2009年11月22日

事を行なうに、いつから始めようかなどと

『事を行なうに、いつから始めようかなどと
 考えているときは、すでに遅れをとっている。』
  クインティリアヌス

 いつから、はじめよう。
そうおもうことは、意外と多いのでは
ないでしょうか。
でも、そうおもっていると、
もし何か競いあうことであったら、
あいてに遅れをとってしまうということです。
確かに、そのとおりであるといえるでしょう。
 でも、何かしなければならないことが
あるとき、いつからはじめようとおもうことは
よくあるとおもいます。
そして、そうおもうことは、
いつまでにしなければならないという制約が
ないことが多いのではないでしょうか。
誰かから、いつまでにやってという
制約があるようなことであれば、
いつからはじめようと考えることも
ないようにおもいます。
つまり、いつから始めようとおもうより
いつまでに完了させなければならないと
おもうようにすれば、はじめやすいとも
いえるでしょう。
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2009年11月21日

私個人の考えでは、用心深くするよりも、

『私個人の考えでは、用心深くするよりも、
 むしろ断行したほうがいいと思う。』
   マキャヴェリ

 マキャヴェリズムという言葉があるような
人物の残した言葉は、用心深くするより
断行した方がよいというものです。
用心深くすると、どうしても断行できなくなって
しまうものです。
用心深さは、躊躇さを生み出します。
そして、躊躇は、停滞につながっていきます。
何かを成し遂げようとするとき、
躊躇していては、何も出来なくなってしまう
ということでしょう。
だから、思い切って断行する方がよい
ということになるわけです。
もちろん、用心深さは必要です。
リスクを考えることも大事なことです。
しかし、ほどほどにしないと、
いつまでたっても前に進むことは
出来ないということになるでしょう。
思い切って実行することの方が、
何かを生み出すことができるということです。
だから、迷っているなら、躊躇しているなら
断行した方がよい。
そういうことなのだといえるのでしょう。
勇気をもって、一歩前に。
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2009年11月20日

ひとは、ひとりぼっちで、死ぬであろう。

『ひとは、ひとりぼっちで、死ぬであろう。
 だから、ひとりぼっちであるかのように、行為すべきである。』
    パスカル

 この世の人生の最後、ひとりで逝くことは
確かであるのかもしれません。
でも、そうだからといって、ひとりぼっちで
あるように行為すべきなのか、
この言葉は、責任というもの、誇りというもの
自尊心というものについてのひとつの見かたを
語っているのかもしれません。
ひとりぼっちであるかのように行為すること
それは、他人まかせにしないこと、
自分のことには自分で責任をもって、
自分の力で行っていくこと
その必要性と大切さを示していると
考えられるでしょう。
 人は、両親やその先祖の存在があって、
この世に生まれてきます。ひとりでは生まれてもこれず、
人生をはじめられもしないのです。
そして、ひとりでは成長していくことも
生きていくことも難しい存在であったりします。
この世を去るときに、ひとりであるかもしれません。
しかし、そこに至るまでに、多くの人との絆や縁に
支えられていることでしょう。
そのことへの感謝を忘れてはいけないとも
いえるでしょう。
 ひとりぼっちで逝く覚悟は必要です。
でもそれは、孤独で生きることを意味するのでは
決してないこともいえるでしょう。
常にひとりの存在であること、自分を意識する
そのことの大切さを忘れることなく、
まわりの人に、関わる人に、感謝の気持ちを
もっていること、そして、その心のもとで
行動していくことが、大切であるように感じます。
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2009年11月18日

しだいに高くそびえてゆく建物を見る喜びは、

『しだいに高くそびえてゆく建物を見る喜びは、
 たとえ今までのところ、
 その建物にわずか一粒の砂を運んだにすぎない人でも、
 必ずや心の渇きをいやしてくれるはずである。』
   ドストエフスキー

 ほんの小さなことであっても。
参加することができたなら、喜びを分かち合える
高く大きく成長していくものがあり、
その成長に、ほんのちょっと援助することが
出来たなら、その成長のさきに訪れるゴールを
一緒に喜び、その成果を分かち合うことが
出来るということでしょう。
だから、気になることがあったら、
ほんのちょっとでも参加してみることが
よいということでしょう。
 この言葉を、あることを象徴するものと
考えるのであれば、高くそびえてゆく建物が
成功や幸福を示すのであれば、
それを築くために、わずかでも参加したなら
一緒にその成功や幸福を分かちあえる
ことになるともいえるでしょう。
 小さなことしかできなくても
その小さなことが出来ることが
とても大切なことであるということ
小さなことでも行うことに
大きな意味や価値があるということ
だから、どんなに小さいことでも
やれることであれば、
やりたいと思ったなら
行っていこうということでしょう。
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2009年11月17日

苦しみは人間の偉大な教師である。

『苦しみは人間の偉大な教師である。
 苦しみの息吹のもとで魂は発育する。』
  エッシェンバッハ

 真理を解き明かす言葉のひとつと
いえるかもしれません。
苦しみが、なぜやってくるのか、
それは、まさにカルマの解消のためであると
いえるでしょう。
すなわち、それは魂の成長、浄化であると
いうことです。
苦しみは、おおきなチャンスであるということです。
それを、乗り越えた先には、
成長と恵みが、まっているともいえるでしょう。
 苦しみに出会わない人生など
ありません。
 出会ったときに、それをどうとらえて
どのように対するのか、
それによって、その後の人生は、
おおきく変化していくのだといえるでしょう。
 偉大な教師として捉えることが出来るなら
大きな成長を得ることができると
いうことでしょう。
 何事も、前向きにとらえ、
プラス指向で、考えていくことのできる
心をもてるかどうかが、
問われているのだともいえるでしょう。
 ひとりでは難しいなら、
支えてくれる人と一緒に、歩んでいけばよい
そんな人がいる人は幸せだとおもいます。
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2009年11月16日

他人の知識で物識りにはなれるにしても、

『他人の知識で物識りにはなれるにしても、
 私たち自身の知恵によってでなければ
 智恵者にはならない。』
   モンテーニュ

 知識と知恵の違いについて
語った言葉です。
知恵者になるためには、何が必要か
それは、自分自身の知恵をつかえるように
なることが大切であるということです
知識も大切ですが、物識りになれても
知恵者になれるわけではない
まさに、評論家になれても
変革者にはなれないということであり
主体的市民にはなれないということだと
いえるでしょう。
そして、成功者にもなれないと
いうことになるかもしれません。
 使える、使いこなせる知識こそが
役立つものであり、知恵であると
いうことでしょう。
多くの知識より、ひとつの知恵、
それが、おおきな力となると
いうことでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 04:02| 静岡 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月15日

自分の行いがばかげている人に限って、

『自分の行いがばかげている人に限って、
 まっさきに他人を中傷する。』
   モリエール

 他人を中傷することは、
自分のおろかさを世に示すようなもの
ということです。
自分の行いをきちんと見極めることのできない
曇った目をもっているから
他人のことを中傷することしか
出来ないのかもしれません。
 他人は、自分の鏡である部分もあたりします
他人を中傷することは、自分を中傷すること
因果応報という言葉の通りに、
他人への行いは、いずれ自分に戻ってくる
愛情なき行為は、マイナスとなって自分に
かえってくるということでしょう。
また、そんな愚かな行為をする人は
結局は、そんな愚かな人物であるということ
なのだともいえるでしょう。
 他人の良いところを引き出すことが
自分をも成長させてくれる
そういうことだともいえるのでは
ないでしょうか。
posted by 清水の伏竜. at 23:14| 静岡 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月14日

「明日は、明日こそは」と、人はそれを慰める。

『「明日は、明日こそは」と、人はそれを慰める。
 この「明日」が、彼を墓場に送り込むその日まで。』
   ツルゲーネフ

 明日があると思っているだけでは、
明日は永遠に訪れることはない。
墓場にいくまで、同じ言葉を繰り返すだけ、
慰めているだけでは、何も変わらない。
この言葉は、明日はあるが、それに頼って
今を慰めていてはだめだということを
伝えてくれています。
明日は、今の延長上にあるのであって
突然訪れるものではないということです。
今こそ、今だから、そう言えなければ、
明日はない。
そういうことだと言っているのです。
明日でよいと思うことも確かにあります。
しかし、それは、今やらねばならないものが
あって、それを先にやる必要があるから
明日でよいということであって、
今やらなくても良いということではない
というわけです。
 明日につながる今を、どう生きるのか
どう今このときに、行動するのか
それが、明日こそという言葉の前に
必要なことだといえるのでしょう。
posted by 清水の伏竜. at 23:31| 静岡 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月13日

チャンスは備えある心だけに微笑む。

『チャンスは備えある心だけに微笑む。』
  ルイ・パスツール

 チャンスは、どうすれば手に入るのか。
チャンスをつかんで、成功した人に
尋ねる人は多いのではないでしょうか。
そんな問いへのひとつの答えが、
この言葉だといえるでしょう。
 女神は、備えある心に、微笑むと
いうことです。
備えのない心には、微笑まないということ
になります。
 では、備えとはなにでしょう。
どんな備えが必要なのでしょう。
きっと、この答えをうけた人は、
そんな疑問をもつのではないでしょうか。
 備えとは、結局は、直向きで、純粋な
物事を成すために、努力する姿勢であり、
自らビジョン、夢を描き、
そのビジョン、夢に向かって、
行動しているということであると
いうことのようです。
 求めている人でなければ、
受け入れる備えは出来ていないという
ことだといえるでしょう。
その求めが強く、求めを自ら得るために
歩んでいることが、備えであると
いうことなのだといえるでしょう。
そんな備えがあるから、チャンスの風が
近くを通ったとき、それに気づくことができ
それを捉えることができるのだと・・・。
みなさんは、備えの心、もてますか・・・。
もう、もっていますか・・・・
posted by 清水の伏竜. at 08:07| 静岡 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする