりします。
芸術の使命が何なのか、
やはり人の成長のためであり、
神を喜ばせるためでもあるといえるのでしょうか。
そんな中で、自然をモチーフにした芸術は
自然を模写しているようではダメで、
自然を、感じたままに表現することこそが
必要だということでしょう。
 もの毎について、模写するマネをすることは
最初の一歩であると言えます。
模写から、自らの表現へと進んで
はじめて芸術といえるのかもしれません。
マネからはじめて自己表現になってこそ
その道の達人、プロ、専門家といえるように
なっていくのと同じであるのでしょう。
 何かを表現するためには、
表現するための感性や情報などを、
豊富にもっていることが必要になってきます。
より豊かで深い人間になることが
必要であるともいえるのではないでしょうか。
posted by 清水の伏竜. at 05:49| 静岡 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月22日

小さな幸せをたくさん集めましょう。

『小さな幸せをたくさん集めましょう。
 大きな幸せがそうたくさんあるとは思えません。
 たくさんの小さな幸せを身近に拾ってご覧なさい。
 大きな幸せになりますよ。』
   清水雅

 幸せとは、何でしょう。
幸せな状態、幸せなこと、幸せな気持ち、
幸せな想い出、・・・
 幸せというものが、どんなものなのか
いろんなイメージや、いろんな考えが
あるように思います。
幸せなことについて、ひとつの考えが
語られた言葉です。
 小さな幸せを積み上げると
それは大きな幸せになるという
大きな幸せと小さな幸せ、
その違いって何でしょうか。
 幸せが、欲望の充足といったものであれば
大小があるのかもしれません。
心の充足であれば、充足感への自己感覚での
大小があるのかもしれません。
 でも、そもそも幸せには、
大小という比較自体に意味がないもの
かもしれません。
 ある人が、幸せだな といったとき
その様子をみている人の中には
本当に幸せそうだね と思う人もいれば、
いったいどこが幸せなんだ と思う人もいる
ことでしょう。
 幸せを、人のもつ普遍的な尺度で
計ることに、意味などないのかもしれません。
もし、絶対的な幸せの視点があるとしたら
それは、人と神との間だけに、定義できる
ものなのかもしれません。

 あなたにとっての幸せって何ですか・・・
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2008年10月21日

例えば、友達が転ぶ。

『例えば、友達が転ぶ。
 ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、
 そのつど自分の中で
 作りあげていきさえすればよい。』
    司馬遼太郎

 人の痛みを感じることができたら、
人が痛むようなことをすることなど
ないでしょう。
 いじめ、ハラスメント、・・・
詐欺、恐喝、さまざまな犯罪・・・
 人の痛みを感じることのできない
人の痛みを気にすることもない
そんな人によって、行われているのだと
いえるのではないでしょうか。
 子どもたちの社会でおこっている
殺人も、相手の痛みを感じられないことが
大きいような気がします。
 相手の痛みを感じることのできる
そんな心を育てるために、
そんな人間になるために、
どんなことをすればよいのか、
その答えのひとつといえる言葉かも
しれません。
posted by 清水の伏竜. at 07:41| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月20日

命を運ぶと書いて運命。

『命を運ぶと書いて運命。
 つまり運命とは、
 定められて仕方なくたどるものではない。
 みずからの命を自分の力で運んでこそ
 運命といえるのではないか。』
    大谷徹奘

 運命だから・・・

そんな言葉を口にして、何かの言い訳にしてしまう
そんなことはないでしょうか。

 運命には逆らえないのだから・・・。

そんな言葉で、何かをあきらめてしまって
いないでしょうか。

 確かに、運命というべきものは、
あるかもしれません。この世に生まれたときから
やがて死の扉をくぐることは決まっています。
その歩みも、生まれたときに、環境など
定まった条件もあります。
それは、神のみぞ知る自分の舟が流れる
人生の川なのかもしれません。
しかし、その川の流れのなかを、どの様に
流れていくのかを決める船頭は、自分自身で
あるはずです。
自らが人生の川を変えることはできなかったとしても
人生の川をどう下っていくのか、
自分の舟を操っていくことはできるのです。
自らの命を運ぶ、その舵取りは、
自分自身が決めていることであるということです。
だから、自分が、どんな人生を歩むのかは、
自分自身によって決めているのだということに
なります。
 どんな風に人生を歩むのか、
魂の求めに耳を傾けながら、
進んでいきたいものですね。
posted by 清水の伏竜. at 07:58| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月19日

信用するなかれ、信頼は必ず守るべし

『信用するなかれ、信頼は必ず守るべし』
      ヴェーダの英知より

 コブラと農民のお話という逸話があることを
伺いました。

「農民が、道で、弱ったコブラと出会ったそうです。
 そのコブラが助けをもとめてきたとき、
 農民は、その懇願にほたされて、
 コブラを助けてあげることにしました。
 コブラは、助けられやがて元気になりました。
 元気になったコブラは、農民をその毒牙で噛んで
 殺してしまったということです。」

農民は、コブラを本当に助けるべきであったのでしょうか?
農民は、コブラを信用して殺されてしまったのです。

お釈迦様のお話に、ねずみと猫の逸話があるそうです。

「いつも、いつか食べてやろうとねずみを追いかけていた
 猫がいました。ある日、猫は人の仕掛けた罠に捕らわれて
 動けなくなってしまいます。
 いつも追いかけられていたねずみは、ここぞとばかり
 猫を囃し立てていました。
 そこに、鳥がねずみを狙ってやってきました。
 逃げ場のなくなったねずみは、猫と取引をします。
 鳥がいなくなるまで、猫のおなかの下に隠して欲しい、
 そのかわりに罠の縄を囓りきってあげるというものです。
 猫は、罠から助かりたかったので、その提案に
 同意して、ねずみを隠してあげました。
 やがて、あきらめた鳥がいなくなり、安全になったとき
 ねずみは、猫の下から出てくると、
 縄をかみきって猫を罠から解放してあげました。
 猫は、ねずみが約束など守らずに、逃げてしまうと
 疑っていました。しかし、約束をちゃんと守ってくれたことに
 感動して、ねずみに、“これからは友達として
 仲良くしていこう、もう食べようと追いかけたりしない。”
 と言いました。しかし、ねずみは、“友達になろうなんて
 お断りですよ、以前からの関係が、変わることなんて
 そうかんたんには無いでしょう。あなたの気持ちが
 いつ変わるかわからないのですから。”と、
 猫の申し出を断って逃げていきました。」

ねずみは、猫に食べられることなく、危機を脱したのです。
ねずみは、猫のことを信用はしていなかったのです。

このお話から、何を学ぶことができるでしょうか。
相手を信用することと、相手を信頼することは、
違っているのです。

相手を信用する必要はないし、信用すべきでもない。
でも、信頼は破ってはいけないし、きちんと守るべきである。

生きていくなかで、リスクに対応するため、
より良い関係を維持していくために、
必要な心構えについて、
私たちに教えてくれています。

よく、“信用していたのに裏切るなんて”とか、
“騙された”とか、いって憤ることがありますが、
それは、相手が悪いのではなく、自分が悪かったと
いうことです。
信用した自分の方に責任はあるのだということを
認識しておかなければならないということです。
また、騙しやすいスキをみせていた自分が、
相手に騙すという行為を許してしまったということなのです。
だから、そんなことにならない為にも
相手を安易に信用してはいけないということです。
でも、約束をしたら守らなくてはいけません
たとえ相手が嫌いな人や嫌なやつであってもです。
約束したことを守るのは、自分の信頼を守ることなのです。
相手がどうこうではなく、自分はどうなのか、
信義を守ることのできる人間であり得るのか
それが問われているということです。
信頼は守らなければなりません、守れなかったら
自分の価値を貶めることになるからです。
ねずみは、信頼を裏切らず、猫を信用していなかったから
後に、猫に食べられることもありませんでした。
農民は、コブラを信用して、信頼も守りましたが、
コブラに噛まれて死んでしまいました。
農民は、コブラを信用せずに、毒牙を抜いてしまってから
助けるべきだったのです。相手を殺すことが
出来ないようにしてから助ける知恵と慎重さが
農民には欠けていたということです。

本当に大切なことは、何なのか、
考えさせられるお話ですね。

〜・〜・〜・〜・〜

☆第3回 いきいき!フォーラム
〜人生の修羅場が、人をいきいき!させる〜
◆日時:10月19日(日) 14時30分〜17時
   (開場14時:懇親会:17時〜18時予定)
◆場所:江東区 森下文化センター 第一研修室 
 (都営新宿線・都営大江戸線「森下」駅A6出口徒歩8分、
  東京メトロ半蔵門線・都営大江戸線「清澄白河」駅A2出口徒歩8分)
◆参加費:一般 ¥1,000.−
    さわトントン会員 ¥500.−
(※懇親会の参加費用は、別途¥500.−です)
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2008年10月18日

道のありがたみを知っているものは、

『道のありがたみを知っているものは、
 道のないところを歩いたものだけだ。』
   大島亮吉

 道。
 
 いろんな道が、あります。
 すでに、先人が歩んだ道を
 歩んでいくことは、先人の苦労の上に
 可能なことであったりします。
 でも、道があることを当たり前と思って
 感謝することを忘れてしまっていることが
 多いようです。
 道なきところに道を築くことは、
 とても大変なことです。
 その歩みを経験した人は、
 すでにある道のありがたさを
 常に忘れることはないということでしょう。
 でも、そのありがたさの大きさを
 実感できなくとも、
 道を歩むとき、その道を築いてくれた
 先人に感謝の念をもって歩くことは
 できるはずです。
 そんな感謝の気持ちを、
 忘れずにいたいものですね。

〜・〜・〜・〜・
☆第3回 いきいき!フォーラム
〜人生の修羅場が、人をいきいき!させる〜
http://ikiikiforum.seesaa.net/article/107004366.html
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2008年10月17日

完全無欠という観念、

『完全無欠という観念、
 この願わしいものを、
 もはや均衡と節度にではなく、
 極端と過度の中に見ること
 これはもしかしたら、
 他日われわれの時代の特徴をもっともよく表わし、
 他の時代と区別する
 いちばん悪い点になるかもしれない。』
   アンドレ・ジイド

 社会、世界が、完全無欠であるというとき
それが、極端と過度という方向に定義される時代が
現代社会の現状であるとしたら、
均衡と節度という方向に定義されるべきものが
歪んでいるということなのでしょう。
そして、それは時代の評価において、
欠点として、未来の歴史家によって
語られることになるでしょう。
 金融市場の乱れが、日々話題にあがります。
その影響で、企業が倒産し、破産する人がでて
失業する人が出ています。
マネーゲームで、人の暮らしが左右されてしまう
この社会が完全無欠であると思っている人がいるから
金融市場にお金が集まるのかもしれません。
そうだとしたら、この社会は確かに
極端と過度の方向に流れているといえるのでしょう。
そして、それは決して誉められるべき姿では
ないといえる気がします。
貨幣経済、資本主義経済が、悪い姿に発展して
きてしまっているといえるのかもしれません。
しかし、そのことを指摘し、是正すべきという声が
あがってきません。
知識人にモラルや理想が無くなってしまったのかも
しれません。
 お金は、もともと単なる代用品でしかなかったはずです。
それ自体に意味も価値もなく、見えない信用を
形にしたものでしかありません。
なのに、それ自体に価値があるかのごとく
扱われるようになってしまったことが、
大きな問題であるような気がします。
 金本位制度に戻してみたらよいのかもしれません。
そうすればお金が実体以上に出回ることも
なくなるでしょう。
お金があっても、使わない、使えない、
そんな社会って、やはり不健全なのだろうと思います。
そして、マネーゲームも、不健全な経済活動では
ないでしょうか。
価値の創造は、お金で行うものではなく、
労働と知恵によってなされるべきものであると
いう気がします。



〜・〜・〜・〜・
☆第3回 いきいき!フォーラム
〜人生の修羅場が、人をいきいき!させる〜
http://ikiikiforum.seesaa.net/article/107004366.html
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2008年10月16日

われわれが、自分の得ようとするものに

『われわれが、自分の得ようとするものに
 達するには、
 まずその反対のものを
 経なければならないということは、
 われわれ人間の不完全さの一つである。
 われわれは罪悪をとおして、
 はじめて至福を目にするのである。』
   キルケゴール

 表面の言葉をそのまま解釈してはダメな
言葉というものがあったりします。
特に哲学や宗教の世界では、言葉の意味には、
その単語のもつ意味とは違ったものを
含んでいることが多かったりするものです。
この言葉も、そんな言葉のひとつでしょう。
 至福を得るためには、罪悪を通してでなければ
得られない。つまり罪悪は必要なものといえると
とれます。これを罪悪を肯定するものだと
捉える人が出てくるかもしれません。
しかし、この言葉は、罪悪を肯定するのではなく
罪悪というものが人の不完全さを示すもので
あり、罪悪は人の不完全さの表れであるという
ことを言っているに過ぎないとも捉えられます。
 至福を感じるためには、その反対がなければ
ならないという考え方は、光があれば陰があると
いうことに通じます。
しかし、光だけの世界があっても良いのでは
ないでしょうか。
すなわち、至福だけの世界があっても
構わないのではないかと。
しかし、そんな至福だけの世界が、
地上に現れることは、かなり未来のことでしょう。
天界においては、既に存在しているでしょうが、
その世界に入ることが出来る魂は、
カルマの解脱をなし得た魂だけであり、
それをなし得るのは、大変な道のりでも
あったりしますから・・・。


〜・〜・〜・〜・

☆第3回 いきいき!フォーラム
〜人生の修羅場が、人をいきいき!させる〜
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2008年10月15日

現代人の欠点は、

『現代人の欠点は、
 自分の職業に愛と誇りを
 もっていないことである。
 多くの人が職業を必要悪、
 呪うべき苦役と考えている。』
   ロダン

 自分の職業に愛と誇りをもてなくなったのは
近代になってからの方が多くなっているかも
しれません。
それは、職業が、奴隷のようなものに
なってしまっている部分があるからなのかも
しれないなと感じます。
 与えられた職場で、自分の全力を尽くすことで
充実感を得られることが、無くなってきたのは
職場自体が、魅力がなく、苦労しかなく
報われるという感覚を得られなくなっている
からなのだともいえるでしょう。
 自殺者が年間3万人をこえている日本社会では
過労自殺や過労死が増加の傾向のままであったりします。
それは、職場が、そこまで追い込むような
仕組みや体制になってしまっているからです。
企業にとって、従業員は奴隷のようなものに
なってきているのかもしれません。
使い捨て社員の時代になっているともいえるでしょう。
 職業に愛をもっていて、誇りをもっていても
職場には愛を感じされなく、誇りをもてない
そんな人が増えているのかもしれません。
 日本人の特性をいかした職場や経営を
放棄して、欧米で失敗だと評価されたシステムを
導入したバブル以後の日本は、
その結果として、従業員の活力を失わせ、
企業に対する愛も誇りも無くした社員をつくって
きたのだといえるでしょう。
そして、その状態は今も継続しています。
その状態が回避されたなら、
自殺者も減少していくのではないかと思われます。
 与えられた環境、職場で、出来ることを
完全燃焼するまでやっているのか、と言うことを
指摘する人が多いです。
そして、その指摘に対して、やっていると断言できる
人は少ないのも事実でしょう。
でも、その前に出来ることを完全燃焼するまで
行う気持ちにもっていけない環境があるということも
忘れてはならないのではないでしょうか。
人を追い込み追いつめるような職場環境に
耐えてなお力を発揮できる人は稀です。
そして、それが出来る人は、出来ない人にも
同じことを要求しているようです。
そこには、個々の存在価値や特性や気質を
大切にするとか理解するといったことはなく
同じ尺度でみんな測るという視点があると
いえるでしょう。
それは、まさに個の否定であり、
人格否定であるといえるのではないでしょうか。
そのような環境でのストレスに耐えられない多くの人は
うつ病になったり、ミスを犯したり、
自殺したりしてしまうのだといえるでしょう。
経営者のみなさんは、本人の責任だといって
自己責任を放棄しています。
そんな社会に、明るい未来はみえてこないでしょう。
まさに、意識革命、意識の転換が
社会全体に求められているといえるのかもしれません。

〜・〜・〜・〜・
☆第3回 いきいき!フォーラム
〜人生の修羅場が、人をいきいき!させる〜
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◆日時:10月19日(日) 14時30分〜17時
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2008年10月14日

いまこの瞬間のために生きよ!

『いまこの瞬間のために生きよ!』
   セネカ

 生きていることへの感謝。
そして、生きることの意味。
何のために生きるのか、生きているのか。
この問いは、いろんな人によって
考えられてきたものなのかもしれません。
さまざまな答えが、さまざまな人により
行われてきたようにおもいます。
 今、この瞬間のために、生きるのだという
言葉には、今の一瞬に価値があるという
ことにほかならないといえるでしょう。
この一瞬、生きていることに
意味を見出すことが、
生きていることに感謝し、生きることを
意識する。そんなことが積み重なって
人生が紡がれていくのかもしれません。


〜・〜・〜・〜・
☆第3回 いきいき!フォーラム
〜人生の修羅場が、人をいきいき!させる〜
◆日時:10月19日(日) 14時30分〜17時
   (開場14時:懇親会:17時〜18時予定)
◆場所:江東区 森下文化センター 第一研修室
    http://www.kcf.or.jp/morishita/map.html
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2008年10月13日

教師の主要な使命は、

『教師の主要な使命は、
 もろもろの意味を明らかにすることではなく、
 精神の戸をたたいてやることだ。』
   タゴール

 教えるということは、どういうことなのか
その基本について、語っている言葉です。
事実や結果など、覚えるような知識を
与えることが主ではなく、学ぶということが
どういうことなのか、考えること、
調べること、疑問に思うこと、想像すること、
推理すること、心のあり方など
精神の成長を促すように、導くことが
重要なことだということでしょう。
そのために、精神の戸をたたいて気づきを
与えることが必要になるわけです。
 気づきの機会や度合いは、人によって
様々に異なっています。
教師は、生徒を集団として考えずに、
個々のひとりひとりの人間として
一対一で向き合っていかなければダメだと
いうことです。
そのような教育が出来る環境に
学校をしていかなければならないとも
いえるでしょう。

〜・〜・〜・〜・
☆第3回 いきいき!フォーラム
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   (開場14時:懇親会:17時〜18時予定)
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2008年10月12日

死は誕生とまったく同じように自然である。

『死は誕生とまったく同じように自然である。
 ひょっとしたら、われわれにとって死が苦痛であるように、
 赤子にとって誕生は苦痛なのかもしれない。』
    フランシス・ベイコン

 この世という時空間での歩みは、
生によりはじまり死によって終わるものになっています。
この世を含む超時空とも呼ぶべき世界では、
一部分の期間でしかありません。
螺旋の時空を流れていくなかで、魂の成長をなしていく
やがて魂が生まれ出た神の領域に到達するまで、
この世に生まれ落ち、死して帰還する修行の時を
幾度となく繰り返すことになる。
そんな、この世での霊性修行の始まりである
生の瞬間は、たしかに修行のはじまりの苦が
感じられるのかもしれません。
でも、もしかしたら、成長のための歩みを
はじめられる喜びで満たされているかもしれません。
この世の歩みのなかで、カルマをどれだけ昇華できるか
カルマをどれだけ増やさずにいられるか、
徳をどれだけ積み上げられるか、
徳をどれだけ消化せずにいられるか、
それは、人生を歩み始めるときに、
決まったもの以外の部分で、どうなるのかと
いうことでもあったりするわけです。
 生まれる前に、カルマが増えてしまうこともわかっていて
でも、その生まれしか選べない魂の成長度合いがあり、
出来るだけ、カルマを昇華でき、徳を増やせるように
考えて人生を選び、生を受けてくるわけです。
だから、ただ生き抜くだけでも、魂は成長します。
でも、カルマの度合いと徳の度合い、
更なる魂の成長の有無は、生をうけた後の
人生の歩みの内容にかかってくることになります。
死の扉をぬけたときに、人生の結果を知ることに
なるわけです。そのときその人生を後悔するのか
良かったと感じるのかは、魂の成長のあとと
カルマと徳の変化によって異なることになるでしょう。
そして、人生の意味を、また認識しなおすことになり
転生できる先の条件を認識することになるわけです。
その決定は、神によりなされ、神のみが、
示すことの出来ることであると同時に、
自分の歩んだ人生の結果により定められるものでも
あるわけです。
人生を、どういきるのかは、
自分の魂が、どう成長できるのか、
それを感じて、生きていけるのか
ということが、大切であり、究極の目的であったり
するわけですが、この世の誘いや欲に流されて
なかなか、究極の目的に向けて歩めなかったりします。
そして、死後に後悔することになるわけです。



〜・〜・〜・〜・
☆第3回 いきいき!フォーラム
〜人生の修羅場が、人をいきいき!させる〜
◆日時:10月19日(日) 14時30分〜17時
   (開場14時:懇親会:17時〜18時予定)
◆場所:江東区 森下文化センター 第一研修室
    http://www.kcf.or.jp/morishita/map.html
 (都営新宿線・都営大江戸線「森下」駅A6出口徒歩8分、
  東京メトロ半蔵門線・都営大江戸線「清澄白河」駅A2出口徒歩8分)
◆プログラム 
1)
「”極限”の先にある世界〜レーサーやアジアの修行で見えたもの」
2)さわとん トーク
「2007年2月15日〜呼吸が止まりそうになった日」
3)いきいき!体操 by 本多慶吉氏
 (TBS系花まるマーケット出演:健康運動指導士)
4)対談 & 質問コーナー
「個人と、日本のホントのいきいき!に必要なこと」
◆定員:50名(応募フォームより申し込み要。先着順)
◆参加費:一般 ¥1,000.−
    さわトントン会員 ¥500.−
(※懇親会の参加費用は、別途¥500.−です)
posted by 清水の伏竜. at 22:38| 静岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする